トレイシー・モファットは、《Something More》《Scarred for Life》《Up in the Sky》で、B級映画、メロドラマ、雑誌の写真物語、植民地期の図像を演出写真へ取り込んだ。連作には始まりと結末が欠け、字幕や場面は一つの事実へ収束しない。人種、ジェンダー、暴力の歴史が、現実だけでなく既存イメージによって記憶される仕組みを写真と映画の両方から示した。
報道写真は差別や暴力の事実を伝え、自伝的写真は当事者の経験を直接示す。しかし観客は、その像を映画、雑誌、植民地期の図像から学んだ筋書きに沿って理解する。モファットは俳優、衣装、映画照明、雑誌風キャプションを使い、連作の場面間に欠落を残した。観客が逃亡、救済、犯罪、悲劇の既知の筋書きを自分で補う瞬間を作品化し、演出写真を自己像の変身から、植民地記憶を作る大衆文化の批評へ向けた。
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目次 · Table of Contents
1980年代オーストラリア――人種とジェンダーを誰がどう表象するか
モファットはブリスベンで育ち、クイーンズランド・カレッジ・オブ・アートで映像を学んだ。写真、短編映画、長編映画、ビデオ・モンタージュを並行して制作し、1989年の《Night Cries: A Rural Tragedy》はカンヌ国際映画祭の公式部門で上映された。*151980年代後半から90年代は、フェミニズム、ポストコロニアル批評、先住民表象をめぐり、誰が誰を撮り、その像をどの制度が流通させるかが強く問われた時期だった。NGAは、同時代のオーストラリアで写真とパフォーマンスがジェンダーを検討する重要な手段になったと整理している。*141986年のNADOC展は、アボリジナルとトレス海峡諸島民の写真家だけによる最初期の現代写真展で、モファットはその企画を主導した。*191988年の建国200周年、都市先住民の定義、拘禁中の死をめぐる抗議が重なる時期に、写真は先住民を民族誌的に分類する装置から、先住民作家が自ら像を演出し流通させる媒体へ変わりつつあった。
なぜ演出写真なのか――現実そのものが既存イメージで理解される
報道写真は差別、暴力、政策の事実を伝え、自伝的写真は当事者の経験を直接示す。だが観客は、その事実を映画、雑誌、家庭写真、植民地期の図像から学んだ役柄と筋書きに沿って理解する。写された出来事だけを示しても、その理解を先回りするイメージの型は画面の外に残る。BOMBのココ・フスコとの対話は、モファットが自伝的事実をそのまま告白せず、映画的な場面と複数の参照から意味を作る姿勢を伝える。*12NGAの写真史論は、彼女の演出された像を「信じられる虚構」と呼び、華やかさや服装が人種表象の政治へ介入したと説明する。*19俳優、衣装、映画照明、雑誌風キャプションを用いる目的は、観客が現実を理解するときに使う既成の型を、もう一度目に見える場面として作ることにあった。
《Something More》――九枚の写真で映画の欠落を作る
1989年の《Something More》は六点のカラーと三点の白黒写真からなる。*3一枚の象徴的な写真で主人公を示すと、先住民女性、地方出身者、被害者、反逆者といった既存の役柄へ読みが固定されやすい。モファットは願望、性的搾取、暴力、死を示唆する九つの場面を離して並べ、始まりと結末を空けた。MCA Australiaは、九枚が曖昧な物語を形成し、希望が挫かれる過程を伝えると説明する。*3B級映画、ロードムービー、パルプ小説を思わせる色とポーズにより、観客は逃亡、階級上昇、犯罪、悲劇の筋書きを自分で補う。Art Gallery of NSWは、各写真が書かれていない物語を暗示し、語りの慣習を解体すると説明する。*4連作によって、観客がどの物語を持ち込み、主人公へどの役柄を与えるかまで作品の一部になった。
《Scarred for Life》――雑誌の写真物語が記憶を作る
《Scarred for Life》は、友人たちから聞いた幼少期の出来事を演じ直し、Life誌の写真エッセイに似た画像と短いキャプションを組み合わせた。*7Monash Universityは、1956年から1977年の場面を当時の写真技法と雑誌レイアウトのように再構成し、単一文化的なメディア空間へ身近な顔を挿入したと解説する。*7文章は写真を説明し切らず、別の疑問を増やす。Art Gallery of NSWも、キャプションが意味を閉じず、継続する傷を言葉と像の隔たりとして示すと述べる。*8
《Up in the Sky》――「盗まれた世代」を直接再現しない
1997年の《Up in the Sky》は、荒涼とした町で撮影された二十五点の連作で、混血の乳児、修道女、家族、暴力の気配が断片的に現れる。*13Art Gallery of NSWは、パゾリーニの《アッカトーネ》から視覚的手掛かりを得たことを記している。*5連作は、先住民の子どもが家族から引き離された歴史に、追跡、保護、誘拐、救済という相反する筋書きを並行させる。QAGOMAの所蔵記録は《Up in the Sky》を二十五点のフォトリトグラフからなるポートフォリオとして示す。*6二十五点の印刷物として流通する形式は、新聞や映画の断片を読むように順序を作り替えられる余地を残す。
映画のスチル、彩色、連作――媒体ごとに記憶の働きを分ける
