アンセル・アダムスAnsel Adams

アンセル・アダムスは、ヨセミテとアメリカ西部の風景を、露光・現像・プリントの精密な判断によって構成した、目の前の自然を光と階調の言語へ変換した写真家。ゾーンシステム、Group f/64、スティーグリッツとの関係、音楽的な「演奏」としてのプリント、ベイエリア写真史、環境保護とマンザナー写真を通して、写真が絵画の模倣から離れ、自然を自律した光と階調のイメージへ変える過程と、その表現が後の風景写真に継承・反転される論点を読み解く。

基本情報
生没年 1902–1984

経歴

アンセル・アダムスはサンフランシスコに生まれ、1916年に家族旅行でヨセミテを訪れたとき、両親から与えられたコダック・ブラウニーで撮影を始めた。国立公園局は、この最初の訪問以後、ヨセミテが彼の制作と自然観の中心になったことを記している*1。若い頃のアダムスは写真だけでなくクラシック音楽にも深く関わり、ピアノを学びながら自然と形式への感受性を育てた。国立公園局は、彼が一時期、写真家とクラシック・ピアニストという二つの職業世界のあいだで生きていたことも紹介している*1。1920年代の初期作品にはピクトリアリズムの柔らかな調子が残っていたが、1930年にポール・ストランドの写真と出会ったことは、彼が軟焦点の絵画的表現から離れ、シャープで純粋な写真へ向かう重要な契機の一つになった*2。1932年にはエドワード・ウェストン、イモージン・カニンガムらとGroup f/64に加わり、デ・ヤング美術館での展示を通じて、写真を絵画の模倣ではなく、カメラとプリントの精度によって成立する独立したメディアとして提示した*5。この集まりは、ニューヨークのスティーグリッツ周辺だけで近代写真が形成されたわけではなく、オークランドやサンフランシスコを含むベイエリアにも、ピクトリアリズムから離れて写真の固有性を押し出す実験の場があったことを示している。SFMOMAは、1932年のオークランドでの会合をGroup f.64成立の起点とし、その後のベイエリア写真史を考える中心的な出来事として位置づけている*22。1933年にはニューヨークのAn American Placeでアルフレッド・スティーグリッツに作品を見せ、1936年には同ギャラリーで個展を開いた。シカゴ美術館は、この出会いと展示を、アダムスの進路を大きく方向づけた出来事として整理している*4。The Ansel Adams Galleryの略伝も、ストランド、ウェストン、スティーグリッツとの関係を、アダムスがピクトリアリズムからストレート写真へ移り、写真家として制度的な認知を得ていく流れの中に置いている*3。その後の彼は、ヨセミテとシエラネバダの風景、国立公園の委嘱写真、マンザナー日系人収容所の記録、写真教育、技術書、アーカイブ形成を横断し、1975年にはアリゾナ大学にCenter for Creative Photographyを共同設立した*2

表現解説

ヨセミテを「絶景」ではなく、光の構造として扱う

アダムスの風景写真は、観光地としてのヨセミテやアメリカ西部を美しく写した写真として広く知られている。しかし、彼の表現の中心にあるのは、自然を目の前の景色として保存することだけではない。SFMOMAの解説は、アダムスがヨーロッパの芸術を手本にするのではなく、アメリカ西部に固有の写真様式を確立しようとし、大判カメラで自然の広がりとスケールを捉えたと説明している*7。ここで重要なのは、大判カメラが単に細部を多く写す道具だったのではなく、岩壁、雲、雪、樹木、空の濃度を、画面全体の秩序として扱うための装置だったという点である。MoMAの1979年展プレスリリースでジョン・シャーカフスキーは、アダムスの写真の基本的な主題を、岩や木や水そのものではなく、それらが変調する光にあると見ていた*8。The Metの《Winter Yosemite Valley》解説は、彼の音楽的背景と西部風景への愛着が、自然経験をグラフィックな等価物へ変える作品として現れていると説明している*10。つまりアダムスにとってヨセミテは、雄大な自然を見せる舞台であると同時に、光が物質に触れ、白から黒までの階調へ変わる実験場だった。《Monolith, the Face of Half Dome, Yosemite National Park, California》では、ハーフドームの岩壁は地形の説明ではなく、黒い空、月、岩の面、前景のシルエットが緊張する垂直の構成として現れる。The Metの所蔵情報は、同作を1927年のネガから1974年にプリントされたゼラチン・シルバー・プリントとして記録している*11

