写真の座標 Photo Coordinates
PHOTOGRAPHERS/NERHOL ·ポートレート ·UPDATED 2026.06
N
§ 299 — Photographer Index — ポートレート

ネルホル

Nerhol 2007–
Country日本 Period2010s — 2020s Channel写真史の論点 · 写真と彫刻
Abstract

Nerholは、田中義久と飯田竜太によるアーティストデュオ。写真を一枚の平面イメージとして扱う前提から離れ、出力、積層、切断、展示、書籍化を含む物体的なプロセスとして組み替えてきた。初期の《Misunderstanding Focus》では、顔は主題であると同時に、写真が像として成立する条件を見せるための素材になる。expanded photographyやphotographic objectの流れに置くことで、紙、印刷、彫刻、デザイン、映像アーカイブ、帰化植物へ広がる制作の核が見えてくる。

この写真家が変えたこと

Nerholが加えた視点は、写真を「何が写っているか」だけでなく、どのような物として出力され、重ねられ、切られ、展示され、書籍へ移されるのかという条件から読む道筋を示した点にある。初期のポートレート作品は、顔を奇妙に変形するための作品ではなく、一枚の写真が人物像として成立するまでに背景化される支持体、順序、選択、加工を前面化した。人物、街路樹、帰化植物、映像アーカイブへ広がる制作は、写真を平面プリントの外へ押し出し、イメージ、物体、記録、流通の交差点で考えるための実践である。

Keywords 写真と彫刻 ポートレート 積層写真 時間の断面 写真的オブジェクト ブックアート
§ WORKS 作品を見る
目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

Nerholは、グラフィックデザイナーの田中義久と、紙や書籍を素材にしてきた彫刻家の飯田竜太によって2007年に結成された。Dentsu-hoのインタビューで田中は、飯田の彫刻に強い視覚性を感じ、自分のデザイナーとしての視点と飯田のアーティストとしての視点から共通項だけを取り出して一つの形にしたら何が生まれるのかを考えたことが、協働の出発点だったと語っている*1。同じインタビューでは、ユニット名がアイデアを「練る」田中と「彫る」飯田に由来すること、2007年の最初の展示ではデザイン側からも美術側からも評価を得にくかったこと、その後の約4年間にデザインと美術の関係を検討し続けたことが説明されている*1。Audio-Technicaの取材では、飯田の2005年の個展を田中が見たこと、お互いに紙への関心やデザイン的感覚を共有していたこと、最初の共同制作後に「自分たちが見ていること」を定着できる作品を探すため試作を重ねたことが語られている*2

初期の関心は、書籍、文字、既存の図像が持つ定型をずらすことにあった。Yutaka Kikutake Galleryの略歴は、Nerholの探求が、書物、そこに印された文字、世界に存在する図像の定型を異化する試みから始まったと整理している*4。shashashaの作家ページも、Nerholを本、テキスト、イメージを用いて人間と記号や文字の関係を問うデュオとして紹介している*21。Its Nice Thatのインタビューでは、最初期の《Oratorical Type》が本をテーマにし、各ページの一部を丁寧に彫り抜くことで別の次元を生んだ作品として紹介されている*3。この出発点から見ると、Nerholにとって写真は、純粋な撮影行為としてではなく、紙に印刷され、束ねられ、ページや物体として扱われる情報の一形式として現れた。

《Misunderstanding Focus》へ至る過程では、素材に印刷された内容、連続した映像、動きのある素材をどう扱うかが重要になった。美術手帖のインタビューで飯田は、初期の試行錯誤の後、素材に印刷されている内容を重視するようになり、連続した映像や動きのある素材から作品をつくる考えに至った結果、このシリーズが生まれたと説明している*5。2015年にはFoam写真美術館で初の国際個展「Index」が開かれ、同館はNerholが写真と彫刻の緊張関係を探り、肖像の制作過程そのものを含む「index」を提示したと説明している*7。2016年の金沢21世紀美術館「Promenade」は、Nerholを同時代の消費、生成、陳腐化の循環を批評する作家ユニットとして紹介し、Foam Talent Call 2014への選出や国外展示も記録している*15。2024年の千葉市美術館「水平線を捲る」は、人物の連続写真から帰化植物、珪化木、アーカイブ映像まで対象が広がった活動を、美術館で初となる大規模個展として整理した*8

