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PHOTOGRAPHERS/KOREAKI KAMEI · 日本写真
KK
§ 057 — Photographer Index — 日本写真

亀井茲明

Koreaki Kamei 1858–1896
Country日本 Period1890–1910s Channel読む報道写真 · DOCUMENTARY
Abstract

亀井茲明は公家・伯爵の身分から写真に関心を持ち、日清戦争(1894–95)の記録写真チームを組織した明治の写真パトロン。300枚を超える従軍写真を『明治廿七八年戦役写真帖』にまとめ、明治天皇に献上した。日本における組織的な戦争写真の制度化を先導した人物として、写真史上に位置づけられる。

この写真家が変えたこと

亀井茲明は日清戦争の記録写真チームを組織し、300枚を超える従軍写真を『明治廿七八年戦役写真帖』として編纂・献上することで、日本における組織的な戦争写真の制度化を先導した。個人の記録活動を超えて国家的な視覚文書として写真を機能させた、明治写真史上の早い事例として位置づけられる。

Keywords 日本写真 ドキュメンタリー 日本
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 03 背景と時代

亀井茲明(かめい これあき)は1858年(一部の資料では1861年)に生まれた公家・伯爵である。明治維新後の西洋文化導入の時代に育ち、若年期にドイツへ留学して美術・技術を学んだ。帰国後は写真への関心を深め、自ら写真を手がけながら、西洋写真・美術品・書籍のコレクションを形成した。*1

写真史における特筆すべき活動は、1894年から95年の日清戦争に際して写真記録チームを組織し、自身もその一員として従軍したことである。戦役中に撮影された約300枚の写真は『明治廿七八年戦役写真帖(めいじにじゅうしちはちねんせんえきしゃしんちょう)』として編纂され、明治天皇に献上された。この写真帖と従軍日記は、近代史研究の重要な一次資料として学術的に評価されている。*2

亀井は1896年に没した。写真記録事業の完了から間もない、比較的若い年齢での死だった。東京大学総合図書館の亀井文庫(亀井コレクション)は、写真帖・西洋古写真コレクション・書籍・美術品・関連文書など、亀井が生涯をかけて収集した資料を保存・公開しており、柏書房が写真帖と日記の双方を出版して研究者が一次資料に当たるための窓口を提供している。*11

§ 02 / 03 表現の核心

組織的な戦争写真の先駆

亀井茲明が写真史において重要とされる理由は、個人の撮影者としての技術よりも、従軍写真班を組織した点にある。日清戦争の記録は、単独の写真家が偶然に戦場に居合わせたものではなく、事前に計画された組織的な記録事業として実施された。構造的には、アメリカの南北戦争においてマシュー・ブレイディやアレクサンダー・ガードナーが行った組織的な戦争写真記録に相当する位置づけにある。*2

東京都立博物館のデジタルアーカイブに収録された亀井の戦争写真は、戦場の光景、軍隊の移動、占領地の様子などを記録している。これらは戦闘の劇的な瞬間を追った報道写真的なものではなく、戦役全体を体系的に記録・証拠化するための調査写真としての性格が強い。記録の目的は、戦争の感情的な告発ではなく、国家的な戦役の視覚的な文書化にあった。*3

放送ライブラリーが記録したNHKの番組によれば、亀井の別邸から発見された約300枚の従軍写真と日記は「戦争の本質に迫る」資料として紹介された。これらの写真は、当時の一般的な戦争報道写真とは性格の異なる記録として再発見され、日清戦争の実態に迫る視覚的証拠として評価されている。*4

『明治廿七八年戦役写真帖』という形式と天皇への献上

亀井が編纂した写真帖は、日清戦争の視覚的な記録を天皇に献上するという政治的・礼式的な行為と結びついている。写真帖という形式は、単なる写真の束ではなく、編集・装丁・献納という行為を通じて、国家の戦争を正式に記念化・文書化するメディアとして機能した。この事例は、明治国家において写真が公的な文書体系の一部として制度化されていたことを示している。*1

柏書房が刊行した従軍写真帖案内および亀井の従軍日記は、写真と文字記録を組み合わせた一次資料として、日清戦争史と近代日本の写真史の双方において参照されている。日記と写真を照合することで、どの撮影がどの時点・場所のものかを確認できる点が学術的に有用とされている。*11

亀井文庫——写真帖を超えた文化資産

東京大学総合研究博物館が管理する亀井文庫(西洋古写真コレクション)は、亀井茲明が蒐集した西洋の古写真を含む文化資産として、美術史・写真史研究から参照されている。このコレクションはドイツ留学中から形成されたとみられ、西洋の写真技術と美術に対する亀井の継続的な関心を反映している。東京大学デジタルアーカイブ・ポータルを通じてコレクションの一部に学術的なアクセスが可能である。*8

