マン・レイMan Ray

マン・レイ(Man Ray)は、ダダとシュルレアリスムを考えるうえで欠かせない写真家です。このページでは、レイヨグラフ、ダダ、シュルレアリスム、代表作の『レイヨグラフ』を手がかりに、写真史の流れの中での位置づけを、関連作家・運動・出典とあわせてたどります。

基本情報
生没年 1890–1976

解説

フィラデルフィア生まれのエマニュエル・ラドニツキー(マン・レイ)が写真実践に転じた最大の契機は、1913年のアーモリーショーでマルセル・デュシャンの作品と出会い、その後親交を深めたことにある。デュシャンの「レディメイド」概念——既製品を提示するだけで芸術になるという考え——は、「写真は芸術を記録するためではなく、それ自体が思考のツールになりうる」という発想をマン・レイに与えた*1。第一次世界大戦の大量殺戮に幻滅したダダイストたちは、理性・進歩・国家・既成芸術の権威をすべて解体しようとした。マン・レイはその写真的実践を担う一人として1921年にパリへ移住し、アンドレ・ブルトン率いるシュルレアリスムに合流した*2。同年、暗室で作業中に印画紙の上にうっかり物を置いたまま光を当てたことで、カメラを使わずに物の影を直接感光紙に焼き付ける技法を「発見」した。これを「レイオグラフ」と命名し、詩人トリスタン・ツァラは「物体が夢を見る瞬間」と評した*3。レイオグラフはネガが存在しない一点ものであり、物と光の直接的な接触の痕跡という性格がシュルレアリスムの「偶然性」と「無意識の表出」への関心と完全に呼応した。1929年にはアシスタントのリー・ミラーの暗室操作の失敗から「ソラリゼーション」(明暗部分反転)技法を開発し、以後これを多くの写真やポートレートに応用した*4。ファッション誌ヴォーグ・ヴァニティ・フェアへの写真提供は生活費を賄いつつも、前衛芸術家が商業メディアにどこまで応じるかという緊張を体現した存在でもあった。第二次世界大戦中はロサンゼルスへ避難し、戦後パリに戻って制作を継続した*5。マン・レイの実践は「写真とは何かを記録するためではなく、何かを出現させる装置だ」という観点の礎となり、カメラレス写真・ソラリゼーション・多重露光など暗室技法の実験的可能性を20世紀全体を通じて探究した後継者たちに影響を与え続けた。その根底にあったのは「制作行為における偶然の積極的受容」というダダ以来の問いだった*6

マン・レイ 写真集

Man Ray: When Objects Dream
ダダ/シュルレアリスムの実験精神を代表。
写真集を Amazon で見る ↗ ※アフィリエイトリンクを含みます
Man Ray Photograph (4992 989)
同じ作家を別の編集や視点でたどれる関連写真集。
写真集を Amazon で見る ↗ ※アフィリエイトリンクを含みます
Amazon検索結果
関連写真集や別の版を探すための検索リンク。
写真集を Amazon で見る ↗ ※アフィリエイトリンクを含みます

外部リンク

出典