横田大輔は、長く撮り続けられる被写体を見つけられず、撮影済みの画像を再撮影、熱湯現像、複写、製本、焼却へ戻すことで制作を続けた。写真は撮影時の光景を固定するが、記憶は現在の経験によって変わる。横田は一度できた像を再び制作へ戻し、後から加わった選択、偶然、物質変化まで写真に残した。『Back Yard』『Site / Cloud』『Inversion』『MATTER / BURN OUT』から、この方法が必要になった経緯と、写真を現在から過去へ働きかける材料として捉える視点をたどる。
暗室操作や損傷写真には長い先行史がある。その中で横田を特徴づけるのは、写真を現在から繰り返し作り直される材料として扱う方法である。デジタル画像、再撮影したネガ、乳剤、コピー、写真集、展示物を次の処理へ渡すため、撮影後の選択や薬品の反応も像の履歴になる。横田の実践から、写真は過去を固定する完成品だけでなく、現在から過去を繰り返し作り直す材料として見えてくる。
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目次 · Table of Contents
写真を選んだ理由──被写体より先にあった暗室への関心
横田が写真へ進んだ契機は、撮るべき主題の発見より、カメラと暗室への関心だった。父親の一眼レフを特別な道具と感じた記憶から日本写真芸術専門学校へ進み、暗室で現像を学ぶ。薬品による変化は、幼少期の化学クラブの経験と結びついたという*1。卒業後は実家に暗室を設けた。横田にとって写真は、外界を選ぶ視覚表現である前に、光、薬品、フィルム、紙へ手を加える制作だった。
被写体を選べない危機と《They》──撮影後にも写真をつくる
写真家として活動しようとすると、何を撮り続けるのかという問題に直面した。長く追える被写体を見つけられず、「被写体がなければ写真が成り立たないなら、自分には写真ができない」と悩んでいた*2。スナップには意図しない人物や看板が入り、撮影時に何を選んだのか確信できない。そこで反応した部分を確かめるため、Photoshopで顔や文字を消し、画像をフィルムで再撮影して強く現像した。《They》は、既存画像を材料にすれば、安定した被写体を持たなくても制作を続けられるという回答になった*1。
暗室とサンプリングが接続した制作方法──ZINEまでを一つの工程にする
被写体を見つけられない危機に、暗室と音楽制作の経験が突破口を与えた。横田はケーブルのハムノイズなどを採取し、断片の反復から音楽を組み立てていた。このサンプリングが、撮影済みの画像を加工して別の像を探す方法へつながる*1。コピー冊子では、複写機の傷、濃度差、裏写りも次の判断を生む要素になった。『Back Yard』『Site』では、撮影、編集、コピー、ページ順が連続し、複写の結果を見ながら次の処理と配列が選ばれた*5。ZINEは写真を反復しながら変える工程に組み込まれた。
写真と記憶──過去は現在から作り直される
横田は『Back Yard』について、同じ経験を繰り返し思い出しても二度と同じ記憶にはならず、記憶は現在との関係で変化すると述べている*6。写真は光景を固定するが、想起は見る時点によって別の意味を生む。デイヴィッド・ベイトは、写真が文化のなかで記憶を生産する「想起の装置」として働く点を論じる*24。アネット・クーンは、個人・家族写真を用いる「記憶作業」が、過去を現在から語り直す過程を明らかにすると考える*25。
横田の再撮影は、この再構成を鑑賞者の語りだけでなく、像の側にも起こす。《Untitled No. 421》(2012年)などの街路像は『Site / Cloud』へ展開された*18。横田は撮影済みの画像をデジタル処理、プリント、再撮影、高温現像、スキャンへ通し、前の状態を残したまま別の像へ変える*1。写真は撮影時の状態を固定した完成品にとどまらず、現在から過去へ繰り返し働きかける材料になる。
なぜ再撮影と薬品が必要だったのか──現在の意識だけで像を決めない
デジタル処理だけで曖昧な像を設計した場合、変化の範囲は作者があらかじめ選んだ操作に収まりやすい。横田は撮影時に偶然を増やし、編集で理想へ近づけ、現像で再び予測外の変化を加える往復を説明している*5。さらに、期待を裏切る結果を求め、撮影された対象を環境と自分から切り離すことで、次の制作の手がかりを得ると述べた*22。薬品、熱、乳剤の剥離を導入すると、作者が事前に決めきれない変化が像に加わる。横田の作者性は完成像を先に支配することより、生じた結果を見て、残す像と次に処理する像を選ぶ場面に現れる。
