W・ユージン・スミスW. Eugene Smith

『LIFE』誌のフォト・エッセイから、ピッツバーグの都市記録、ニューヨーク・ロフト期の写真と録音、水俣の社会的告発まで。W・ユージン・スミスが、報道写真を一枚の証拠ではなく、時間・場所・人間関係を読む形式へ押し広げた過程をたどる。

基本情報
生没年 1918–1978

経歴

1918年、カンザス州ウィチタ生まれ。地元の新聞社で写真を始め、ニューヨークへ移り報道媒体の仕事を広げた後、1939年から断続的に『LIFE』誌のスタッフ写真家として活動した*1。第二次世界大戦では太平洋戦域を取材し、1945年5月に沖縄で重傷を負い長期療養を余儀なくされたが、その経験が戦争と人間の壊れやすさへの視点を深めた*3。復帰後は《Country Doctor》(1948)、《Spanish Village》(1950)、《Nurse Midwife》(1951)を発表し、フォト・エッセイの代表的な書き手となった*4。1955年からはピッツバーグを2年以上にわたって取材し、1957年にはニューヨーク6番街821番地のロフトへ移り、1965年まで写真と録音による巨大な記録を残した*26。1971年には水俣病の現場を記録するため日本へ渡り、1978年、アリゾナ州タクソンで没した*15

表現解説

媒体と出発点

W・ユージン・スミスの写真を理解する入口は、単に「戦場を撮った写真家」や「水俣を撮った写真家」という略歴ではなく、雑誌という媒体の中で写真をどのように並べ、どのように読ませるかという問題にある。ICPは、スミスが1939年から断続的に『LIFE』のスタッフ写真家として働き、第二次世界大戦ではジフ=デイヴィス社と『LIFE』のために太平洋戦域を取材し、沖縄で重傷を負ったと整理している*1。Center for Creative Photographyの略歴でも、スミスはウィチタで早くから新聞に写真を提供し、ニューヨークで『News-Week』に加わった後、写真雑誌と報道媒体の中で仕事を広げた写真家として説明されている*2。この経歴が重要なのは、スミスの写真が美術館の壁だけを前提にした単独作品ではなく、記事、キャプション、誌面の順序、暗室でのプリント調整とともに意味をつくるものだったからである。第二次世界大戦の取材では、ICPの「Living with the Dead」が太平洋戦域での従軍と1945年5月の負傷を伝えており、スミスにとって戦争写真は勇壮な記録ではなく、身体の損傷と死を通して人間の壊れやすさを見せる経験になった*3

一枚の決定的瞬間ではなく、読む写真へ

スミスの核心は、一枚の決定的瞬間を英雄化するよりも、複数の写真を組み合わせて、人物の仕事、疲労、生活環境、社会制度を読む形式へ写真を押し広げた点にある。1948年の《Country Doctor》では、スミスはコロラド州クレムリングの医師アーネスト・チェリアーニに23日間同行し、診療所、往診、手術、夜間の呼び出し、休息の少なさを連続する場面として構成した*4。Magnumはこのシリーズについて、チェリアーニがロッキー山脈の町で2,000人以上の人々に24時間医療を提供していたこと、また地方医師不足という同時代的問題を可視化したことを指摘している*5。この方法はフォト・エッセイという形式をゼロから発明したというより、戦後の『LIFE』誌という巨大な大衆媒体の中で、長期取材、人物への接近、誌面の順序、読者の感情の導線を一体化させた点に新しさがあった。LIFEは《Country Doctor》を発表時から「instant classic」と位置づけ、スミスを当時まだ若い力を持つフォト・エッセイ形式の名手にしたと説明している*4。Magnumも《Country Doctor》を写真報道史の「definitive moment」と見なし、スミスの物語構造がジャンルの新しい基準をつくったと述べている*5。ICP所蔵の《Country Doctor Ernest Ceriani administering anesthesia to a patient as a nurse and others look on.》は、1948年、クレムリング、ゼラチン・シルバー・プリント、LIFE Magazine Collectionという作品データを示し、雑誌の物語が具体的なプリントとアーカイブとして残っていることを確認できる*6。この形式は、瞬間の強さだけでなく、取材者が被写体の生活に滞在し、場面同士の関係を編集していく点に特徴がある。だからスミスのフォトジャーナリズムは、事件を知らせるだけではなく、一つの出来事や制度が一人の生活にどのように沈み込むのかを読ませる方法になった。