§ 02 / 04 表現の核心

写真が平面を越えて扱われる文脈

Nerholを理解する入口は、顔や身体よりも、写真が一枚の平面プリントを越えて扱われてきた流れにある。写真は長く、壁に掛けられるプリント、雑誌や書籍に印刷される複製画像、現実を記録するドキュメントとして受け取られてきた。しかし1960年代末から70年代にかけて、写真は二次元の紙面に収まる像だけでなく、立体物、インスタレーション、映像、パフォーマンス、展示空間と結びつく形式として扱われるようになった。1970年にMoMAで開かれた「Photography into Sculpture」は、写真によって形成されたイメージを、彫刻的または完全な三次元の形式で用いた包括的な展覧会として記録されている*23。Apertureに掲載されたメアリー・スタッツァーの解説は、この展覧会が、写真を紙の上の認識可能な二次元イメージとして見る通念だけでは、同時代の写真の複雑さを説明しきれないという問題意識から出ていたことを紹介している*25。同展にはロバート・ハイネッケン、エレン・ブルックス、ビー・ネトルズ、ロバート・ワッツらが含まれ、写真が何かを写した紙であるだけでなく、布、ライト、フィルム、段ボール、木、プラスチックなどと結びつく物体として展示された*25

expanded photographyは、このように写真がプリントの外へ広がり、彫刻、インスタレーション、映像、パフォーマンス、建築、観客の身体と接続していく状況を考えるための語である。photographic objectは、写真を写っている内容だけでなく、支持体、厚み、展示方法、制作プロセスを含む物体として扱う見方を指す。ルーシー・サウターは、デジタル時代に写真が他の形式や活動と結びつき、三次元へ進んで彫刻やインスタレーションや建築と重なり、時間や行為を映像、パフォーマンス、観客参加として扱うようになったと整理している*24。この「拡張」は、写真が写真でなくなることではない。写真がもともと持っていた複製、印刷、展示、流通、記録、物体としての側面が、近代写真の標準的な額装プリントだけでは説明できない形で前面化したということである。

この流れの中で写真の「物質性」が問題になるのは、写真が平面の図像であると同時に、フィルム、紙、インク、展示空間、書籍、スクリーンなどを通して現れる物でもあるからである。ここでいう物質性は、紙の厚みや銀塩プリントの手触りだけを意味しない。写真がどの支持体に定着し、どのサイズで出力され、どのように運ばれ、壁、床、台座、本、スクリーンの上でどう経験されるかまで含む。Photoworksの「Photography’s New Materiality?」は、写真イメージが初期から受動的な像ではなく、手に取られ、交換され、使われることで意味を組み立てる能動的な物体だったと整理している*28。つまり写真の物質性とは、画面に何が写っているかだけでなく、そのイメージがどのような物として人の前に現れ、どのような使われ方や見られ方を引き受けるのかという問題である。

ジェーン・ヴォリネンの博士論文は、この論点を現代美術の中でさらに整理している。ヴォリネンは、近年の写真の物質性が、一方ではコラージュ、彫刻、ミクストメディアへ向かう触覚的な制作として現れ、他方ではデジタル環境の中で単一の写真イメージの物体性がほとんど無関係になる方向へ進んでいると述べる*26。この二つの方向は矛盾しているようで、実際には同じ背景を持っている。写真がデータとしてコピーされ、圧縮され、スクロールされ、別の画面へ移動する機会が増えるほど、作家は逆に、プリント、支持体、切断、配置、展示空間といった条件を作品の中で扱うようになった。物質性への関心は、アナログ写真への懐古ではなく、写真がどの条件のもとで像として成立するのかを問い直す方法として強まった。

国際写真センター(ICP)の「What Is a Photograph?」は、この状況を写真史の中で整理した展覧会である。同展は、1970年代以降の写真における実験を、光、色、構図、物質性、主題を再考し再発明する動きとして紹介し、デジタル技術の台頭がアナログ写真、デジタル画像、その混合形態を再検討させたと説明している*12。同展ではマシュー・ブラント、マルコ・ブロイヤー、リズ・デシェーヌ、アダム・ファス、ゲルハルト・リヒター、ルーカス・サマラス、リーサ・ウィルソン、マライア・ロバートソン、ジョン・ラフマンらが紹介され、化学的処理、カメラレス写真、抽象、デジタル画像、既存イメージの再利用など、写真を一つの技法に限定しない作品が並んだ*12。ここでの問いは、写真が現実をどれほど正確に写すかではなく、写真がどのような素材、処理、出力、展示によって作られ、どこまで写真であり続けるのかに移っている。

