291ギャラリーと写真誌『カメラ・ワーク』を主宰し、写真を絵画と並ぶ芸術として美術館に送り込んだアメリカ近代写真の中核。「エクイヴァレンツ」では被写体ではなく形式そのものが内面を語ると主張し、写真における抽象の理論的基盤を築いた。写真分離派・『カメラ・ワーク』・291という三つの制度装置を通じて、写真を美術館・出版・批評の回路に編み込む経路を整備した。
スティーグリッツは写真を芸術として位置づけようとした人物だが、その貢献は個々の傑作によるものではなく、写真分離派・『カメラ・ワーク』・291という制度的装置を同時に稼働させることで、写真が美術館・出版・批評の言語に組み込まれる経路を整備した点にある。晩年の「エクイヴァレンツ」では被写体を経由しない形式の等価性を主張し、後続のストレート写真と抽象写真の両方に接続する場を開いた。
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1864年、ニューヨーク近郊ホーボーケンの裕福なユダヤ系ドイツ移民家庭に生まれる。ベルリン工科大学で写真化学者ヘルマン・ウォーゲルに師事し、ヨーロッパ各地の写真表現に触れたのち、1890年にアメリカへ帰国した*1。1902年にアメリカのピクトリアリズム写真家を束ねる集団として写真分離派を結成し、翌1903年には写真誌『カメラ・ワーク』を創刊した。1905年にニューヨーク五番街291番地へ開廊した通称「291」では、写真に加えてアンリ・マティス、ポール・セザンヌ、パブロ・ピカソらをアメリカでいち早く紹介したことでも知られる*2。1917年の291閉廊後はインティメイト・ギャラリー(1925年)とアメリカン・プレイス(1929年)という小規模な発表の場を運営し、妻で画家のジョージア・オキーフとの編集と制作の共同実践を晩年まで続けた。1946年、ニューヨークで没した*3。
写真を近代芸術の制度へ接続する課題
1890年代のニューヨークでは、写真は機械的複写の装置とみなされ、絵画や彫刻と同じ地位で美術館や批評の枠組みに入ることはなかった。スティーグリッツの実践が特殊なのは、作品制作以上に、写真をこの枠組みへ接続し直すための装置を連続的に設計した点にある*4。その入り口になったのは、ヨーロッパで成熟したピクトリアリズムの流用だった。この流儀は漠然とした美意識の産物ではなく、作品面で守られた具体的なルールの束として成立していた。ソフトフォーカス・レンズの採用、ゴム重クロム酸塩プリントやプラチナ・パラジウム印画による連続階調と深い黒、絵画的な三分割構図や消失点の操作、霧や薄明、夕暮れ、雪といった大気条件の選好、象徴的・文学的・寓意的なモチーフの導入、ネガやプリント面への手作業的介入による一点性の強調といった選択規則が重ねられ、画面の表情が決められていった*5。一連の手続きは写真を絵画・版画・エッチングの視覚文法へ翻訳する作業であり、単なる美的選好ではなく、写真を既存の芸術言語に同調させるための戦略としても機能した*20。
分離派、『カメラ・ワーク』、291という三つの装置
1902年に結成された写真分離派は、「ピクトリアル写真に傾倒したアメリカ人たちをまとめ、それが個人的表現の独自媒体として認められるよう努める」ための組織として立ち上げられた*6。分離派の活動を支えた実体の一つが、1903年創刊の写真誌『カメラ・ワーク』である。上質なフォトグラビュア印刷と厳選された寄稿は、この雑誌自体を個別の作品群に近い位置へ押し上げ、何を「写真作品」として扱うかを編集的に決める回路として働いた*7。1905年にニューヨーク五番街291番地に開廊した、のちに291と呼ばれる小さな展示室は、そこに対となるもう一本の装置を加えた。写真の個展に加え、アンリ・マティス(1908年)、ポール・セザンヌ、パブロ・ピカソ(1911年)らをアメリカでいち早く紹介したこの空間は、写真と近代絵画を同じ壁面で並べることで、「写真は芸術か」という二分法そのものを相対化する場として機能した*8。
《The Terminal》《The Steerage》と近代構成への転換