ピアノ、スティーグリッツ、プリントという演奏

アダムスがプリントの精度にこだわった理由は、写真を機械的な複製と見なさなかったからである。彼は若い頃にピアノを本格的に学び、写真に転じた後も、演奏の感覚をプリント制作の比喩として使い続けた。SFMOMAの音声解説では、アダムス自身が、写真を可視化するときには心の目で見るだけでなく、最終プリントで得たい質を「感じる」ことが重要だと語り、ネガを楽譜、プリントをその演奏になぞらえている*7。MoMAのプレスリリースも、同じネガから時期の異なるプリントが作られることを通じて、この「ネガは楽譜、プリントは演奏」という考えを説明している*8。この比喩を使うと、彼のプリントの精度は、自然を固定するための硬直した技術ではなく、一度得たネガを、その都度の感覚、紙、薬品、露光、焼き込み、覆い焼きによって再演するための条件だったことが見えてくる。アリゾナ大学の「Performing the Print」紹介は、同一ネガから作られた複数のプリントを比較することで、トリミング、覆い焼き、焼き込み、全体のコントラストと明るさにおけるアダムスの判断が見えると述べている*9。Phoenix Art Museumも同展の紹介で、同じネガからの複数プリントが、アダムスの制作を「撮影」だけでなく「演奏」として理解させると説明している*23。この態度は、スティーグリッツの「写真を芸術として成立させる」という近代写真の課題とも接続するが、写真の自律性とは、絵画的なぼかしや文学的な物語を借りて芸術らしく見せることではなく、レンズの明晰さ、ネガの情報量、紙の階調、暗室での解釈という写真固有の条件から感情と構成を生み出すことだった。この精度が必要だったのは、自然の前で生じた感情を、曖昧な気分としてではなく、プリント上で確認できる明暗と形の関係へ置き換えるためだった。実際の景色には、光の強さ、空間の広がり、岩や雲の量感が同時に現れるが、フィルムは人間の目と同じ幅でそれを受け止めることができない。David Sheffによるインタビューでアダムスは、フィルムには目ほどの階調を捉える力がなく、その限界の中でフィルター、露出、現像、暗室作業を選び、プリントで感じたい値を考えると説明している*20。そのため彼にとって構成とは、自然を都合よく整えることではなく、見た瞬間の強度を黒、白、灰色の秩序として再構成し、鑑賞者がプリントの前でそれを経験できるようにする作業だった。シカゴ美術館は、スティーグリッツがアダムスを若い世代の写真家として受け入れ、1936年のAn American Place個展が彼にとって重要な意味を持ったことを記している*4。同館が紹介する展覧会パンフレットでは、アダムス自身が「知覚、視覚化、実行」は厳密に結びつき、技術だけでは空虚な殻になると述べており、精密さが目的ではなく、想像された視覚をプリントへ到達させるための条件だったことがわかる*4