埼玉県立近代美術館の「New Photographic Objects」は、この問題を日本の同時代写真と映像の中で整理した展覧会である。同展は、デジタル技術、編集ソフト、コピー、スキャニング、出力方法、インスタレーション、ソーシャルメディアなどが複合的に使われる状況の中で、写真や映像の表現言語が更新されていると説明している*10。同展ではNerholのほか、迫鉄平、滝沢広、牧野貴、横田大輔が紹介され、スナップ写真を時間的に引き延ばす映像、プリントやスキャンを反復する作品、重層的な抽象映像、データ加工や特殊な現像を含む写真などが並べられた*10。同展が扱った「物質性」は、紙やインクを愛でる趣味ではない。写真や映像が、撮影後にどのようなデータ、プリント、スキャン、折り目、断面、スクリーン、展示空間として現れるかを検証し、メディアの歴史、特性、機能を作品の構造へ組み込む姿勢である*10。同名書籍を紹介するshashashaのページは、Nerholの冊子が作品のクローズアップで構成され、紙への深い切り込み、研磨後に残る繊維、インクの微細な傷、重なった層のパターンに注目していると説明している*22

Nerholはこの文脈の中で、ポートレートを立体化した作家ではなく、写真が像として成立するまでの手順を作品の見え方そのものに組み込む作家ユニットとして位置づけられる。誰をどれくらいの時間幅で撮るか、何枚出力するか、どの順序で束ねるか、どこまで刃を入れるか、断面を壁や本の上でどう見せるか。通常の写真では撮影後の処理として見えにくくなる判断が、Nerholでは顔や植物や映像アーカイブの形を直接決める。鑑賞者は、完成した一枚の像を読むだけでなく、その像が連続画像、紙の束、切断された断面、展示物へ変わる過程を同時に見ることになる。ここで写真は、被写体を写す透明な窓ではなく、出力、加工、展示によって意味が変わる物として扱われる。ジェーン・ヴォリネンはNerholをめぐる論文で、この作品を写真か彫刻かという二択ではなく、写真以上であり彫刻以上でもあるものとして論じている*27。その理由は、撮影されたイメージと紙を彫る行為が別々に存在するのではなく、同じ作品内で互いの意味を変えているためである。同論文では、Nerholの制作において、撮影という写真の実践と紙を彫る物質的な流れが重なり、連続写真の時間が二次元の帯ではなく物理的な奥行きとして現れることが指摘されている*27。Nerholの重要性は、写真を重くしたことではなく、写真が通常は背景へ退ける支持体、順序、加工、展示の条件を、像を読むための要素にした点にある。

田中義久と飯田竜太の問題意識

Nerholの方法は、田中義久のデザインと飯田竜太の彫刻を分担表として並べるだけでは説明しにくい。Its Nice Thatのインタビューでは、田中がレイアウト、撮影、プリントを担当し、飯田が彫刻のプロセスを担い、仕上げでは互いにフィードバックするという制作上の分担が語られている*3。しかし作品の核は、画像をどう見せるかというデザインの問題と、素材をどう削るかという彫刻の問題が、同じ物体の中で衝突する点にある。田中にとって写真は、構図、印刷、サイズ、紙面、視覚伝達の問題を含む平面の情報である。飯田にとって写真は、積むことができ、刃を入れることができ、削った断面が別の像を作る素材である。MARPHの略歴は、二人が「現代においていかにして問題を提起し、人に伝えていくか」という方法論に共通項を見出したと説明している*20

この問題意識は、写真を扱う段階でより明確になった。同じ取材で田中は、彫刻とグラフィックデザインでは使う言語がまったく変わるため、その言語を作品を通して他者とも共有する方法を考え続けてきたと述べている*5。Audio-Technicaの取材で田中は、グラフィックデザインと彫刻では「深さ」という言葉一つでも意味が変わるため、共有できる場所をすり合わせることに意義があると述べている*2。田中の問題意識は、視覚情報をどのように整理し、他者へ伝えるかというデザインの側にあり、飯田の問題意識は、紙や本や彫刻がどのように物として立ち上がるかという素材操作の側にあった。Nerholのポートレートは、写真に彫刻的な見た目を与えるための奇抜な加工ではなく、二つの専門領域が共有できる言語を、写真という印刷物の上で探す過程から生まれた。

