写真の座標 Photo Coordinates
PHOTOGRAPHERS/ELINA BROTHERUS ·インティメイト・ライフ ·UPDATED 2026.08
EB
§ 139 — Photographer Index — インティメイト・ライフ

エリナ・ブロテルス

Elina Brotherus
Country1980s / 1980年代 Period1980–1990s Channelイメージを疑う · CONCEPTUAL
Abstract

エリナ・ブロテルスは、化学から写真へ進み、アナログ撮影の時間差を使って、自身の経験を少し離れた位置から見返した。1990年代の自伝的な自画像から〈The New Painting〉、不妊治療を扱う〈Annunciation〉、フルクサスの指示文を実行する〈Règle du jeu〉まで、自身の身体を作者、モデル、技術者、演者が交差する場所として用いる。絵画史の構図、反復、外部のルールを挟み、自画像が一人の内面だけを説明する状態を避けている。

この写真家が変えたこと

ブロテルスは、自分を写すことと、自分を説明することを切り離した。自画像は作者と被写体が同じ人物なので、経験の証拠や「本当の私」として読まれやすい。彼女は自分と像の間へ、毎回別の条件を入れた。初期作ではアナログ撮影の時間差と外国語の字幕、〈The New Painting〉では絵画史の構図と撮影日の天候、〈Annunciation〉では複数年の反復、〈Règle du jeu〉では他者が書いたフルクサスの指示を使う。身体は同じ人物のまま、場所、年齢、治療、構図、規則によって異なる役割を持つ。撮影の権限を自分で保ちながら、意味を自分の意図だけで決めない仕組みを作り、自画像を作者、モデル、技術者、演者の関係を比べる形式へ変えた。

Keywords 自画像 The New Painting Suites Françaises Annunciation Règle du jeu Fluxus イベント・スコア 作者とモデル
§ WORKS 作品を見る

本サイトでは作品画像を掲載していません。下記の公式アーカイブで作品をご覧ください。

目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

化学から写真へ—経験を自分の外から見返す

ブロテルスはヘルシンキ大学で化学を学び、1997年に修士号を取得した後、ヘルシンキ美術デザイン大学で写真を学び、2000年に修士課程を修了した*1。離婚や移住を扱った初期作では、出来事の最中にいる自分を、その場の感情だけで理解することが難しかった。彼女は写真が自分を中立的に見返す方法になり、アナログ撮影では結果をすぐ確認できない時間差が、感情を保ったまま撮影へ集中する助けになったと語る*18。公式CVとフィンランド写真美術館は、1990年代末から自画像、風景、映像を国際展へ発表してきた経歴を記録している*3*4

1990年代ヘルシンキ—写真を思考と展示の道具にする

ブロテルスが学んだ1990年代、ヘルシンキ美術デザイン大学では、写真を技術だけでなく「考えるための道具」として扱い、学生同士の批評、共同制作、海外展示を結びつける教育が進んでいた*27。後にヘルシンキ・スクールと呼ばれる環境は、フィンランドの写真を現代美術の制度へ接続するネットワークを作った。ブロテルスは自画像を日記の代わりに使う段階から、構図、字幕、系列、展示順序によって意味を検討する作品へ発展させた。

〈Suites Françaises〉—外国語と自画像を同時に学ぶ

フランス滞在期の〈Suites Françaises〉では、未知の言語を覚える単語や短文を、室内、身体、家具、窓の写真と組み合わせた。公式作品ページは、写真と映像を横断する各シリーズを初期から現在まで公開している*2。言葉は画面の説明に留まらず、外国で対象へ名前を与え、自分の位置を確かめる行為になる。言語を学ぶ主体、言葉を記す作者、カメラの前に立つモデルが一人の身体へ集まり、自己と環境の対応関係が写真として残る。

作者とモデル—撮影の権限を見える形にする

自身をモデルにすると、カメラの前に立つ身体と、構図、露出、タイミングを決める作者が同一人物になる。Louisiana Channelでブロテルスは、モデルであると同時に作者として状況を決定していることを明らかにしたいと語る*13。マリアン・グッドマン・ギャラリーも、自画像、風景、美術史、パフォーマンスを一つの制作として紹介している*7。一方、自画像は告白や「本当の私」として読まれやすい。そこで彼女は、セルフタイマー、鏡、言葉、既存の構図、連作、イベント・スコアを自分と像の間へ加えた。

§ 02 / 04 表現の核心

〈The New Painting〉—絵画の構図と、撮影日の身体を重ねる

〈The New Painting〉では、湖、海、森、室内にいる身体を、風景画、人物画、ロマン主義の背面像など美術史の構図へ接続した。東京都写真美術館は《La folle》を、17世紀の理想風景画を引用しつつ私的な物語を重ねる作品として紹介している*24。Museum Kunst der Westküsteでの滞在制作は、北海の水平線、風、海辺の風景を身体と美術史へ結びつけた*5。絵画の構図には長い反復による安定があるが、写真にはモデルの年齢、疲労、寒さ、風、水面、撮影日の光が入る。Collectors Agendaも、19・20世紀絵画の図像を参照しながら写真の自己演出を検討する実践として説明する*17。完成された構図へ変化する身体を入れ、理想化された時間と一回限りの撮影時間を同じ画面に残した。

Rückenfigur—背中を見せる人物と、見る権利

ブロテルスは、背を向けて風景を見る人物像を複数のシリーズで用いてきた。Aestheticaのインタビューでは、このRückenfigurに惹かれ、高い場所から自由に世界を見る位置を女性の身体へ与えることが語られる*19。顔を見せない構図では、人物の視線と鑑賞者の視線が同じ方向へ向かい、風景を見る権利と作者自身の観察が重なる。Weserburgの〈Seabound〉も、海辺の風景、身体、時間を通して、人物が風景の中で占める距離を検討した*6