客観性への不信と、主観の点検

スミスのフォト・エッセイを支える主観性は、現実を自由に脚色するためのものではなく、写真家の判断を隠さず、その判断を被写体への研究と公平さで点検しようとする制作倫理として理解できる。前提には、1936年から1972年まで続いた『LIFE』の週刊誌文化があり、米国の読者が絵入り雑誌を通じて写真を読むという媒体環境があった*23。Museum of Fine Arts, Bostonの「Life Magazine and the Power of Photography」展は、『LIFE』の写真とフォト・エッセイが、写真家だけでなく編集、レイアウト、テキスト、制作資料を含む共同的な過程で成立していたことを示している*24。その中でスミスは、写真が完全な客観ではありえないことを前提に、物語を組み立てる時には自分の偏見を自覚し、それに反する考えを探し、公平であろうとすることで真実に近づくと語っている*18。スミス自身の写真論も、写真家は露光の瞬間まで主観的に働くが、解釈の出発点は被写体や場所の研究から得るべきで、写真家や編集者の先入観へ現実を押し込めてはならないと述べている*19。水俣についてのMagnumの記事では、アイリーン・M・スミスが、スミスはジャーナリズムから「objective」という言葉を消したいと語っていたと証言し、近づくことで客観性を失うのではなく、相手の現実を理解することが必要だったと説明している*15。そのためスミスの主観性は、個人の感情を押し出すための主観ではなく、雑誌媒体の編集構造、被写体への接近、そして自分の偏見を点検する態度が重なった方法として現れる。

ヒューマニズムと主観の緊張

スミスの写真はしばしばヒューマニズムとして語られるが、それは中立的な善意というより、被写体を尊厳ある存在として見せたいという強い編集意志と、写真家が物語を組み立ててしまう危うさの両方を含んでいる。ICPの人物解説は、スミスがフォト・エッセイを「究極の形」へ発展させた写真家として評価され、厳密なプリンターであり、技術的な熟練と誠実さの結合によって長く写真報道の基準と見なされたと述べている*1。1950年の《Spanish Village》に関係するICP所蔵《Elderly Woman, Spanish Village》は、スペインの村落をめぐるシリーズが、国や政治を抽象的に説明するのではなく、年老いた女性の姿、貧しさ、信仰、日常の身ぶりを通して読ませる方法だったことを示す手がかりになる*7。1951年の《Nurse Midwife》では、サウスカロライナ州パインヴィルの助産師モード・カレンを中心に、医療、貧困、黒人女性の労働、地域の信頼関係が一つの物語に折り重ねられる*8。ここでのスミスは、社会問題を統計のように示すのではなく、人物の手、疲れた顔、暗い室内、移動の負担を濃いトーンでまとめ、読者が制度の不足を一人の生活の重さとして感じるように導く。そのため彼の写真は、社会ドキュメンタリーでありながら、完全な客観性の記録ではなく、暗室とレイアウトによって倫理的な方向を持たされた構成物でもある。この強さは評価の理由であると同時に批判の入口でもあり、スミスの写真には、同情や怒りを喚起する力があるからこそ、被写体を写真家の物語へ組み込みすぎる危険が残る。

