アルフレッド・スティーグリッツAlfred Stieglitz

写真分離派を結成し、雑誌『カメラ・ワーク』とニューヨークのギャラリー291を拠点に、写真を近代芸術の制度へ接続したアメリカ近代写真の中心人物。ピクトリアリズムの国際的成熟からストレート写真への転換、さらに雲の連作「エクイヴァレンツ」へと展開し、被写体ではなく写真の形式そのものが内的状態の等価物になるという抽象写真の発想を提示した。作品、出版、展示、収集という複数の回路を同時に設計し直すことで、アメリカ近代写真史の骨格と、写真を美術館に接続する語彙を組み替え続けた編集者、ギャラリストでもある。

基本情報
生没年 1864–1946

経歴

1864年、ニューヨーク近郊ホーボーケンの裕福なユダヤ系ドイツ移民家庭に生まれる。ベルリン工科大学で写真化学者ヘルマン・ウォーゲルに師事し、ヨーロッパ各地の写真表現に触れたのち、1890年にアメリカへ帰国した*1。1902年にアメリカのピクトリアリズム写真家を束ねる集団として写真分離派を結成し、翌1903年には写真誌『カメラ・ワーク』を創刊した。1905年にニューヨーク五番街291番地へ開廊した通称「291」では、写真に加えてアンリ・マティス、ポール・セザンヌ、パブロ・ピカソらをアメリカでいち早く紹介したことでも知られる*2。1917年の291閉廊後はインティメイト・ギャラリー(1925年)とアメリカン・プレイス(1929年)という小規模な発表の場を運営し、妻で画家のジョージア・オキーフとの編集と制作の共同実践を晩年まで続けた。1946年、ニューヨークで没した*3

表現解説

写真を近代芸術の制度へ接続する課題

1890年代のニューヨークでは、写真は機械的複写の装置とみなされ、絵画や彫刻と同じ地位で美術館や批評の枠組みに入ることはなかった。スティーグリッツの実践が特殊なのは、作品制作以上に、写真をこの枠組みへ接続し直すための装置を連続的に設計した点にある*4。その入り口になったのは、ヨーロッパで成熟したピクトリアリズムの流用だった。この流儀は漠然とした美意識の産物ではなく、作品面で守られた具体的なルールの束として成立していた。ソフトフォーカス・レンズの採用、ゴム重クロム酸塩プリントやプラチナ・パラジウム印画による連続階調と深い黒、絵画的な三分割構図や消失点の操作、霧や薄明、夕暮れ、雪といった大気条件の選好、象徴的・文学的・寓意的なモチーフの導入、ネガやプリント面への手作業的介入による一点性の強調といった選択規則が重ねられ、画面の表情が決められていった*5*1。一連の手続きは写真を絵画・版画・エッチングの視覚文法へ翻訳する作業であり、単なる美的選好ではなく、写真を既存の芸術言語に同調させるための戦略としても機能した*20

分離派、『カメラ・ワーク』、291という三つの装置

1902年に結成された写真分離派は、「ピクトリアル写真に傾倒したアメリカ人たちをまとめ、それが個人的表現の独自媒体として認められるよう努める」ための組織として立ち上げられた*6。分離派の活動を支えた実体の一つが、1903年創刊の写真誌『カメラ・ワーク』である。上質なフォトグラビュア印刷と厳選された寄稿は、この雑誌自体を個別の作品群に近い位置へ押し上げ、何を「写真作品」として扱うかを編集的に決める回路として働いた*7。1905年にニューヨーク五番街291番地に開廊した、のちに291と呼ばれる小さな展示室は、そこに対となるもう一本の装置を加えた。写真の個展に加え、アンリ・マティス(1908年)、ポール・セザンヌ、パブロ・ピカソ(1911年)らをアメリカでいち早く紹介したこの空間は、写真と近代絵画を同じ壁面で並べることで、「写真は芸術か」という二分法そのものを相対化する場として機能した*8

《The Terminal》《The Steerage》と近代構成への転換

《The Terminal》(1893年)に見える小型カメラによる都市への即応性や、《The Steerage》(1907年)における移民船の日常空間と近代的な幾何学的構成の接続は、ピクトリアリズムの文法のなかで都市経験を扱う独自のモードを示している*9。《The Steerage》では、上下デッキを分けるタラップ、円筒形のファンネル、斜めに伸びる鉄鎖、突き出た麦わら帽子、階段の欄干といった現実の要素が、そのまま三角・斜線・水平線として画面を分割する抽象的な面の配置に読み換えられ、労働者階級の日常の一場面が近代構成写真の早い例として位置づけ直された*21。第一次世界大戦後、スティーグリッツは絵画的効果への傾倒から距離を取り、素材固有の性質を前提に写真を考える方向へと重心を移していった。モダニズムの核心が「媒体固有の特性を尊重する」ことにあるとすれば、写真が絵画を模倣することはその独自性を自ら否定することになりかねない、という認識である*1。この動きは、ポール・ストランドら次世代の作家や、ストレート写真に属する実践と共鳴しながら進んだ*1*10

