横山松三郎Yokoyama Matsusaburo

横山松三郎(Yokoyama Matsusaburo)は、日本写真と写真石版を考えるうえで欠かせない写真家です。このページでは、日本写真と写真石版を手がかりに、写真史の流れの中での位置づけを、関連作家・運動・出典とあわせてたどります。

基本情報
日本
生没年 1838–1884

解説

横山松三郎は天保9年(1838年)に択捉島(現在のロシア領千島列島)で生まれた。家族は廻船問屋を経営していたが、父の死後(1848年)に函館へ移住した。1854年にペリー艦隊に随行した米国人エリファレット・ブラウン・ジュニアとロシア人モジャイスキーが函館でダゲレオタイプを撮影するのを目撃したことが写真との最初の出会いだった。その後、函館のロシア領事館に関係したドイツ人画家ライマンのもとで洋画を学び、ロシア領事ゴシュケーヴィチに写真術を師事した*1。1864年頃に上海へ写真修業に向かったが師を得られず横浜に転じ、下岡蓮杖の門を繰り返し訪れてようやく弟子入りを許された。1868年に東京・上野の池之端に「通天楼」スタジオを開設——当時「日本で最も近代的で設備の整ったスタジオ」と評された。同年、明治政府の役人・蜷川式胤から依頼を受け、改修前の江戸城の撮影に着手。1871〜72年に64点の写真帖「旧江戸城写真帖」として刊行し、現在は東京国立博物館の重要文化財に指定されている*2。1872年には明治政府の壬申検査(日本初の文化財保護調査)に公式写真家として122日間同行し、東大寺大仏殿・正倉院・法隆寺五重塔などを撮影。386点の立体写真・109点の大判写真・70点のガラス原板が東京国立博物館の重要文化財となっている*3。1876年に通天楼を閉じ、陸軍士官学校でフランス人教官アベル・ゲリノーのもとで炭素印画・ゴム印画・シアノタイプを習得。1881年に東京・銀座に写真石版社を設立——日本における写真石版印刷の商業的起点となった。絵画と写真の融合を試みた「写真油絵(しゃしんあぶらえ)」も開発した。明治17年(1884年)10月に46歳で病没。その業績は2023年に文化庁が「横山松三郎関係資料」を重要文化財に指定したことで改めて公式に評価された*4

横山松三郎 写真集

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外部リンク

出典