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PHOTOGRAPHERS/KOHEI YASU · 日本写真
KY
§ 063 — Photographer Index — 日本写真

屋須弘平

Kohei Yasu 1846–1917
Country日本 Period1890–1910s Channel写真史の論点 · 日本写真
Abstract

屋須弘平は幕末に生まれ、グアテマラで「フォトグラフィア・ハポネサ(日本写真)」スタジオを開いた日本人写真家。フアン・ホセ・デ・ヘスス・ヤスの名でカトリックに改宗し、アンティグアの宗教行列や上流市民の肖像を記録した。日本人のラテンアメリカ移住史と写真史が交差する稀有な存在として、近年再評価が進んでいる。

この写真家が変えたこと

屋須弘平は幕末生まれの日本人として中米グアテマラに渡り、「フォトグラフィア・ハポネサ」スタジオを開いて40年近く現地社会に根ざした写真活動を続けることで、日本人写真家の活動圏がアジア太平洋に限らない国際的な広がりを持ちえたことを、現存する写真記録で示した最初期の事例となっている。

Keywords 日本写真 日本
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 03 背景と時代

屋須弘平(やす こうへい)は1846年、現在の岩手県藤沢(当時の陸前国磐井郡)に生まれた。幕末の混乱期に育ち、明治維新後に海外への道を探った。渡航の経路の詳細はすべてが明らかではないが、メキシコを経由してグアテマラへたどり着いたとされる。写真を職業として選んだ動機も記録には残っていないが、当時中南米の主要都市では写真スタジオが有力な独立の生計手段として機能しており、言語的・文化的な障壁が大きい移民にとっても比較的参入しやすい職種だった可能性がある。*1

グアテマラ市に到着した後、1878年頃に「フォトグラフィア・ハポネサ(Fotografía Japonesa)」という名のスタジオを開設した。この名称は「日本の写真」を意味し、日本人写真家としての出自を看板に掲げたものだった。カトリックに改宗し、フアン・ホセ・デ・ヘスス・ヤス(Juan José de Jesús Yas)という洗礼名を持つようになった。*2

スタジオはアンティグア・グアテマラを拠点とし、屋須は現地の社会に深く根を下ろした。当時のグアテマラの写真業界は、ヨーロッパやアメリカ出身の写真家が多く活動しており、アジア出身の写真家が商業スタジオを経営することはきわめて例外的だった。屋須は言語、宗教、社会的な慣習を含む現地文化への統合を経ながら、40年近くにわたって写真家として活動した。*2

屋須はグアテマラに根を下ろし、アンティグア・グアテマラの宗教行列、上流階層の家族や個人の肖像、都市景観などを撮影した。彼のガラスネガのコレクションはノリエガ家が所蔵し、1982年にCIRMA(中米地域研究センター)が取得して保存している。屋須は1917年にグアテマラで没した。彼は日本人のラテンアメリカにおける移住史上、最も早い時期に記録が残る写真家の一人であり、場合によっては中米に定着した最初の日本人写真家とも考えられている。*1

§ 02 / 03 表現の核心

セマナ・サンタの記録——植民地期カトリック文化の視覚化

屋須弘平の写真の主要な主題の一つはアンティグア・グアテマラのカトリック宗教行列、特にセマナ・サンタ(聖週間)の行列である。植民地時代に形成されたグアテマラのカトリック文化の伝統的な側面を記録したこれらの写真は、屋須自身がカトリックに改宗し「フアン・ホセ・デ・ヘスス・ヤス」という洗礼名を持つようになったこととも深く関わっている。屋須の視線は外部からの観察者ではなく、信徒としての内側の視点をも持っていた。*2

アンティグア・グアテマラは、かつてのスペイン植民地の中心都市として豊かなカトリック視覚文化を維持しており、セマナ・サンタの行列は現在も世界最大規模のものの一つとして知られる。屋須の写真はこの文化の19世紀末から20世紀初頭の姿を記録した貴重な視覚的証拠として、グアテマラの文化遺産研究において位置づけられている。*4

スタジオ肖像写真と「フォトグラフィア・ハポネサ」の意味

屋須のもう一つの主要な主題は、グアテマラ市の上流市民や家族の肖像写真である。当時のラテンアメリカの商業スタジオ写真の様式を踏まえつつ、被写体の個性を引き出そうとする姿勢が見られる。東京都立博物館が所蔵する屋須の作品には、スタジオポートレートの正式な構成を保ちながら独自の要素が見られる。*6