「エクイヴァレンツ」と形式=等価物の美学

1922年以降に集中して制作された雲の連作「エクイヴァレンツ」は、このシフトが具体化した重要な契機の一つである*11。最初の連作タイトル「音楽:十枚の雲の写真の連作」(Music: A Sequence of Ten Cloud Photographs, 1922年)や「空の歌」(Songs of the Sky, 1923年)が示すとおり、スティーグリッツは雲を「被写体」ではなく、形式そのものが感情や思考の等価物になる平面として扱った*12。この等価物という発想が指し示すのは、雲の種類や気象学的な情報ではなく、光の方向、明暗の分布、画面上での雲塊の位置、輪郭の角度、階調のグラデーションといった形式要素の配置そのものが、個々の内的状態のアナロジーとして受け取られうる、という視覚的な等号関係である*14。作曲家アーネスト・ブロッホがこの連作を前に「音楽だ、これは音楽だ」と応じたという記録は、この発想の射程が視覚表現に閉じていなかったことを示している*13。背景には、ウォルター・ペイターが『ルネサンス』(1873年、1877年改訂)で定式化した「すべての芸術は音楽の状態に憧れ続けている」という美学の系譜があり、形式が内容から独立して感情を喚起するというこの命題を、スティーグリッツは写真のほうへ翻訳し直したと読める*14。この類推の根にあるのは、音楽が具体的な対象の描写を持たずとも、リズム、音高、強度、間といった形式要素の配置だけで聴く者に特定の情動を呼び起こすという事実であり、雲の写真もまた主題の物語性を経由せず、光と形の配置のみで同等の喚起力をもちうる、という見立てだった*14

抒情的抽象絵画との共鳴、編集者としての六つの回路

ただし、雲の連作が開いた方向を、後世の抽象表現主義やf/64、『アパーチュア』誌、アーロン・シスキンドへ一本の線で結ぶことには慎重でありたい。関連は多面的で、エドワード・ウェストンアンセル・アダムズが追求した乾いた形式性、あるいは後続の主観的抽象とは、必ずしも同じ軌道を共有していない。それでも、のちのマーク・ロスコ、アドルフ・ゴットリーブ、クリフォード・スティル、バーネット・ニューマンらアメリカ抒情的抽象絵画に現れる、輪郭を欠いた大気的な色面、画面中央に置かれた塊と周囲の広がりの関係、具象的参照を欠いたまま情動的密度を担う画面という発想と、雲の連作の形式的な組み立てとのあいだには、並べて読みうる精度の共鳴が認められる*14。むしろスティーグリッツの寄与は、編集、出版、展示、収集、批評、人物関係という複数の回路を同時に稼働させ、その交点で写真の制度的意味を組み替え続けたことに置かれるべきである。その組み替えは、具体的には次のような実践として進んだ。『カメラ・ワーク』の紙質、印刷、寄稿選定を通じて何が写真作品として流通するかを編集的に決めること、フォトグラビュア複製を介して作品へのアクセスを雑誌の購読回路へ載せること*4、291やインティメイト・ギャラリー、アメリカン・プレイスで写真と近代絵画を同じ空間に並置すること、自ら集めたプリント群をのちに美術館へ体系的に移管し写真部門の中核コレクションへ変えること*17、サダキチ・ハートマンやチャールズ・キャフィンらの批評文を雑誌の誌面に組み込むこと、そしてエドワード・スタイケンガートルード・ケーゼビア、ポール・ストランド、ジョージア・オキーフら同時代の作家を緩やかな共同体として束ね続けること、という六つの回路が同時に稼働していた*22。結果としてスティーグリッツは、個別の代表作によって語られる写真家であるよりも、写真を近代芸術の言語と制度に編み込み直すための作業そのものを、生涯にわたって続けた人物として読まれている*15

批評と受容

スティーグリッツの受容は、特定の代表作の再評価というよりも、制度と資料の長期的な再編を通じて進んだ。1946年の没後、1947年にニューヨーク近代美術館でスティーグリッツのコレクション展が開かれ*16、1948年にはフォト・セセッションと『カメラ・ワーク』に関連した展覧会が続いた*23。以降、作品、書簡、『カメラ・ワーク』、291関連資料が主要機関へ段階的に移されていった。現在ではナショナル・ギャラリー・オブ・アートが、ジョージア・オキーフからの寄贈を中心に約1600点のオリジナル・プリントを収蔵し、「キー・セット」として公開している*17。シカゴ美術館、メトロポリタン美術館、ゲッティ美術館、ジョージ・イーストマン・ミュージアムなども、独自の厚みをもつコレクションを形成している*18。批評の側からは、雲の連作「エクイヴァレンツ」に対して、ヒルトン・クレイマーがのちのアメリカ抒情的抽象絵画と並べて読みうる精度を備えていたと指摘しており*14、写真史の枠を超えた参照の対象にもなっている。他方で、こうした制度的な影響力の強さは、同時代の評価においては排他性や権威性への批判と結びつく局面も持っていた。『カメラ・ワーク』や291の選定は自身の美学に沿って厳しく絞り込まれ、その外側に置かれた実践、とりわけジェイコブ・リースやルイス・ハインに代表される労働、移民、貧困を主題とする社会記録的なドキュメンタリー写真は、彼の発信の回路では主流として扱われなかった*15。この編集的な線引きは、アメリカ近代写真が制度化されていく過程で、芸術としての写真と社会の事実を伝える写真とのあいだに早い段階で別々の系譜を敷くことにもつながっていった*4。日本では、富士フイルムが主催したピクトリアリズム展やアメリカ近代写真の企画展などの機会に、スティーグリッツを含む写真分離派以降のネットワークが継続的に紹介されてきた*19。総体としての受容は、個別の代表作の評価以上に、写真を美術館、雑誌、ギャラリー、コレクションの循環に組み込んだ実践全体を、後続世代がどう引き継ぎ直しているかという問いと結びついている。

アルフレッド・スティーグリッツ 写真集

Alfred Stieglitz: The Key Set - Volume I & II: The Alfred Stieglitz Collection of Photographs
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外部リンク

出典