Group f/64と、ベイエリアで組み立てられた写真の自律性

Group f/64は、アダムスの写真を理解するための重要な入口である。The Metは、f/64という名称が当時の大判ビューカメラで使える小さな絞りに由来し、世界を「ありのまま」に提示する写真の能力を隠さず祝うという考えを示していたと説明している*5。アダムス自身も後年のインタビューで、f/64を深い被写界深度とシャープネスを得る小さな絞りとして説明し、感傷的・寓意的なイメージではなく、紙面の質感が写真の質感を邪魔しないストレート・プリントへの献身だったと語っている*20。この「ありのまま」は、写真家の判断を消すという意味ではない。深い被写界深度、コンタクトプリント、光沢紙、精密なフレーミングは、絵画的なぼかしから離れるための方法であると同時に、写真家がどの形を選び、どこで画面を切り、どの階調を残すかをより強く問うものだった。Group f/64の重要性は、ニューヨークの291やAn American Placeを中心とするスティーグリッツの近代写真とは別に、西海岸の作家たちが、土地、植物、建築、身体、工業的対象を鋭い輪郭と濃度で見せる場を作った点にもある。スティーグリッツのギャラリー「291」がニューヨークの近代写真の拠点だったのに対し、ウィラード・ヴァン・ダイクのBrockhurst Street 683番地の小さなギャラリー/住居は、西海岸側の写真家たちが集まり、ピクトリアリズム後の写真を議論する場所になった。「683」という呼び名は、このBrockhurst Street 683番地に由来する。The Metは、この「683」をスティーグリッツの291に対する西海岸の対応物として説明している*5。SFMOMAの近年の展覧会は、Group f.64をベイエリア写真史の出発点の一つとして扱い、メンバーが共有したピクトリアリズムからの離脱、1930年代の参加作家、ラングストン・ヒューズとの接点、タラ・クラジナックによるウェストンやアダムスへの応答、1970年代以降のサンフランシスコのストリート写真までを連続した地域史として並べている*22。ここでいうベイエリア写真史とは、サンフランシスコとオークランド周辺で、絵画的なピクトリアリズムからシャープなモダニズム写真へ移るだけでなく、その後にストリート写真、都市文化、人種や労働をめぐる主題、現代作家による応答へ枝分かれしていく流れである。SFMOMAの解説も、Group f.64の遺産を、女性写真家、人種的不正義、労働者の権利、サンフランシスコ・アート・インスティテュート以後の写真教育や都市文化まで含めて読み直している*6。この地域史の中で見ると、アダムスの精密なプリントは、自然を冷たく測量するための客観性ではなく、写真が絵画的な雰囲気を借りなくても、輪郭、濃度、紙面の質感だけで画面の強度を持てることを示す実践として位置づく。見る経験を曖昧な感傷に戻さず、光と物質の関係として成立させるための緊張だった。

近代写真の思想としての「自然」

ピクトリアリズムからストレート写真へ移るこの西海岸の動きの中で、アダムスの自然写真が近代的だったのは、山岳や荒野を題材にしたからだけではない。ピクトリアリズムが写真を絵画に近づけることで芸術化しようとしたのに対し、ストレート写真は、カメラの明晰さやプリントの物質性を隠さず、むしろそこに表現の根拠を置いた。シカゴ美術館のスティーグリッツ資料は、ストランドが媒材の限界と潜在的な性質を尊重し、技巧的な操作に頼らない写真を主張した流れの中に、アダムスを含む後続のストレート写真家を位置づけている*21。アダムスの場合、その思想は都市の断片や社会の断面よりも、ヨセミテの岩壁、空、雪、雲、樹木を、ネガとプリントが作る階調の秩序へ変換することで現れた。The Metの《Winter Yosemite Valley》解説は、音楽的背景と西部風景への愛着が、自然経験をグラフィックな構成へ変える仕事に結びついたと説明している*10。MoMAの1979年展資料でシャーカフスキーが、アダムスの主題を岩や木や水そのものではなく、それらが変調する光に見ていたことも、自然を物の記録ではなく光の関係として捉える理解に重なる*8。この二つの出典を合わせると、アダムスが自然を写真の言語にしたというのは、山や雲をただ保存したという意味ではなく、見た経験を、レンズ、ネガ、紙、暗室、展示空間の中で、光と濃度の関係として再構成したという意味になる。