暗室、プリント、編集権

スミスの表現で見落とせないのは、撮ることだけでなく、どの濃度で焼くか、どの順番で置くか、どのテキストと接続するかに執拗だった点である。Carnegie Museum of Artは、スミスが掲載時のレイアウトと文章に対する写真家の編集権を強く信じ、その姿勢が編集者との対立を招いたと説明している*9。同じ解説は、スミス自身が「事実の記録者、解釈者としての良心的ジャーナリスト」と「しばしば文字通りの事実と詩的に対立する創造的芸術家」のあいだで引き裂かれていると書いたことも紹介している*9。この言葉を手がかりにすると、スミスの暗いプリントや劇的な光は、現実を飾るためだけの様式ではなく、現実の中にある痛み、疲労、怒りを読者に逃させないための編集上の圧力だったと考えられる。ピッツバーグで撮影された《Dance of the Flaming Coke》は、1955–56年の工業都市の火と労働を写した作品としてICPに記録されており、都市の産業を説明写真としてではなく、光、煙、身体の反復で構成するスミスの方向をよく示している*10。MoMAの作家ページはスミスのオンライン作品を46点掲載しており、《The Walk to Paradise Garden》のような戦後の作品から、医療、戦争、都市のシリーズまでを一つの作家像として見直すための入口になっている*11。同作品のMoMA作品ページは、1946年のゼラチン・シルバー・プリントとして所蔵情報を示しており、戦争からの回復後に撮られたこの写真が、後年の重い社会記録だけでは説明しきれないスミスの光への感覚を示している*12

ピッツバーグ:完成しない都市のフォト・エッセイ

1955年に始まったピッツバーグの仕事は、スミスの方法が雑誌の制約を超えて過剰化した例である。Carnegie Museum of Artは、スミスがステファン・ロラントの都市本のためにピッツバーグへ行き、この企画を「ピッツバーグという長い詩」と呼び、2年以上にわたって1万点以上のネガを制作したと説明している*9。同館の解説では、スミス自身がこの仕事を自分の経歴の中で最も壮大な実験と見なし、過去のフォト・エッセイよりも個人的で、より大きな射程を持つものだったとされている*9。ここでは、地方医師や助産師のような一人の主人公を中心に組み立てるのではなく、橋、製鉄所、夜の街路、労働者、住宅、図書館、子どもたちを組み合わせて、都市そのものを主人公にしようとした。Magnumはこのピッツバーグの仕事について、強い写真を含みながらも、スミスが求めた「写真による交響曲」としてはうまく機能しなかったと説明している*18。この失敗は、スミスへの批判を考えるうえで重要であり、彼の執念と編集への支配欲は、作品を深くする力である一方、媒体、読者、編集者が共有できる形へ収めることを難しくした。スミスのこの過剰さは、後の写真家に単純な手本として受け継がれたというより、フォト・エッセイがどこまで主観的で、どこまで編集者や媒体から自立できるのかという問題を残した。

ロフト期:雑誌記事の外へ広がる記録

『LIFE』を離れ、ピッツバーグの仕事が未完の大規模プロジェクトへ膨らんでいく時期に、スミスはニューヨークのロフトで別のかたちの記録を進めていた。東京都写真美術館は、1954年に『LIFE』を退いたスミスがマンハッタンの通称「ロフト」へ移り、セロニアス・モンク、マイルス・デイヴィス、サルバドール・ダリ、抽象表現主義の画家たち、ロバート・フランク、ダイアン・アーバスなどが集う場で、ジャム・セッションや交流を撮影したと説明している*25。Center for Creative Photographyは、スミスが1957年にニューヨークの花市場地区にあった6番街821番地の古びた5階建てロフトへ移り、1957年から1965年にかけてロフト内部の夜のジャズ・シーンと4階の窓から見える街路を約40,000カット撮影し、建物に録音装置を張り巡らせて1,740巻、約4,000時間のテープを残したと記録している*26。Duke大学のNasher Museumも、この時期のスミスがジャズ・ミュージシャン、映画作家、作家、芸術家たちの出入りする空間に身を置き、セロニアス・モンク、ズート・シムズ、ノーマン・メイラー、サルバドール・ダリらの時間を写真と録音で残したと整理している*27。ここで重要なのは、ロフト期を「報道写真をやめて芸術写真へ移った時期」と単純に見ることではない。むしろ、スミスは雑誌記事として完成されるフォト・エッセイから一度外れ、場所に流れる時間、音、人間関係、窓外の都市の夜を、整理されきらない密度のまま抱え込む方法を試していた。LIFE時代に培った社会的な物語構成は、ピッツバーグとロフト期を通じて、長期滞在、場所全体の把握、過剰な記録へ広がっていった。