東京大学リポジトリに収録された亀井文庫目録は、写真帖・書籍・美術品・文書を含むコレクション全体の構成を記録している。KAKEN(科学研究費)の研究プロジェクト「亀井コレクションに関する総合的研究」は、このアーカイブを学術研究の対象として体系的に整理することを目標としており、近代日本の写真史と美術史の交点として位置づけている。*9

ドイツ留学と西洋写真技術の受容

亀井がドイツで学んだことは、彼の写真への関心の形成において重要な背景である。明治期の日本において写真技術は、フランス・イギリス・アメリカなど複数の西洋諸国から移入されたが、ドイツの光学技術と写真科学も重要な源流だった。亀井がドイツで美術と技術を学び、帰国後に写真に関わったことは、明治の知識人・貴族層が西洋の新技術を文化へ取り込んでいく過程の一例として読める。*7

戦争写真の記録と批判的読解

亀井の戦争写真は、日清戦争に勝利した側の観点から撮影された公式的な性格の記録である。占領地と戦場を記録したこれらの写真が誰の視点によって、どのような目的のために撮られたかという問いは、現代の写真史研究において不可避である。勝者の立場から行われた公式記録という性格は、アメリカ南北戦争の写真が後に批判的に検討されてきたのと類似した問いをはらんでいる。*2

立命館大学の資料が論じるように、日清戦争の映像・写真記録は、日本が近代国家として最初の本格的な対外戦争を視覚化した事例として、戦争と視覚メディアの関係史において重要な位置を占める。この文脈において亀井の事業は、国家が写真を戦争の記録・記念・正当化のために組織的に用いた日本最初期の事例として読むことができる。*7

§ 03 / 03 批評と写真史上の位置

亀井茲明は、日本の写真史において組織的な戦争写真を先導した人物として位置づけられている。評価の核心は個人の撮影技術の達成ではなく、写真班の組織化、写真帖の編纂、天皇への献上という制度的な実践の先例としての意義にある。*1

東京大学総合図書館の亀井文庫は、写真帖・西洋写真コレクション・関連文書を含む重要なアーカイブとして研究者に参照されており、KAKENの研究プロジェクトがこのコレクションを対象とした包括的な学術研究を支援してきた。リポジトリに収録された亀井文庫目録は、コレクションの詳細な内容へのアクセスを提供している。*2

放送ライブラリーが収録したNHK番組は、従軍写真と日記を近年再発見された資料として紹介し、一般視聴者への普及に寄与した。このような公共メディアでの紹介は、写真史研究の外側でも亀井への関心を広げることにつながっている。*4

立命館大学の資料が示すように、日清戦争の映像・写真記録の歴史的位置づけは、戦争と視覚メディアの関係をめぐる近代日本史研究において継続的に論じられている主題である。幕末明治の写真師総覧のウェブサイトも日清戦争関連の写真師について記録しており、当時の写真活動の全体像を把握するための参照資料として機能している。*12

アート・プラットフォーム・ジャパンは亀井茲明を日本の芸術・写真・文化史にまたがる人物として収録している。東京都立博物館のデジタルアーカイブは、亀井の戦争写真を直接参照できる重要な公開窓口として機能しており、写真帖の制作と天皇への献上という行為を示す実証的な資料として位置づけられている。こうした参照の蓄積は、亀井茲明の評価が特定の研究分野にとどまらず、近代日本の視覚文化史全体に定着していることを示している。*5

§ REL 関連する写真家・運動
関連する写真家
  • 鹿島清兵衛 ― 同時代の明治写真界を代表するパトロンで、国産乾板製造や日本写真会の組織化を進めた。亀井とは異なる形で写真の制度化を推進した同時代人。
  • 横山松三郎 ― 明治初期に工部美術学校教員を務め、文明開化期の写真技術普及に関わった。亀井が活動した時代より前に、組織的な写真実践の土台を作った写真家。
  • 冨重利平 ― 明治期の熊本を拠点に活躍し、文明開化の時代を記録した。亀井の活動と同時代に日本各地で写真が記録媒体として機能していったことを示す存在。
関連する運動
  • ドキュメンタリー ― 亀井の従軍写真は、出来事の現場を記録することを目的とした組織的な写真実践として、日本におけるドキュメンタリー写真の制度化の先行事例に位置づけられる。
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§ SRC 出典