顔は主題ではなく、形式を見せる入口になる

《Misunderstanding Focus》や《Index》では顔が中心に現れるが、Nerholの中心的な問題は顔そのものではない。Foam Collectionは《w Face, 23 March, Tokyo, Japan》を、3分間に撮影された多数の写真からなるタイムラプス・ポートレートと説明し、その過程が被写体の意図しない微細な動きを捉えるものだと書いている*6。artscapeのキュレーターノートは、《Misunderstanding Focus》が証明写真のような設定で3分間モデルに座ってもらい、その間に撮影したA4サイズの写真200枚を約3センチ分積み重ね、地形模型のように彫り込む作品だと説明している*9。この方法で見えてくるのは、人間の内面や本当の顔ではない。一般的な顔写真では、撮影前後の数秒、被写体の微細な姿勢変化、どの一枚が選ばれたか、どの紙に出力されたかは、像の読み取りから外される。Nerholは、その外された手順を、顔の表面に戻している。

紙の層が意味を持つのは、厚みが見えるからではなく、一枚ごとのプリントが別々の撮影時点に対応し、彫る操作によって異なる瞬間の断片が同じ顔の表面に並ぶからである。Foamは、Nerholが多数のイメージを一つの画面にまとめることで、写真の中に常に存在する小さな変化を明らかにしていると説明している*6。浜口陽三、ヤマサコレクションでのギャラリートークで大浦周は、顔が視界に入った瞬間に認識できるほど強いモチーフであり、Nerholの積層され彫られた顔は、その半ば自動化された認識のシステムを少し遅らせる狙いがあるのではないかと述べている*19。顔は人物の本質を表す主題ではなく、写真が一枚の像として素早く処理される仕組みを示すための入口になる。

写真と彫刻の往復は、何を変えるのか

Nerholの作品は、写真を彫刻へ格上げするものでも、彫刻を写真で説明するものでもない。彫刻では、量塊、奥行き、表面、視点の移動が重要になる。写真では、フレーム、平面、光学的記録、プリント、複製可能性が重要になる。Nerholは連続撮影されたプリントを重ね、彫刻のように削るが、削られた凹凸の表面には常に写真のインクと像が残っている。Foamの「Index」は、写真が技術的で距離を置いた単一イメージを生みやすい媒体であり、彫刻が身体性、表現、複数の視点を含む媒体であるという緊張関係を、Nerholが探っていると説明している*7。MoMAの「The Original Copy」は、写真が彫刻を記録するだけでなく、切り取り、焦点、視点、接近、照明、暗室操作、コラージュ、モンタージュ、アサンブラージュを通じて、彫刻の理解そのものを作り替えてきたと説明している*13

この往復が意味を持つのは、写真の記録性と彫刻の不可逆な加工が、同じ作品内で切り離せなくなるためである。Yutaka Kikutake Galleryの「Representation」は、Nerholが人物、街路樹、動物、水、ネット上の画像データや記録映像などを素材にし、100枚から200枚を超える写真の束を彫る方法によって、被写体の時間軸まで歪ませるようなイメージを作ってきたと説明している*14。同展では鏡面を素材にした作品が紹介され、特定のモチーフを描くのではなく、歪んだ鏡面が鑑賞者や周囲を不規則に反射する装置として働くと説明されている*14。ここでの「彫る」は、顔を派手に歪ませる技法ではなく、イメージ、支持体、展示空間、見る位置の関係を変える操作である。

肖像から街路樹、帰化植物、映像アーカイブへ

Nerholの表現をポートレートだけに限定すると、彼らの中心にある問題を狭く見てしまう。MARPHの略歴は、Nerholが人物、街路樹、動物、水、ネット空間にアップされた画像データや記録映像などへモチーフを広げ、それらが孕む時間軸さえ歪ませるような作品を制作してきたと説明している*20。千葉市美術館も、人物の連続写真を重ねて彫る初期のポートレートから、帰化植物、珪化木、アーカイブ映像まで対象が広がったと記している*8。artscapeのキュレーターノートは、《multiple-roadside tree》を、ポートレートにおける3分間という時間のスケールを大きく引き延ばした作品として説明している*9。同ノートによると、この作品では木の幹を水平方向に5ミリずつ薄くスライスし、その断面を撮影する行為を120回繰り返し、120枚のプリントからレリーフ状の立体を作っている*9。ここでは、顔の微細な時間差が、木の成長や街路に置かれた植物の時間へ置き換わっている。

