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PHOTOGRAPHERS/EIKO YAMAZAWA ·抽象写真 ·UPDATED 2026.07
EY
§ 301 — Photographer Index — 抽象写真

山沢栄子

Eiko Yamazawa 1899–1995
Country日本 Period1930 — 1980s Channel写真史の論点 · 抽象写真
Abstract

山沢栄子(Eiko Yamazawa)は、代表作〈What I Am Doing〉で知られる日本の抽象写真家。1920年代にコンスエロ・カナガのスタジオで写真を学び、長い職業写真の経験と写真集『遠近』を経て、撮影前に物体・色・光を構成する抽象写真へ進んだ。なぜ写実から離れ、自分が感じた現実を写真にしようとしたのかを、本人の言葉と作品からたどる。

この写真家が変えたこと

山沢栄子は、写真を外界の記録だけでなく、撮影前に物体・色・光を構成し、写真用品や過去の自作まで撮り直す制作へ広げた。代表作〈What I Am Doing〉では、写真を作る材料と手順そのものを主題にし、日本の抽象写真で早い時期から自己参照的な表現を実践した。

Keywords What I Am Doing 構成写真 抽象写真 カラー写真 職業写真 近代写真
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 03 写真家になるまで

山沢が最初に目指したのは画家だった。子どもの頃から日光写真やボックスカメラに親しみ、女子美術学校卒業後も油絵と写真の研究を続け、大阪YWCAでは集合写真の撮影を手伝っていた*1。卒業前後には平塚らいてうの運動に関わる会合へ参加し、大阪YWCAでは浅井春子を通じて働く女性の自立に関わる活動にも接していた*11。1926年、絵画を学ぶためサンフランシスコへ渡り、その年に父を亡くした後、カメラ店の紹介でコンスエロ・カナガと出会った*11。カナガのスタジオで撮影と暗室の実務を学び、ニューヨークではニコラス・マーレイのスタジオでも働いた。この経験を経て、山沢は写真を職業に選んだ*11。1929年に帰国し、1931年に大阪で自らのスタジオを開いた*1。戦災後も京都のPXや大阪三越の写真室で仕事を続け、1950年に山沢写真研究会を始め、1952年に再び商業写真スタジオを構えた*1。1955年にはカナガに招かれて再渡米し、約半年ニューヨークに滞在してイモジェン・カニンガムも訪ねた*1。商業写真の仕事を続けながら個人制作を増やし、1960年にスタジオを閉じた*13。1962年の写真集『遠近』は、後の抽象表現へ向かう作品群として位置づけられている*4

§ 02 / 03 抽象写真と〈What I Am Doing〉

山沢栄子とアメリカ近代写真――形と光をどう見たか

山沢はアメリカで、カナガのスタジオとマーレイのファッション写真の現場に入り、同時代の近代写真に接した*11。2019年回顧展は、彼女の形成を検討するため、スティーグリッツストランドアダムスウェストン、カニンガムらの近代写真と、ビートン、ローリングス、アウターブリッジのファッション、広告写真を並べている*2。山沢が直接学んだカナガは、近代的な造形と社会的な主題の双方を扱い、1932年にはウェストン、カニンガム、アダムスらとGroup f/64の最初の展覧会に参加した*12。ウェストンやカニンガムは、植物、身体、日用品を輪郭、表面、光、形から捉えた*10。山沢は後年、器、果実、石、レンガ、写真用品を撮りながら、物を動かし、色や反射を加え、過去の自作まで撮影材料にした*3。後期作品でも、形や質感をはっきり見せ、撮影前に配置や照明を決めることが重要になった。とはいえ、1920年代の経験と後期作品の間には長い時間があり、山沢は1950年代以降、自分自身の写実への疑問と実験を通じて抽象へ進んだ*11