スタジオ名「フォトグラフィア・ハポネサ(Fotografía Japonesa)」は商業戦略として読み解くことができる。19世紀後半のグアテマラにとって日本は遠い東洋の国であり、その名を冠したスタジオは珍しさと技術への信頼感を同時に訴えかけるものだったと考えられる。日本の技術的先進性のイメージを商業資源として活用した例として、写真史と移民史の双方から注目される。*1

ガラスネガの保存——CIRMAと英国図書館EAPプロジェクト

屋須が使用したガラスネガは、CIRMAによる保存で現在も確認できる。CIRMAは1982年にノリエガ家からこのコレクションを取得し、以来グアテマラの写真遺産の保存機関として機能している。英国図書館のEAP165プロジェクト(Endangered Archives Programme)は、ラテンアメリカの農村部を含む写真コレクションのデジタル化・保存に取り組んでおり、屋須のコレクションを含む資料が保存対象として参照されている。*8

議会図書館(LoC)もグアテマラ関連写真の一部として屋須の作品を収録しており、北米の研究機関からもアクセスできる形で資料が整備されつつある。在グアテマラ日本大使館のCIRMA紹介ページは、日本語でこのコレクションの重要性を説明している。*5

日本人移民史と写真史の交差点——中南米における稀有な事例

屋須弘平は、日本人の中南米移住の歴史において最も早い時期に記録が残る一人である。19世紀後半の日本人海外移住はハワイ、北米、ブラジルを中心とするものが多く、グアテマラへの移住はきわめて稀だった。屋須はそこで写真スタジオを開き、カトリックへの改宗を含む現地社会への統合を経ながら40年近くにわたって活動した。*1

ハイデルベルク大学のチェン・ホンルイによる博士論文はグアテマラの日本写真の歴史を分析しており、屋須弘平の事例を日本人移民と写真史の接続点として詳細に扱っている。ミュゼアム・ドット・オルジャパン(museum.or.jp)は2025年に関連展示を記録し、屋須の事例が日本の博物館界でも認知されるようになっていることを示している。*11

§ 03 / 03 批評と写真史上の位置

屋須弘平は20世紀を通じて写真史の主要な語りからほぼ完全に外れていた。日本の写真史ではその存在が知られず、グアテマラ写真史においても長らく注目されなかった。CIRMAがノリエガ家からコレクションを取得した1982年以降、資料の存在が確認されるようになったが、本格的な研究と展示が始まったのはさらに後のことである。*1

在グアテマラ日本大使館はCIRMAとの共同で屋須の写真に関する展示・広報活動を行っており、日本とグアテマラの両国において彼の存在の認知が高まっている。2025年の展示もその継続として開催された。屋須の事例は、日本とラテンアメリカの文化的・写真的な接続を示す稀有な例として、両国の文化交流史の文脈でも注目されている。*9

アートスケープの報告は屋須弘平の写真を日本・グアテマラの交差点に位置する貴重な記録として紹介し、より広い公衆への認知につながっている。東京都立博物館コレクションも屋須の作品を所蔵し、日本の写真史研究においても参照できる形で公開されている。写真史と移民史の双方にまたがる存在として、今後の研究の深化が期待される。*7

屋須の事例は、写真史の「世界性」を問い直す素材として重要である。19世紀末の写真史は欧米中心の語りで構成されることが多いが、屋須のように非西洋出身の写真家が移住先の社会で独自の実践を築いた事例は、写真の地理的・文化的な広がりを再考させる。ガラスネガという物質的な媒体の保存と制度化の経緯は、写真資料がどのように「歴史」となるかを示す事例としても参照できる。議会図書館のグアテマラ関連コレクションや在グアテマラ日本大使館の広報活動は、こうした再評価の実践的な基盤を提供している。*5

§ REL 関連する写真家・運動
関連する写真家
  • 鹿島清兵衛 ― 屋須が中米で活動していた同時代に、東京銀座で玄鹿館を運営し明治写真界の制度化を推進した。二人は異なる舞台で、明治期日本人写真家の活動の幅を示している。
  • 亀井茲明 ― 屋須のグアテマラ移住と時期が重なる1890年代に、日清戦争の従軍写真を組織的に記録した。国内外で日本人写真家が多様な実践を展開した明治中期を共有する。
  • 冨重利平 ― 明治期の九州を拠点に活躍した写真家で、屋須が日本にいた時代と重なる。日本各地に根ざした写真家が同時代に活動していたことを示す比較対象。
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