1890–1910sは、ピクトリアリズム全盛・写真分離派・世紀転換期を背景に、写真の制度や表現が大きく動いた時代です。このページでは、ドキュメンタリー、日本写真、ピクトリアリズムなどの表現を手がかりに、この時代の写真家と写真史の流れをたどります。
屋須弘平(1846–1917)は日本生まれの写真家で、渡航後はグアテマラに定住し「Juan José de Jesús Yas」の名で活動した。
詳細を読むケーゼビアが「人物写真とは伝記であれ——被写体の本質的な気質・魂・人間性を一枚の写真に引き出す」を信念としたのは、当時のニューヨーク商業写真スタジオが「技術的正確さ」の競争に終始していたからである。
詳細を読むエマーソンがスタジオ演出を「不正直」と批判し、単一ネガ・単一露光による写真を芸術の条件とした根拠は、ドイツの生理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの視覚生理学にあった。
詳細を読むアジェがカメラを手にしたのは1897年頃、40歳のときだった。
詳細を読む亀井茲明(1858–1896)は日本の公家・伯爵で、日清戦争(1894–95)の記録写真事業を組織した人物として写真史に名を残す。
詳細を読むドマシーの芸術写真論の核心は「自然はしばしば美しいが、そのままでは決して芸術的ではない。芸術作品には芸術家の介入が不可欠であり、ストレート写真はテーマを記録するだけだ」という立場にあった。
詳細を読む291ギャラリーと写真誌『カメラ・ワーク』を主宰し、写真を絵画と並ぶ芸術として美術館に送り込んだアメリカ近代写真の中核。「エクイヴァレンツ」では被写体ではなく形式そのものが内面を語ると主張し、抽象写真の理論的基盤を築いた。
詳細を読む鹿島清兵衛(1866–1924)は、横浜・銀座を拠点とした明治の貿易商・写真愛好家で、「写真大尽(しゃしんだいじん)」の異名で知られる。
詳細を読む鳥居龍蔵(1870–1953)は日本の人類学者・考古学者で、北海道・台湾・沖縄・朝鮮・満洲・モンゴル・中国西南部・後に南米にわたる広範なフィールドワークに写真を体系的に活用した。
詳細を読むポール・ジェニオー(Paul Géniaux、1873–1930)はレンヌ生まれのフランス人写真家で、小説家・詩人・画家でもあった兄シャルル(1870–1931)とともに「ジェニオー兄弟(Géniaux frères)」として活動した。
詳細を読むルイス・ハインの写真実践は、視覚メディアを社会変革の証拠として体系的に用いた最初の試みのひとつである。
詳細を読むスタイケンがピクトリアリズムに向かった出発点は、写真が絵画と同等の芸術的地位を得るためには「絵画のように見える」ことが最も有効な戦略だという判断だった。
詳細を読むジャック=アンリ・ラルティーグが写真を始めたのは1901年、7歳のときだった。裕福な実業家の父から与えられたカメラで、ブーローニュの屋敷での家族の遊び・初期飛行機の実験・自動車レース・スキーを撮り続けた。
詳細を読むエドワード・ウェストンは、初期のピクトリアリズムと商業スタジオの経験から出発し、のちにストレート写真とGroup f/64へ向かう近代写真の重要作家。物・身体・風景を精密な写真的形態として捉え直した。
詳細を読むルイ・ヴェールは現時点で人物同定に注意が必要な登録。調査メモではLouis Vertとの誤記・表記揺れの可能性が指摘されており、もし同一人物ならアジェやジェニオーに近いパリの街頭生活・小商いの記録として位置づく。
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