後年の風景写真から見直されるアダムス

アダムスの風景を後年の写真と並べて見ると、彼のイメージは美しい山岳写真としてだけでなく、アメリカ西部をどのような土地として見せてきたのかという問題へ広がる。MFA Bostonの「Ansel Adams in Our Time」は、アダムスの作品を19世紀の政府測量写真と現代作家の作品のあいだに置き、彼が政府測量写真の先行例から影響を受けながら、ヨセミテ、イエローストーン、キャニオン・デ・シェイなどを国立公園の象徴的イメージへ変えたことを示している*26。同展が「環境、土地の権利、自然資源の使用と誤用」をアダムスの遺産へつなげるのは、現代作家が彼の構図を模倣したからではなく、アダムスが広く可視化した西部の風景を、現代では伐採、採掘、干ばつ、火災、開発、都市拡張、先住民と南西部の問題を含む土地の変化として撮り直しているからである*26。SFMOMAは、1975年の「New Topographics」を、崇高な自然景観から、工業地帯、郊外、日常的な人工風景へ向かう根本的な転換として説明している*25。この対比によって、アダムスの写真は、後の作家の直接の出発点というより、アメリカ西部を写真で見るときに、何を保存すべき自然として見せ、何を開発や所有の問題として見落としてきたのかを考えるための比較対象になる。

ゾーンシステムと「予見」された写真

アダムスの技術論の中心にあるゾーンシステムは、単なる露出計算の技法ではなく、撮影時の視覚経験を最終プリントへ到達させるための思考法だった。Center for Creative Photographyは、アダムスのアーカイブが2,500点以上のファインプリントに加え、書簡、インタビュー、未刊原稿、機材、商業写真、展覧会資料、シエラクラブ関連資料を含むことを示しており、彼の仕事が作品だけでなく方法論と教育の集積として残されたことがわかる*2。David Sheffによるインタビューでアダムスは、フィルムには限界があり、その限界の中でフィルター、露出、現像、暗室作業を選び、プリントにしたい価値をあらかじめ考えると説明している*20。この「予見」は、未来の完成像を頭の中に置き、被写体の明るさをそのまま受け取るのではなく、どの部分を深い黒へ落とし、どの白を残し、どの灰色を豊かに響かせるかを決める行為だった。《Moonrise, Hernandez, New Mexico》では、月、雲、墓地の白い十字架、遠い山並みが、偶然の遭遇でありながら、プリント上では強い明暗の配置として成立している。National Gallery of Artは同作を1941年、1980年プリントのゼラチン・シルバー・プリントとして公開し、月、低い山並み、教会と墓地が暗い空の下に配置される視覚記述も付している*12。インタビューでアダムスは、この作品の空を暗く焼き込むことで、雲の存在をほとんど消し、最初に抱いた劇的な視覚化へ近づけたと説明している*20。この例からわかるのは、アダムスの「正確さ」が、見えたものをそのまま保存するためではなく、見た瞬間に感じた光の関係を、プリントという別の物質へ移すための正確さだったということである。

環境保護、国立公園、制度としての風景

アダムスの風景写真は、個人の山岳体験だけで完結していない。彼はシエラクラブと長く関わり、国立公園、出版、美術館、教育、アーカイブを通じて、風景写真が社会的な力を持つ場所を広げた。国立公園局は、彼がシエラクラブを通じてキングスキャニオン国立公園設立の運動にも関わり、その写真が議会での議論に使われたことを記している*1。National Archivesは、1941年に国立公園局が内務省庁舎の写真壁画制作のためにアダムスへ依頼し、第二次世界大戦で計画は中断されたものの、1941年から1942年にかけて撮影された226点の写真が同館に残ると説明している*16。ここでの風景は、私的な美的対象であると同時に、国家が保護し、展示し、教育し、広報する対象でもあった。アダムスの写真が環境保護のイメージとして強く作用した理由は、自然を単に説明したからではなく、保存すべきものが、視覚的にも精神的にも失われがたい価値を持つように見える画面を作ったからである。MoMAの1979年展資料は、アダムスの長い関係が同館写真部門にも及び、1940年の写真部門創設に関わったことを記録している*8。この制度的な広がりまで含めると、彼の風景写真は「自然が美しい」という主張ではなく、写真が自然を公共的な価値として見せ、保存を求める文化的装置になる過程として読むことができる。