作者、モデル、技術者—一人の身体に複数の役割を持たせる

画面には一人の身体が写っていても、制作には構図を考える作者、カメラを操作する技術者、画面内で待つモデルという役割がある。gb agencyは、初期の自伝的作品から、絵画史、風景、パフォーマンス、フルクサスのスコアまでを連続した実践として紹介する*8。自分が役割を兼ねることで、「見る側」と「見られる側」は同じ工程を往復する。撮影の権限を自分で保ちながら、作品の意味を感情だけで決めないことが、自画像を続ける方法になった*13

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

〈Annunciation〉—結末へ急がず、待機の時間を系列にする

〈Annunciation〉は2009年に始まり、不妊治療、待機、期待、失敗を複数年の写真と映像へ分けた。gb agencyは、個人的経験から出発しながら、社会で語られにくかった不妊を舞台化したシリーズとして説明する*23。同じ室内、身体、花、空白を日付ごとに反復し、成功か失敗かという一つの結末へ経験を集約しない。写真は日ごとの身体と配置の差を保存し、映像は待機する時間を持続させる。

自画像の行き詰まりからフルクサスへ—制作の起点を外部に作る

20年にわたり自身をモデルにした後、ブロテルスは制作の行き詰まりを感じ、1960〜70年代のフルクサスのイベント・スコアや指示文を使い始めたと説明している*15。自分の記憶や感情から毎回制作を始めると、既に知っている自分を反復しやすい。誰でも実行できる短い指示は、行為の条件を作者の外部から与える。Aalto Universityは、〈Règle du jeu〉で指示文が新作の出発点となり、ユーモアと遊びが増したことを伝え*14、Centre Pompidouも写真、映像、パフォーマンスの系譜へ接続している*9

〈Règle du jeu〉—外部の規則と作者の選択を同時に残す

〈Règle du jeu〉では、フルクサスや前衛芸術の指示を自分の身体で実行する。Galleria Heinoは、1960〜70年代のパフォーマンス志向の指示を再訪したシリーズとして紹介し*10、Serlachiusは同じスコアを別の作家が個別に実行できる開かれた形式を強調する*11。身体は伝記の主人公から、共有可能な規則を試す演者へ変わる。しかし、どのスコアを選び、どの場所、画角、瞬間を作品にするかには作者の判断が残る。Frame Finlandも、このシリーズを制作の新しい局面として紹介している*12

§ 04 / 04 批評と受容

自画像とフェミニズム—誰が身体の意味を決めるか

ブロテルスの作品では、女性の身体を作者自身が撮ることで、誰が構図を決め、誰が身体の意味を管理するかが明確になる。Louisiana Channelで彼女は、女性作家が参照できる肯定的な先行例の必要性を語っている*13。Ateneumの〈Dialogue〉は、ハンネレ・ランタラとの往復書簡と課題から約90点を構成し、女性作家同士の対話、選択の自由、フルクサス的な指示を結びつけた*22。ここで自画像は「女性の内面」を代表する像から離れ、制作条件を誰が決め、その条件を他者とどう共有するかを示す場として働く。

シンディ・シャーマンとの分岐—類型を演じる身体と、時間を引き受ける身体

シンディ・シャーマンの〈Untitled Film Stills〉では、作者が映画に反復されてきた女性類型を演じ、その仕組みを露出させる。MoMAはこの連作をステレオタイプとの対話として説明し、作品を自画像とは区別している*25。エヴァ・レスピーニも、シャーマンの身体を匿名の人物像を作る素材として論じる*26。ブロテルスは同じ身体の年齢、居住、治療、旅、制作上の停滞を系列の中へ残す。類型への変身より、一人の身体が現実の時間を通過し、作者、モデル、技術者の役割を変える過程に重心がある。

深刻さ、遊び、観客の投影

後期のスコア作品では、不条理、失敗、身体的な遊びが前へ出る。British Journal of Photographyの対話は、セルフポートレートの演技性と創作の自由を同世代の作家との会話から掘り下げ*16、Finnland-Institutの質問紙は、ユーモア、動物、偶然、日常的な好みを作品理解の入口として示す*20。遊びは初期作の重さを抱えたまま、自画像を同じ感情表現へ固定しないために働く。Collectors Agendaは写真が見る者の投影も明らかにすると述べ*17、KunstHausWienも同一化、内省、投影が生じる画面として作品を論じた*21。作者の経験、外部の構図や規則、観客の解釈が交差するため、一人の身体が一人分の意味へ閉じられない。

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • ソフィ・カル ― 個人の生活、ルール、追跡、文章を使い、作者と被写体の役割を揺らす。
  • 川内倫子 ― 日常、身体、光、時間を写真集の連なりで扱う同世代の写真家。
  • タシタ・ディーン ― 指示、偶然、時間、アナログ媒体を通じ、作者の統制と出来事の間を探る。
Movements / Contexts
  • 私写真 ― 自己の経験を出発点にしながら、日記や告白へ固定しない。
  • コンセプチュアルアート ― 自伝的な自画像から、フルクサスのイベントスコアを参照したルールベースの実践へと展開し、主体性が写真の中でいかに構築・上演されるかを問うた。
  • ステージド写真 ― 作者自身がモデルとなり、構図と行為を撮影前に設計する。
§ REF さらに読む
§ SRC 出典