ドロシア・ラングDorothea Lange

ドロシア・ラング(Dorothea Lange)は、FSA写真と社会ドキュメンタリーを考えるうえで欠かせない写真家です。このページでは、FSA写真と社会ドキュメンタリーを手がかりに、写真史の流れの中での位置づけを、関連作家・運動・出典とあわせてたどります。

基本情報
生没年 1895–1965

解説

ドロシア・ラングはサンフランシスコで商業ポートレートスタジオを経営していたが、1932年の大恐慌の絶頂期に、スタジオの窓から路上の失業者行列を見て外に飛び出したことがドキュメンタリー写真への転換点となった。1935年に連邦農業安定局(FSA)のロイ・ストライカーに雇用され、農村の貧困記録を担う写真家となった*1。FSAは農村の困窮を可視化してニューディール政策への支持を喚起する証拠写真を集めることを使命としており、ラングはカリフォルニア州各地の移住農業労働者キャンプを記録した。1936年3月、ニポモのエンドウ豆労働者キャンプで5〜6枚の連続撮影を行い、フローレンス・オーウェンズ・トンプソン(チェロキー族、当時32歳)とその子どもたちを捉えた一枚が「移住者の母」となった。ラングが記した詳細なキャプション——「食料なしに7人の子どもを抱え、野菜と子どもたちが捕まえた鳥で生き延びている」——とともに『サンフランシスコ・ニュース』紙(1936年3月10日付)に掲載され、連邦政府はキャンプに20,000ポンドの食糧を緊急輸送した*2。この写真はMoMAが1941年に「ドキュメンタリーの傑作」として評価し、大恐慌を象徴する一枚として世界的に知られる。ラングはトンプソンの名前も経歴も記録せず、撮影後すぐに写真を連邦政府への提出前に新聞社へ送った——トンプソンは後に「写真を売らないと言っていた」と証言しており、ラングが交わしたとされる約束の不履行が問題となった*3。撮影された写真は連邦政府委託のため著作権が発生せず、ラングにもトンプソンにも対価は一切支払われなかった。トンプソンは「あの写真から一銭も得られなかった」と語り、自分の名前が判明したのは撮影から42年後の1978年のことだった*3。政府の委嘱を受けた写真家と、貧困ゆえに撮影を断る選択肢を持ちにくかった被写体との非対称な関係、そして対価も名誉も伴わないまま肖像が国家プロパガンダとして流通した構造は、ドキュメンタリー写真における被写体の権利・同意・利益配分という問題を先駆的に提起したケースとして今日も論じられる*3。1942年には大統領令9066号による日系人強制収容を陸軍省から記録する任務を受けたが、当局はその写真を機密扱いとして封印し、存命中には公開されなかった*4。1965年にMoMAで大規模な回顧展が準備されたが、ラングは同年66歳でその開幕を見ることなく死去した。「移住者の母」は一枚の写真が政府の政策決定に直接影響を与えた稀有な例として写真史に記録されており、写真がプロパガンダ手段として機能しながら被写体の人間的尊厳を記録するという二重の役割の複雑さを体現した作品である。この複雑さはドキュメンタリー写真の倫理的基盤について今日も議論を呼び続けている*5。彼女が実践した「被写体が語り、写真家は聴く」という撮影倫理は、現代のドキュメンタリー写真実践の倫理的基盤の一つとして継承されている。

ドロシア・ラング 写真集

Dorothea Lange: Words & Pictures
FSAと社会記録の倫理を見渡しやすい。
写真集を Amazon で見る ↗ ※アフィリエイトリンクを含みます
Dorothea Lange: 500 FSA Photographs
同じ作家を別の編集や視点でたどれる関連写真集。
写真集を Amazon で見る ↗ ※アフィリエイトリンクを含みます
Amazon検索結果
関連写真集や別の版を探すための検索リンク。
写真集を Amazon で見る ↗ ※アフィリエイトリンクを含みます

外部リンク

出典