山沢栄子はなぜ抽象写真へ向かったのか

抽象への移行は1950年代から段階的に進んだ。山沢は1952〜53年に写真を抽象表現の手段として使い始め、1955年の再渡米後に個人制作を強めた*11。その頃、自分が本当に何を写そうとしているのかを問い、自分自身を深く見直す必要があると書いている*16。後年には、事実を追うことだけではなく、人間と写真の関係をどう考えるかに関心があり、「カメラで美術ができないか」と長く考えていたと語った*16。山沢は日本画を学び、卒業後も油絵と写真を並行して研究し、1921年に『栄子画集』を刊行、晩年にはペーパーコラージュも発表した*1。絵画を捨てて写真へ移ったという単純な転向ではなく、写真を記録だけに限らない関心が続いていた。カメラは目の前のものをすべて写してしまうという問題に対して、山沢は自分にとって本当のものだけが残る写真を求めた*16。1960年には写実的表現を過去のものとし、抽象的な方法が自分の精神を動かす状態を「鮮明な現実」と表現した*16。1982年にも、日々の生活から得た人間への理解を表現へ到達させたいと書き、自作を写真による表現の実験と呼んでいる*16。その後の〈What I Am Doing〉では、配置、反射、色、自作写真の再撮影を使って、写実から離れた写真表現を続けた*3

写真集『遠近』――写実から抽象への転換

『遠近』には、後期の〈What I Am Doing〉に先立つ1950〜60年代の実験が現れている。東京都写真美術館の回顧展は、1950年代から続く造形実験をたどり、『遠近』を1970〜80年代の作品へ至る前段階として展示した*3。《Still Life from Far and Near》(1961年)では、器や果実が近接して置かれ、形と配置が画面の中心になっている*2。国立新美術館のArt Commonsも、同展が戦前のポートレート、1960年代の初期抽象、1970〜80年代の作品を通じて山沢の形式実験をたどる構成だったと紹介している*5

〈What I Am Doing〉の技法――配置、光、反射、色

〈What I Am Doing〉では、撮影前に物の位置、角度、光を決める。東京都写真美術館は、このシリーズに写真用品や過去の自作を撮影した作品が含まれ、山沢が配置、角度、光を変えながら実験を続けたと説明している*3。The Third Gallery Ayaの英語略歴は、1980年代の仕事を現在でいう「constructed photography」に近いものとして紹介している*8。何をどこに置くか、どの面を光へ向けるか、どこを重ね、隠し、透かすかが画面を決める。東京都写真美術館は、晩年の鮮烈なカラー作品を当時の日本では例の少ない表現として紹介している*2。1986年の《透明な青》はダイ・トランスファー・プリントで制作された*6。《透明な青》では透明な色面と不透明な面が重なり、色そのものが画面の構成要素になっている。

〈What I Am Doing〉の意味――自作写真を再び撮る

〈What I Am Doing〉では、写真用品と山沢自身の過去の写真が撮影素材になった*3。《What I Am Doing No.8》(1980年、1986年プリント)は、2019年回顧展に出品された*2。画面に写っているのは1976年の自作写真集に載ったページを丸めたもので、元の写真自体がカラーフィルターやライトボックスなどの写真用品を撮った作品だった*13。写真用品が写真になり、その写真が写真集のページになり、さらにそのページが再撮影されて別の写真になる。こうして《No.8》では、完成した写真だけでなく、撮影、写真集への掲載、再撮影という過程まで作品の中に入っている。

商業写真と肖像の経験は後期作品にどう残ったか

山沢は長く人物や商品を撮る仕事を続けた。そこでは、背景、姿勢、物の位置、照明を撮影前に整える必要がある。〈What I Am Doing〉でも、配置と照明が画面の大きな部分を決めている。Apertureの研究は、山沢がカナガとマーレイのもとでスタジオ運営とポートレートを学び、人物写真を実験の場として経験した時期を重視している*9。山沢自身は、良い肖像とは被写体の内面を捉えた写真だと考えていた*16。後期に対象が人から物へ変わっても、目の前の姿をそのまま写すだけでは終わらず、自分が何を感じ取ったかを写真にする姿勢は続いた。職業写真と〈What I Am Doing〉に共通するのは、撮影前に配置と照明を整えることだ。ただし、後期作品では人物や商品を見せるためではなく、形、光、色の関係を作るために使われた。