帰化植物や映像アーカイブへの展開では、写真オブジェクトの問題がさらに広がる。千葉市美術館は「水平線を捲る」で、Nerholが帰化植物、珪化木、アーカイブ映像を対象に、移動や記録に関わる制作へ展開してきたことを整理している*8。2026年の「Unseen Body」では、プロの人体モデルを撮影した映像から数万枚の静止画を出力し、短冊状に裁断して積み重ねる新作が紹介された*16。この流れでは、写真や映像が細かく分割してしまう時間を、紙、断面、展示空間の中で再構成することが主題になる。Nerholの制作は、顔から植物や映像へ主題を変えたというより、像がどのような支持体と手順を通して認識されるかという問題を、対象ごとに組み替えてきたと言える。

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

《Misunderstanding Focus》2012年

《Misunderstanding Focus》は、Nerholの方法を最も端的に示す初期の代表的シリーズである。MARPHは、2011年から数分間かけて200カット以上撮影したすべて異なるポートレートを束ね、彫刻することで歪んだ人物像の立体作品を発表したと説明している*20。Its Nice Thatは、被写体に3分間できるだけ動かずにいてもらい、その写真の束を切り込むことで、木の年輪のように時間の経過が見えると紹介している*3。この作品で「静止」は、完全に達成される状態ではなく、撮影時間の中で少しずつ崩れていく条件として扱われる。被写体が静止しようとするほど、まばたき、呼吸、姿勢の微差が複数のプリントに分散される。彫りはその差分を一つの顔の表面に集める。作品名の「Misunderstanding Focus」は、焦点が合った写真が対象を正しく捉えるという前提に対し、選ばれる一枚や切り込む場所が変われば別の人物像が成立するというずれを示している。

《w Face, 23 March, Tokyo, Japan》2015年

w Face, 23 March, Tokyo, Japan》は、Foam Collectionに収蔵されている2015年の作品で、素材は積層されたインクジェット・プリント、サイズは23×20×4.5cmと記録されている*6。Foamは同作を、アイデンティティと構築されたイメージをめぐる作品として紹介している*6。小さなサイズの中に、正面から撮影された顔の多数の差分が積み重なり、削られた表面には一人の人物像と複数の時間が同時に現れる。Foamの作品解説は、Nerholが写真のポートレートと「現実」のスナップショットというジャンルを問い直し、わずかな動きだけでも被写体の表象が変わることを示していると説明している*6。Foamの読みでは、同作は「identity」「constructed image」「photographic portraiture」「snapshot of reality」という語で説明され、人物を一つの現実として提示する写真の仕組みを問題にする作品として扱われている。

《multiple-roadside tree》、《Remove》、《Unseen Body》

《multiple-roadside tree》は、人物の顔から街路樹へ対象を移した展開を示す作品群である。Yutaka Kikutake Galleryの作品一覧には2016年の《multiple-roadside tree》が掲載され、Nerholの制作がポートレート以外の有機物へ広がったことを確認できる*18。金沢21世紀美術館「Promenade」の展覧会情報は、Nerholが現代の経済活動が生む消費、生成、陳腐化の循環を批評してきたと説明している*15。この文脈では、街路樹は自然物であるだけでなく、都市の管理、移植、伐採、成長、記録の時間を含む対象になる。2020年の《Remove》は、上野の森美術館「VOCA展2020」でVOCA賞を受賞した作品で、同館はインクジェットプリント、150×204×5.7cmとして記録している*17。同展の選考所感では、何重にも積層された写真を荒く切り刻むことで彫刻的な物質感を獲得し、モノクロームのイメージによって再び写真的な質へ近づく両義性が指摘されている*17。美術手帖のインタビューでは、《Remove》が過去に撮られた動画アーカイブを素材にした作品であり、NASAの重力テストプログラムの映像に関わるものだったことが語られている*5。2026年の《Unseen Body》では、映像から出力された数万枚の静止画を縦に積み重ねる方法へ進み、初期ポートレートの「数百枚の顔」は、身体運動を細かく分割した膨大な静止画の束へ拡張された*16

§ 04 / 04 批評と写真史上の位置

ポートレート論から写真オブジェクトへ

Nerholを写真史に置くとき、ポートレートは重要な入口である。肖像写真は、顔を人物の同一性へ結びつけ、被写体を「その人」として識別させるための形式として機能してきた。Foamは、Nerholが写真のポートレートと現実のスナップショットというジャンルを問い直していると説明している*6。ただし、Nerholの位置をポートレート論だけで説明すると、出力、積層、切断、展示、書籍化まで含む制作条件が見えにくくなる。彼らの肖像は、誰かの内面を深く表すというより、三分間の連続撮影とその後の切断によって、顔写真が一枚に整理される前後の差分を一つの物体に圧縮する。