モファットの写真は大判の単独作品として強いが、連作ではカラーと白黒、近景と遠景、演技と空の風景が交互に現れ、観客が欠けた場面を補う。写真連作は、出来事の前後を想像させることで、映画や雑誌から身につけた筋書きを観客自身に使わせる。AGSAは、《Something More》から《Scarred for Life》《Up in the Sky》《Laudanum》《Invocations》まで、複数シリーズをまとまって所蔵し、連作が彼女の中心的形式であることを示している。*9一方、映像モンタージュでは、多数の映画から抱擁、侮辱、破壊などを抽出し、個別の物語を感情の反復へ変える。静止画の連作と映像編集は、記憶が場面の欠落から作られる場合と、反復する型から作られる場合を分けて扱う。
《Laudanum》《Invocations》――植民地的欲望をゴシックへ変換する
《Laudanum》では19世紀を思わせる室内、主人と召使い、薬物、性的支配の関係が、セピア調の写真で演じられる。《Invocations》は手彩色写真や古い映画特殊効果を思わせる画面を用い、Matthew Marks Galleryは、寓話、夢、恐怖が混じる新作として紹介した。*18植民地支配が、身体へまとわりつく恐れと欲望の形式として現れる。
《Montages》――既存映画の断片から感情の型を抽出する
モファットはゲイリー・ヒルバーグとともに《Love》《Lip》《Doomed》などのビデオ・モンタージュを制作し、膨大な映画から恋愛、黒人女性の台詞、破壊場面を抽出した。Whitney Museumは、このモンタージュ群を写真作品と同じく、反復される文化的類型を批評する中心的実践として紹介した。*10個々の映画の物語を取り除くと、抱擁、侮辱、爆発が、文化産業によって学習される感情の文法として見える。
出自、階級、映画的幻想を同時に扱う
モファットはアボリジナルの出自を持つ作家として国際的に紹介される一方、作品を民族的プロフィールだけで説明する読みには慎重だった。National Portrait Galleryは、Boomalli Aboriginal Artists Co-operativeの共同創設、NADOC ’86の共同企画、2017年にヴェネツィア・ビエンナーレで個展を行った最初のアボリジナル作家であることを記録する。*16作品では人種、階級、欲望、映画的幻想を同じ場面へ重ね、登場人物を作者の自伝的代理へ固定しない。Roslyn Oxley9の作家資料も、写真、映画、映像を通じて人種、ジェンダー、セクシュアリティ、アイデンティティを扱う経歴を示す。*17出自を明示しながら、作品の解釈を単独のプロフィールへ集約させない点に批評性がある。
写真と映画を横断したポストモダン写真の独自性
シンディ・シャーマンやジェフ・ウォールの演出写真と同時代に、モファットも写真が現実を直接写すという前提を揺さぶった。ただし、彼女の連作ではオーストラリアの植民地史、先住民表象、メロドラマ、雑誌文化が密接に結びつく。Barbara Londonとの対話は、《Up in the Sky》を25点の写真による映画的な構成として振り返り、国際的なステージド写真の潮流と差異を示す。*13MCA Australiaのコレクションが写真と映画を同じ作家実践として収蔵していることも、静止画を映画の補助資料、映画を写真の延長へ還元できない受容を示す。*2
魅惑と恐怖を同時に作る――批評の届き方
鮮烈な色、スターのようなポーズ、映画的照明は、批評対象である大衆文化の魅力を作品内部に残す。Guardianのインタビューでモファットは、少し恐ろしくなると興味を持つと語った。*11魅惑を排除して正しいメッセージだけを残せば、ステレオタイプがなぜ反復されるのかを説明できない。彼女の写真は、見る者が惹かれる感覚と、その欲望に含まれる暴力を同じ画面で経験させる。
演出写真を、植民地記憶と大衆文化の交差面にする
シンディ・シャーマンらの演出写真は、写真に写る人格が作られた役割であることを示していた。モファットはその方法を、オーストラリアの先住民表象、階級、養育、植民地記憶を理解させてきた映画と雑誌の型へ向けた。MoMAとMCA Australiaの収蔵は、写真、映画、モンタージュを一つの実践として受容している。*1写真連作では欠けた場面を観客に補わせ、映像モンタージュでは多くの映画に反復される抱擁、侮辱、破壊を抽出する。二つの形式によって、植民地記憶が大衆文化の反復と観客の連想から作られる過程を示した。AGSAは《Body Remembers》をヴェネツィアで発表された十点の連作として紹介し、後年まで連作形式が歴史と身体の記憶を扱う中心にあることを示す。*20
真正性を求める制度に対する虚構の役割
先住民作家や女性作家には、共同体の経験を直接かつ真正に語る役割が期待されやすい。モファットは衣装、俳優、映画照明、既存ジャンルを使い、複数の時代と記憶が重なる場面を作る。National Film and Sound Archiveは、彼女のアボリジナルとアイルランド系オーストラリアの背景を認めつつ、映画、写真、ビデオを通じて人種、ジェンダー、歴史の表象を挑発する作家として紹介する。*15虚構は、現実の経験が映画や雑誌の型によって理解される過程を、鑑賞者自身の連想として作動させる。結末の省略は、観客が作品へ持ち込む既知の筋書きを可視化し、真正性を一つの語り方へ限定する制度の期待を揺さぶる。
- シンディ・シャーマン ― 映画的類型と女性像を演出写真で検討した同時代の比較対象
- ジェフ・ウォール ― 一枚の写真を映画制作に近い規模で構成したステージド写真の比較対象
- ステージド写真 ― 現実を演じ直し、表象の型を露出する方法
- コンセプチュアルアート ― 連作、引用、モンタージュによって写真の意味生成を扱う背景