《Mortuary》では、巨大な感光紙を限られた設備で現像し、傷や現像むらを制作条件として受け入れた*10。セイドラ・ムーン・マーフィーは、横田とスティーヴン・ギルの崩壊する写真を、記憶の内容より想起の過程を示す実践として論じ、画像の分解を喪失だけでは説明できない生成として捉える*23。腐朽や解体も意味を生む場合を検討したケイトリン・デシルヴェイの議論も、この読みの周辺に位置する*28。損傷は記憶らしい外観を作る装飾ではなく、過去の像が現在の身体、装置、物質に触れて変化する工程である。
《Inversion》──被写体を離れ、写真が生じる条件へ
再撮影と熱湯現像を続けるうち、問いは撮影装置へ及んだ。小型カメラの設計、露出制御、画像処理が「写真らしい像」の範囲を決め、自分のスナップもその外へ出られないと考えたという*20。《Inversion》や『Color Photographs』では、未露光フィルムを高温で現像し、乳剤の剥離や薬品の流れから像を生じさせた*2。Getty所蔵の《Inversion》は、2015年のソラリゼーションを伴うゼラチン・シルバー・プリントとして登録されている*8。デジタル撮影が日常化し、フィルムを効率的な記録媒体として使う必然が薄れたため、化学的な素材として扱えると横田は説明している*2。
『Back Yard』『Site』『VERTIGO』──写真集が反復の時間を構成する
横田の写真集は、反復処理をページをめくる時間へ変換する。『Back Yard』『Site』では、コピーの黒、薄い紙、裏写りが像をつなぎ、人物や街路が異なる状態で反復する*5。『Site』の書誌とページ画像はshashashaで確認できる*14。『VERTIGO』では、似た身体、暗闇、反射が前の写真を呼び戻しながら続く*22。Seattle Art Museumも『Immerse』『Linger』を造本を含む作品として紹介している*12。
《Inversion》《Color Photographs》──抽象写真と見る者の投影
《Inversion》と『Color Photographs』では、特定の出来事を指す像が後退し、現像されたフィルムと印画紙の表面が前面に現れる。Kominek Galleryの展覧会文でブラッド・フォイヤーヘルムは、横田のカラー・ケミグラムを化学反応による抽象写真の歴史へ位置づけ、作者の表象制御を弱め、見る者の投影を開くものと読んでいる*17。写真集『INVERSION』は各ページをシルクスクリーンで刷り、一冊ごとに差を残した*15。横田は、写真は人が特定の時間と場所で見ることで素材から「現象」になると述べている*30。指示対象が弱まるほど、乳剤の形に何を見いだすかという鑑賞者の働きが表面化する。
《MATTER / BURN OUT》《Matter / Vomit》──画像の過剰生産を重量と廃棄で示す
《MATTER / BURN OUT》では、厦門で展示した写真群を焼き、燃焼を約4000点撮影して次の作品と写真集へつないだ*9。以前の展示物は失われるが、その消失は新しい写真となって現在の制作へ戻る。過去の作品をそのまま保存することも、完全に捨てることもせず、燃えている途中の状態を次の像の材料にする。《Matter / Vomit》では約10万枚のプリントをワックスで固め、床を塞ぐ塊として展示した*16。データとして軽く複製される画像が、十万枚の紙、ワックス、展示面積、焼却後の残骸として現れ、画像の量と保存・廃棄の負荷が同じ空間で知覚される。
《Room. Pt. 1》《Sediment》──支持体が変える黒、透過性、鑑賞距離
《Room. Pt. 1》では、ラブホテルで撮った同じ画像が、光を発するモニター、光を反射する印画紙、透過するOPPシートやPVC、壁面パネルとして現れる*4。ある出力を次の作品のネガとして使うため、同じデータでも黒の深さ、像の透け方、表裏、鑑賞者との距離が変わる。支持体を替えて見比べると、画像は媒体から独立した同一情報ではなく、発光、反射、透過の条件ごとに異なる見え方を持つことが分かる*20。《Sediment》では複数の像と支持体が地層のように重なり、撮影した場所の再現より、出力されるたびに別の物体となる写真の履歴が見える。
《植物―多摩川中流域》《植物―暗室》──被写体の観察と暗室で生じる像
近年、横田は多摩川中流域の植物を「初めて自分が追っていきたい被写体」と語った*2。《植物―多摩川中流域》では大判カメラで自生植物の形を観察し、《植物―暗室》では同じ地域への関心を、作家独自の暗室ワークを通して焼き付けた像へ接続している*3。この展開は、横田の全作品を記憶論だけで統一できないことも示す。外界の形をどこまで観察し、暗室で生じる形をどこまで受け入れるかという問いが、被写体を得た後にも残っている。