マンザナー写真と、風景写真家の記録倫理

アダムスの仕事をヨセミテの崇高な風景だけで閉じないためには、1943年のマンザナー日系人収容所写真を含めて考える必要がある。Library of Congressは、このシリーズを彼の代表的な風景写真とは異なる仕事として紹介し、オリジナルのネガとプリントを並べて公開することで、トリミングや暗室処理の差異も確認できるようにしている*13。同コレクションには、肖像、日常生活、農作業、スポーツ、余暇の写真が含まれ、アダムスが強制収容という制度の中に置かれた日系人の生活をどのように記録しようとしたかが見える。Library of Congressの旧版特設ページは、『Born Free and Equal』を、1944年にU.S. Cameraから刊行された、マンザナー収容所写真とアダムスの文章による本として紹介している*14。Japanese American National Museumの「Ansel Adams at Manzanar」は、Library of Congress、Center for Creative Photography、Honolulu Academy of Arts、同館に残る50点以上のヴィンテージプリントを集めて、この仕事を展示として再検討した*15。マンザナー写真は、アダムスの「予見」やプリント制御が、自然の崇高さだけでなく、人間の尊厳や国家制度の矛盾をどう写すかという問題にも触れていたことを示している。ただし、彼の視線は収容政策への批判を全面化するものではなく、被収容者の共同体形成や生活の持続に焦点を置く傾向があるため、後年の受容では、ドロシア・ラングや当事者写真家トーヨー・ミヤタケの記録と比較して読む必要がある。

批評と受容

アダムスの受容は、《Moonrise, Hernandez, New Mexico》やヨセミテの名作イメージによって強く形づくられてきた。MoMAの作家ページは、同館オンラインで多数の作品を公開し、彼が複数の展覧会に関わってきたことを示している*18。National Gallery of Artも作家ページで96点の作品群を公開しており、彼の写真がアメリカ近代写真の主要な美術館コレクションに深く組み込まれていることがわかる*19。SFMOMAの「Ansel Adams at 100」は、彼が自然保護の代弁者として愛されたことと、写真家としての美学的達成が混同されやすいことを指摘し、作家としての再評価を企図した展覧会だった*24。一方で、近年の展覧会は、アダムスをただの「自然写真の巨匠」として称賛するだけではなく、そのイメージが作ったアメリカ西部像を問い直している。Portland Art Museumの「Ansel Adams in Our Time」は、アダムスの初期作品から成熟期の国立公園写真までをたどりながら、ジョナサン・カルム、ジグ・ジャクソン、ウィル・ウィルソンら同時代作家を並置し、アダムスの国立公園イメージを、土地所有、帰属、環境危機、アメリカ西部の表象をめぐる現在の問いと並べて見直す展示として構成した*17。SFMOMAのGroup f.64再検討も、同運動の遺産を、ベイエリア写真史、女性写真家、人種・労働・政治的文脈、現代作家の応答の中で読み直している*6。したがって、アダムスの歴史的位置は、高精細な大判風景写真を完成させた作家というだけではない。彼は、写真を絵画から独立させるための精度、音楽的な演奏としてのプリント、自然保護の公共的イメージ、写真教育と美術館制度、戦時下の日系人収容所記録を交差させた作家である。彼の写真の本質は、自然を美しく見せることではなく、自然や人間や場所が、光、ネガ、紙、制度、鑑賞者の記憶を通って、どのような「見るべき対象」へ変わるのかを制御しようとした点にある。

アンセル・アダムス 写真集

Ansel Adams: 400 Photographs
ゾーンシステムとアメリカ西部の風景を押さえる定番。
写真集を Amazon で見る ↗ ※アフィリエイトリンクを含みます
関連写真集
同じ写真家を別の本や別の掲載でたどるための関連リンク。
写真集を Amazon で見る ↗ ※アフィリエイトリンクを含みます
Amazon検索結果
関連写真集や近い版を探すための検索リンク。
写真集を Amazon で見る ↗ ※アフィリエイトリンクを含みます

外部リンク

作品画像

出典