§ 03 / 03 位置づけと再評価

山沢栄子はなぜ日本写真の主流と異なって見えたのか

山沢は1931年に大阪で自分のスタジオを開いた*1。東京都写真美術館は、山沢が日本写真の主流とは異なる方法で制作を続け、晩年の鮮烈なカラー写真は当時の日本に類例がなかったと紹介している*2。戦前のポートレートから『遠近』、〈What I Am Doing〉まで、山沢は人物、物体、写真用品へと対象を変えながら、形、配置、光、色を使う実験を続けた*3。この制作では、写真で形、色、光をどう構成するかという問題が中心になった。

なぜ山沢栄子は再評価されたのか――展覧会と海外評価

山沢の海外紹介は1980〜90年代から続いていた。1987年のLehigh University Art Gallery「Japanese Women Photographers」や1998年のVisual Studies Workshop「An Incomplete History: Women Photographers from Japan 1864–1997」に作品が含まれていた*1。1987年にはドキュメンタリー『High Heels and Ground Glass』に出演した*1。2019年の生誕120年回顧展は、戦前のポートレート、1960年代の初期抽象、〈What I Am Doing〉を同じ展覧会で扱った*2。同展は、山沢が接したアメリカ近代写真とファッション、広告写真も並べ、彼女の表現形成を日本写真史の内部だけで説明しない構成をとった*2。2021年の「The New Woman Behind the Camera」では1940年代の人物写真が国際的な女性写真家史の中で紹介された*7。同年、『The New Yorker』のピーター・シェルダールは、山本安英との人物写真を演技と撮影の協働として評価した*14。写真集『遠近』も女性による歴史的写真集をたどる『What They Saw』に収録され、FOMUのレビューで見開きが紹介された*15。2024年にはApertureがカナガ、マーレイのもとでのスタジオ経験を詳しく取り上げた*9。2025年、滋賀県立美術館「BUTSUDORI」では《物体》が「かたちなるもの」の章に置かれ、山沢は日本写真における抽象表現の先駆的な存在として、坂田稔、恩地孝四郎、岩宮武二らと並べて紹介された*17。同年、台北の「To Sway and Surround: Japanese Female Abstraction」では、田中敦子、木下佳通代らとともに、日本の女性抽象表現の文脈に置かれた*18。こうして近年の展覧会では、女性職業写真家の先駆者という位置に加え、肖像、写真集、モノを撮る写真、抽象写真、日本の抽象表現という複数の文脈から作品が紹介されている。

山沢栄子は写真の何を変えたのか

山沢の写真史上の意味は、日本で早い時期から抽象写真を実践し、写真を作る材料や手順まで作品にした点にある。〈What I Am Doing〉では、物体、色、光、写真用品、過去の自作が撮影素材になった。撮影前の配置と照明、完成した写真の再撮影までが作品の内容に含まれている。現在では、撮影前に画面を構成し、過去の自作を次の作品の素材にする自己参照的な写真を早くから実践した仕事として読み直されている*11。山沢は、抽象的な方法が自分の精神を動かし、そこに「鮮明な現実」を感じると書いていた*16

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • コンスエロ・カナガ ― 1920年代のサンフランシスコで山沢を助手として迎えた写真家。1932年にはウェストン、カニンガムらとGroup f/64の最初の展覧会に参加した。
  • イモジェン・カニンガム ― 1955年の再渡米時に山沢が訪ねた写真家。植物、身体、工業的対象を形と質感から捉えた西海岸近代写真の比較対象。
  • ポール・ストランド ― 2019年回顧展で、山沢が接した1920年代アメリカ近代写真の視覚環境を考える比較対象として紹介された。
  • エドワード・ウェストン ― カナガが参加した西海岸近代写真の中心作家。物や自然物を形、表面、光として扱う仕事は、山沢の造形を考える比較対象になる。
Movements / Contexts
  • モダニズム ― 1920年代のアメリカ滞在と、後年の回顧展が検討した近代写真の視覚環境。
  • 抽象写真 ― 1950年代からの形式実験と〈What I Am Doing〉を位置づける中心的な文脈。
  • 構成写真 ― 撮影前に対象の配置と光を決め、画面を作る後期作品の方法。
§ REF さらに読む
山沢栄子 私の現代
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私は女流写真家――山沢栄子の芸術と自立
山沢栄子 / ブレーンセンター / 2019年(復刻保存版)
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§ SRC 出典