《The Terminal》(1893年)に見える小型カメラによる都市への即応性や、《The Steerage》(1907年)における移民船の日常空間と近代的な幾何学的構成の接続は、ピクトリアリズムの文法のなかで都市経験を扱う独自のモードを示している*9*23。《The Steerage》では、上下デッキを分けるタラップ、円筒形のファンネル、斜めに伸びる鉄鎖、突き出た麦わら帽子、階段の欄干といった現実の要素が、そのまま三角・斜線・水平線として画面を分割する抽象的な面の配置に読み換えられ、労働者階級の日常の一場面が近代構成写真の早い例として位置づけ直された*21。第一次世界大戦後、スティーグリッツは絵画的効果への傾倒から距離を取り、素材固有の性質を前提に写真を考える方向へと重心を移していった。モダニズムの核心が「媒体固有の特性を尊重する」ことにあるとすれば、写真が絵画を模倣することはその独自性を自ら否定することになりかねない、という認識である*1。この動きは、ポール・ストランドら次世代の作家や、ストレート写真に属する実践と共鳴しながら進んだ。
「エクイヴァレンツ」と形式=等価物の美学
1922年以降に集中して制作された雲の連作「エクイヴァレンツ」は、このシフトが具体化した重要な契機の一つである*11。最初の連作タイトル「音楽:十枚の雲の写真の連作」(Music: A Sequence of Ten Cloud Photographs, 1922年)や「空の歌」(Songs of the Sky, 1923年)が示すとおり、スティーグリッツは雲を「被写体」ではなく、形式そのものが感情や思考の等価物になる平面として扱った*12。この等価物という発想が指し示すのは、雲の種類や気象学的な情報ではなく、光の方向、明暗の分布、画面上での雲塊の位置、輪郭の角度、階調のグラデーションといった形式要素の配置そのものが、個々の内的状態のアナロジーとして受け取られうる、という視覚的な等号関係である*11。作曲家アーネスト・ブロッホがこの連作を前に「音楽だ、これは音楽だ」と応じたという記録は、この発想の射程が視覚表現に閉じていなかったことを示している*13。
抒情的抽象との共鳴、編集者としての六つの回路
背景には、形式が物語や再現から独立して感情を喚起しうるという、近代芸術に広く共有された発想がある*11。スティーグリッツはその可能性を写真の側へ引き寄せた。音楽が具体的な対象の描写を持たずとも、リズム、音高、強度、間といった形式要素の配置だけで聴く者に情動を呼び起こすように、雲の写真もまた主題の物語性を経由せず、光と形、階調と間隔の配置によって作用しうる、という見立てである*11。ただし、雲の連作が開いた方向を、後世の抽象写真やf/64、『アパーチュア』誌、アーロン・シスキンドへ一本の線で結ぶことには慎重でありたい。関連は多面的で、エドワード・ウェストンやアンセル・アダムスが追求した乾いた形式性とも完全には重ならない。ここで重要なのは、雲の連作が写真における抽象を、一回的な実験ではなく持続的なプロジェクトとして考えうるものにした点である*2*11。
むしろスティーグリッツの寄与は、編集、出版、展示、収集、批評、人物関係という複数の回路を同時に稼働させ、その交点で写真の制度的意味を組み替え続けたことに置かれるべきである。その組み替えは、具体的には次のような実践として進んだ。『カメラ・ワーク』の紙質、印刷、寄稿選定を通じて何が写真作品として流通するかを編集的に決めること、フォトグラビュア複製を介して作品へのアクセスを雑誌の購読回路へ載せること、291やインティメイト・ギャラリー、アメリカン・プレイスで写真と近代絵画を同じ空間に並置すること、自ら集めたプリント群をのちに美術館へ体系的に移管し写真部門の中核コレクションへ変えること、サダキチ・ハートマンやチャールズ・キャフィンらの批評文を雑誌の誌面に組み込むこと、そしてエドワード・スタイケン、ガートルード・ケーゼビア、ポール・ストランド、ジョージア・オキーフら同時代の作家を緩やかな共同体として束ね続けること、という六つの回路が同時に稼働していた*22。結果としてスティーグリッツは、個別の代表作によって語られる写真家であるよりも、写真を近代芸術の言語と制度に編み込み直すための作業そのものを、生涯にわたって続けた人物として読まれている*15。