この点でNerholは、森村泰昌のように肖像を演技や美術史の引用によって構成する作家とも、トーマス・ルフのようにポートレートの制度的な無表情さを扱う作家とも異なる場所に立つ。近い比較対象としては、時間を写真の中に可視化する佐藤時啓や、デジタル画像を物理的ではなくデータ上で変形する小林健太を置くと、Nerholの輪郭が見えやすい。佐藤が長時間露光によって光の痕跡を画面に残すのに対し、Nerholは連続撮影されたプリントの束を削ることで、短い時間の差分を紙の断面に残す。小林が画像をデジタルに歪ませるのに対し、Nerholは印刷された写真を切ることで、修正やコピーでは消えない物理的な不可逆性を作品に加える。

この位置づけの射程と限界

Nerholの位置づけは、写真、彫刻、グラフィックデザインのいずれか一つへ回収すると弱くなる。埼玉県立近代美術館は「New Photographic Objects」で、Nerholを写真と映像の物質性を重視する作家群の中に置き、同展の参加作家がメディアの物質性を通じてこの領野に新機軸を打ち出していると説明している*10。Case Publishingの同名書籍ページは、同展のカタログが参加作家ごとに判型や用紙や造本方法を変え、展覧会のテーマを別の回路から掘り下げる仕様だったことを記している*11。この点は、田中義久がグラフィックデザイナーであることと接続する。Nerholにおけるデザインは、作品を見やすく整える補助作業ではなく、どのサイズで出力し、どの順序で重ね、どの状態で展示し、どの本の形で再構成するかという、作品の認識条件を決める仕事である。

Nerholの方法は、写真の本質を解いたものでも、ポートレートの正解を示したものでもない。彼らの作品は、カメラが一瞬を記録することと、写真がその一瞬を安定した像として使うことのあいだにある手順を、撮影、出力、積層、切断、展示として拡大している。紙を重ねて彫る方法だけを見れば、作品は視覚的な効果に回収されやすい。作品の要点は、歪んだ顔の見た目よりも、一枚の写真が対象を代表できると考えられる条件を、出力や切断や展示がどのように変えるかにある。この限定を置くことで、Nerholは写真が像、物体、情報、展示物として同時に働く現代の条件を、具体的な制作手順へ変換した作家ユニットとして位置づけられる。

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • 小林健太 — ― 画像の変形をデジタル処理の側から考える比較対象。Nerholはプリントを積み、切り、削ることで画像を物理的に変形する。
  • 佐藤時啓 — ― 時間を写真の画面へ可視化する比較対象。Nerholは時間を露光の痕跡ではなく、連続プリントの断面として扱う。
  • トーマス・ルフ — ― ポートレートと写真制度を考える比較対象。Nerholは規格化された顔より、顔が規格化される前の微細な時間差を扱う。
  • 森村泰昌 — ― 肖像を演技と引用で作る比較対象。Nerholは演技ではなく、撮影時間と紙の彫りによって肖像を組み替える。
Movements / Contexts
  • 写真と彫刻 ― 写真が彫刻を記録するだけでなく、写真そのものが彫られ、切られ、空間に置かれる文脈。
  • 写真的オブジェクト ― デジタル画像時代に、プリント、支持体、出力、展示、物質性を通じて写真の条件を問い直す文脈。
  • ブックアート、グラフィックデザイン ― 書籍、ページ、文字、紙面設計から出発したNerholの初期関心と接続する文脈。
§ REF さらに読む
Misunderstanding Focus
Nerhol / POST、limArt / 2012年
New Photographic Objects 写真と映像の物質性
Case Publishing / 2022年
Nerhol 2007–2024 / Nerhol 水平線を捲る
国書刊行会 / 2024年
2024年の千葉市美術館での個展に伴う作品集。初期の肖像から街路樹・帰化植物まで、結成以降の仕事を一冊で概観できる。
Amazonで見る
Phrase / Everything
amana / 2017年
一人の人物を数分間連続撮影した多数のプリントを重ね、層ごとに削り出して一枚の肖像にする手法をまとめた作品集。過去の三つの個展を一冊に再構成している。
Amazonで見る
種蒔きと烏 Misreading Righteousness
国書刊行会 / 2026年
埼玉県立近代美術館での個展(2025年)に伴うカタログ。物事の一義的な確かさを問い直す近作と未発表作、約80点を収める。
Amazonで見る
§ SRC 出典