水俣:証言としての写真、表象としての緊張

スミスの晩年を決定づけた《Minamata》は、LIFE時代のフォト・エッセイの構成力と、ピッツバーグ以後に強まった長期滞在、ロフト期にも現れた場所全体を抱え込む記録の志向が、社会的告発の現場であらためて用いられた仕事である。LIFE以後に拡張されたスミスの方法は、水俣で再び社会的なフォト・エッセイとして結晶した。Magnumは、水俣のチッソ工場がメチル水銀を含む排水を水俣湾と不知火海へ流し、海産物を通じて地域住民に水銀中毒をもたらしたと説明している*15。日本の環境省資料も、水俣湾周辺では遅くとも1968年まで水俣病を起こしうる水準のメチル水銀曝露が存在したと整理している*16。ICP所蔵の《Tomoko in bath》は、1972年、熊本県水俣、ゼラチン・シルバー・プリント、スミスからの寄贈という作品情報を示しており、この写真が美術館コレクション上でも水俣の記録として位置づけられていることが分かる*14。ただし、水俣の写真を単に「世界を動かした名作」とだけ書くと、被写体となった家族の負担や、患者の身体を象徴化することの難しさが見えなくなる。Center for Art Lawは《Tomoko and Mother in the Bath》の流通をめぐり、写真が報道資料から美術作品へ移動する過程で、被写体の苦痛、家族の記憶、著作権者の権限が衝突したと整理している*20。同記事は、写真がトモコの身体をフォトジャーナリズムのアイコンへ高めた一方で、被写体の身体に対する作者の権力を強めたとも論じている*20。だから本文では、スミスとアイリーン・美緒子・スミスが患者の側に寄り添ったこと、公害企業と行政の責任を可視化したこと、同時に写真が被害者の人生を代表イメージへ変えてしまうことを分けて考える必要がある。Nippon.comは、スミスが1972年にチッソ側との面会へ同行した際に暴行を受け、右目に深い損傷を負ったと伝えており、この事件もまた写真が単なる観察ではなく、公害闘争の現場に入り込んでいたことを示す*17

批評と受容

スミスの歴史的位置は、「フォト・エッセイを完成させた作家」とだけ言い切るより、写真報道が雑誌、暗室、編集、社会運動、美術館アーカイブのあいだを移動する時代に、その可能性と危険を極端な形で引き受けた作家として見る方が正確である。ICPは、スミスの技術、革新、誠実さが長く写真報道の基準になったと記し、彼の死後にW・ユージン・スミス記念基金が設立されたことを紹介している*1。富士フイルムスクエアと京都国立近代美術館の展示解説は、アイリーン・M・スミス・コレクションの284点がスミスのほぼ全キャリアを横断し、その多くが本人プリントであることを強調している*13。W・ユージン・スミス基金は現在も、社会変化、人道的関心、紛争、心理、文化、環境、科学、医療、政治など人間の条件に関わる長期的な写真プロジェクトを支援対象としており、スミスの形式は現代のドキュメンタリー実践へ更新されている*21。Magnumの水俣解説でも、アイリーン・M・スミスは写真が事実を叩きつけるだけでなく、人を知り、心が動かされることが変化を生むと語っており、スミスの方法は現在も「感情を通じた社会的理解」の問題として読まれている*15。一方で、現代の読解では、被写体の苦しみを美しく強いイメージへ変換することへの警戒も強い。Susan Sontagは、苦痛の写真が記憶を作る力を持つ一方で、写真だけが記憶を独占すると他の理解を覆い隠す危険があると論じ、スミスの水俣写真にもピエタ的な図像性を見ている*22。この受容の厚みは、スミスの写真が新聞雑誌の一時的な報道にとどまらず、後年の美術館、アーカイブ、写真教育、写真倫理の議論の中で読み直されてきたことを示している。彼の重要性は、写真を道徳的な証言へ高めたことだけでなく、その証言が写真家の主観、被写体との距離、媒体の権力に常に揺さぶられることを、作品そのものの中に残した点にある。

W・ユージン・スミス 写真集

MINAMATA
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外部リンク

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出典