スティーグリッツの受容は、特定の代表作の再評価というよりも、制度と資料の長期的な再編を通じて進んだ。1946年の没後、1948年にニューヨーク近代美術館で追悼展が開かれ、以降、作品、書簡、『カメラ・ワーク』、291関連資料が主要機関へ段階的に移されていった*16。現在ではナショナル・ギャラリー・オブ・アートが、ジョージア・オキーフからの寄贈を中心に約1600点のオリジナル・プリントを収蔵し、「キー・セット」として公開している*17。シカゴ美術館、メトロポリタン美術館、ゲッティ美術館、ジョージ・イーストマン・ミュージアムなども、独自の厚みをもつコレクションを形成している*18。批評の側からは、雲の連作「エクイヴァレンツ」が写真史の内部だけでなく、近代芸術における等価性や抽象の問題として読み直されてきた*14。他方で、こうした制度的な影響力の強さは、同時代の評価においては排他性や権威性への批判と結びつく局面も持っていた。『カメラ・ワーク』や291の選定は自身の美学に沿って厳しく絞り込まれ、その外側に置かれた実践、とりわけジェイコブ・リースやルイス・ハインに代表される労働、移民、貧困を主題とする社会記録的なドキュメンタリー写真は、彼の発信の回路では主流として扱われなかった*15。この編集的な線引きは、アメリカ近代写真が制度化されていく過程で、芸術としての写真と社会の事実を伝える写真とのあいだに早い段階で別々の系譜を敷くことにもつながっていった*4。日本では、富士フイルムが主催したピクトリアリズム展やアメリカ近代写真の企画展などの機会に、スティーグリッツを含む写真分離派以降のネットワークが継続的に紹介されてきた*19。総体としての受容は、個別の代表作の評価以上に、写真を美術館、雑誌、ギャラリー、コレクションの循環に組み込んだ実践全体を、後続世代がどう引き継ぎ直しているかという問いと結びついている。
- ポール・ストランド ― 次世代のストレート写真を引き継ぎ、『カメラ・ワーク』最終号(第49・50号)を飾った
- エドワード・スタイケン ― 写真分離派の共同創設者、291を支えた盟友、後にMoMAで写真部門を主導
- ガートルード・ケーゼビア ― 写真分離派の主要メンバー、ピクトリアリズムを体現した写真家
- ジェイコブ・リース ― スティーグリッツの制度が周縁に置いた社会記録写真の代表
- ルイス・ハイン ― 労働・移民を主題とするドキュメンタリー写真。芸術写真と社会記録の分岐を示す対照点
ジョージア・オキーフ寄贈を中心にNGAが収蔵する約1600点のオリジナル・プリントを全2巻で収録。スティーグリッツの制作を初期ピクトリアリズムから晩年のエクイヴァレンツまで通史的に把握できる。
1903年から1917年にかけて刊行された写真誌『カメラ・ワーク』全50号の掲載写真を全点収録。スティーグリッツが何を「写真作品」として選び、どう見せてきたかを一冊で辿れる。
- Art Institute of Chicago — Alfred Stieglitz Collection(分離派・エクイヴァレンツ・ストレート写真など主題別に解説)
- National Gallery of Art — Alfred Stieglitz Key Set(約1600点のオリジナル・プリントをデジタル公開)
- The Met — Alfred Stieglitz and American Photography(伝記と写真史上の位置を整理したエッセイ)
- MoMA — Alfred Stieglitz(所蔵作品一覧と展覧会記録)
- J. Paul Getty Museum — Alfred Stieglitz(ゲッティ所蔵のプリントとドローイング)
- V&A — Alfred Stieglitz: Pioneer of Modern Photography(ピクトリアリズムからモダニズムへの転換を概説)