ZINEと国際流通──2010年代のポストデジタル写真
横田は『Back Yard』『Site』を海外へ送り、国内の制度的評価に先んじてフォトブックの流通から認知を広げた*2。本人も、白黒のゼロックス冊子が海外で「日本写真」と結びつき、価値を得た面を認めている*5。2013年のOutset|Unseen Exhibition Fund、2015年のJohn Kobal New Work Award、2016年のFoam Paul Huf Awardへ評価が続いた*7。作品はPhotoshop、プリンター、スキャナー、コピー機、再撮影、乳剤を往復する。デジタルかアナログかという分類より、異なる装置を通った像を次の制作へ戻す工程が重要である。
写真の物質性──完成後の履歴を制作工程へ
エリザベス・エドワーズとジャニス・ハートは、写真を像であると同時に物体として捉え、その物理的性質、扱われ方、置かれる文化的環境が意味を形づくると論じた*27。通常、傷や退色、移動の痕跡は写真が作られた後に蓄積する。横田は染み、折れ、剥離、ワックス、焼損を制作中に生じさせ、その状態を再撮影して次の像へ使う。写真の物質性は表面効果として強調されるだけでなく、現在の扱いが過去の像の形と読み方を変える仕組みとして現れる。
ホセ・ファン・ダイクは、デジタル写真の操作可能性が個人像の継続的な作り替えに適合する一方、画像が将来どのように再利用され、別の文脈へ置かれるかを制御しにくくすると論じている*26。横田はこの可塑性をデータの内部だけで完結させず、フィルム、薬品、紙、コピー、展示物のあいだへ渡す。加工の多さ自体より、現在の処理によって、以前の写真が記録、素材、複製、残骸のどれとして現れるかが変わる点に意味がある。
抽象写真の系譜──一枚の完成像に閉じない工程
カメラレス写真と暗室操作には20世紀を通じた先行史がある。Tate Modern「Shape of Light」への《Inversion》の参加は、横田が抽象写真の歴史の中で受容されたことを示す*19。横田の位置は、抽象化や損傷を一枚の完成像へ収束させず、デジタル画像、再撮影したネガ、乳剤、コピー、写真集、展示物、焼却記録を次の処理へ渡し続ける地点から見ると明確になる。以前の出力は失敗作や完成品に固定されず、現在の制作が過去の写真へ再び接触するための材料になる。
写真と記憶を、孤立した瞬間と持続する時間の関係から考える研究には、ベルクソンの持続、知覚、記憶を写真や映画へ応用する議論もある*29。これは横田への直接的な影響を示さない。写真を固定された瞬間だけでなく、過去の状態が現在へ残る時間として考える周辺文脈である。横田についての直接的な根拠は、本人の発言と反復する制作工程にある。
マックス・ピンカースとの対照──表象を組み立てる方法と、記録を作り直す方法
2016年のFoto-Forum展「Floating Worlds」は、横田の《Linger》とマックス・ピンカースの《Two Kinds of Memory and Memory Itself》を併置した*11。ピンカースはドキュメンタリーを、外部現実の再現に限られない「スペキュラティブな過程」と捉え、その生産と消費を取り巻く構造を研究している*13。コリン・パンタルは、ピンカースが表象の枠組みを問い、横田が現在の処理を過去の像へ重ねるという違いを指摘した*21。横田の中心は過去の物語の再演より、撮影済みの像そのものを現在の条件へ戻すことにある。
- スティーヴン・ギル ― 写真素材を土、植物、液体などへ接触させ、像の分解と想起の関係をマーフィーが横田と比較している
- マックス・ピンカース ― 演出、資料、証言を用いてドキュメンタリーの表象構造を検討する。横田との対照から、像そのものを再処理する方法の違いが見える
- 多和田有希 ― プリントへの物質的介入を共有しながら、像、身体、被写体との結びつきから別の方向へ展開する
- 杉本博司 ― 露光時間、装置、プリントを通じて、写真に記録される時間の構造を考える比較対象
- ポストデジタル写真 ― デジタルとアナログを対立させず、相互変換される工程として扱う制作環境
- 実験的フォトブック ― ZINE、限定本、複写、印刷、造本を作品の構造へ組み込む実践
- 抽象写真/カメラレス写真 ― 被写体の記録より、光、感光材、薬品から像が生じる条件を扱う系譜