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PHOTOGRAPHERS/TACITA DEAN ·コンセプチュアルアート ·UPDATED 2026.08
TD
§ 140 — Photographer Index — コンセプチュアルアート

タシタ・ディーン

Tacita Dean
Country1980s / 1980年代 Period1980–1990s Channelイメージを疑う · CONCEPTUAL
Abstract

タシタ・ディーンは、絵画教育から黒板画、拾得写真、16mm・35mm映画、写真、フォトグラビュール、アーカイブへ制作を展開した。17歳頃の8mm撮影や、偶然見つけた写真から始まる〈Girl Stowaway〉を通じ、作者の計画だけでは決まらない像に関心を持った。《Disappearance at Sea II》《The Green Ray》《FILM》、写真集〈Floh〉では、待機、光化学処理、投影、印刷、発見の偶然を使い、像が残る時間と消える条件を作品の内容にしている。

この写真家が変えたこと

ディーンは、映画、写真、フォトグラビュール、拾得資料に、それぞれ別の役割を与えた。16mm・35mm映画は、有限なリールの間だけ光を持続させ、映写が終わると像も消える。写真は一つの断片を止め、その前後に欠けた時間を残す。フォトグラビュールは写真を版、インク、紙へ移し、保存が物質の変換を伴うことを示す。〈Floh〉や《Monet Hates Me》では、出典や分類が欠けた像を、新しい順序で組み合わせる。失踪、閉鎖、老い、日没、匿名写真を、説明で埋める代わりに、各媒体が持つ待ち時間、偶然、欠落から示した。さらにフィルム在庫、現像所、映写機、技術者まで作品の条件として見せ、消えゆく対象と、消える可能性を持つ媒体を同じ問題として扱った。

Keywords 16mmフィルム Disappearance at Sea Crowhurst The Green Ray FILM アナログ写真 偶然 消失
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

絵画教育から写真と映画へ—外部の出来事を制作へ入れる

ディーンはファルマス美術学校とスレード美術学校で絵画を学んだ*5。17歳頃、父親のスタンダード8カメラで父を撮ったことが、映画との早い接点だったという*27。写真と映画には、光、機械、現像、被写体の動き、撮影中の出来事が作者の計画を越えて入る。拾得写真から始まった〈Girl Stowaway〉では、写真を収めた本の紛失や後から判明した事件が制作の方向を変え、「偽の文書」という考えへつながった*27。外部から入る偶然が作品を別の方向へ導く余地が、彼女を写真と映画へ引きつけた。

1990年代の英国—映画を展示空間で経験する

1990年代には、写真、映画、ビデオが美術館の展示室へ入り、スクリーンの像に加え、映写機、会場の暗さ、上映時間まで作品の構成として扱われるようになった。The Metはこの時期を、写真と他媒体の境界が流動化した時代として整理し*19、Pew Centerはディーンを1990年代半ばから映画をギャラリーで発表した早い世代の一人に位置づける*22。彼女は固定ショット、有限なリール、無音や環境音、実際の映写を選び、観客が像と同じ時間を過ごす条件を作品へ含めた。

ドナルド・クローハース—資料が途切れた場所から始める

ディーンは、単独世界一周ヨットレースで失踪したドナルド・クローハースに関する船、記録、場所を長期的に追った。Tate Britainの展覧会資料は、クローハースの航海と失踪が、《Disappearance at Sea》(1996)から《Teignmouth Electron》(2000)まで続く制作の核になったことを記している*3。灯台、海、漂着した船、航海資料を撮影しても、失踪の瞬間そのものは写らない。人物の肖像で物語を確定せず、残された場所と物をつなぎ、資料を集めても分からない部分を画面と編集に残した。アーカイブは、物語が途切れた場所から制作を始めるための装置になった。

海、灯台、老い—消える直前の対象を選ぶ

ディーンの作品には、老いた作家、閉鎖される工場、廃れた建築、船、灯台、アナログフィルムなど、消失の近くにある対象が繰り返し現れる。The New Yorkerは彼女を過ぎる時間の解剖者と呼び、長い固定ショットと時代遅れになりつつある対象を結びつけた*13。《Disappearance at Sea II》では灯台の回転光を固定カメラで撮影し、救助の合図を、到来と消失が反復する時間として見せる*1

§ 02 / 04 表現の核心

16mm・35mmフィルム—対象の時間と上映の時間を重ねる

Frith Street Galleryは、ディーンの16mm・35mm映画を、歴史、時間、場所、フィルム固有の性質への関心によって支えられたものと説明する*7。フィルムは光を化学的に受け、結果が現像まで見えず、リールの長さ、編集台、映写速度、光路という物理的な制約を持つ。Plasterの対話でも、アナログ写真の待機、偶然、媒体固有の結果が語られている*15。日没、灯台、老いた人物、閉鎖される工場を、有限なリールと映写中だけ現れる像によって撮ることで、対象が失われつつある時間と、作品を映す技術が失われつつある時間を重ねた。

写真、映画、フォトグラビュール—題材に応じて時間を選ぶ

ディーンは複数の媒体を一つの「映像」へまとめない。灯台の光、日没、人物のわずかな動きには、時間に沿って変化し、上映終了とともに消える映画が必要になる。匿名写真、古い葉書、建築の断片には、一つの像を停止し、前後の欠落を残す写真が選ばれる。フォトグラビュールは、その停止像を版と紙へ移し、継承の工程を物質化する。MoMAの所蔵一覧にも映画、写真、版画が並び、ディーンが複数の媒体を継続して使ってきたことを確認できる*2。彼女が重視するのは媒体を横断する自由そのものより、対象が求める停止、持続、物質変換へ個別の媒体を対応させることである。

偶然を受け入れる—媒体が返す結果に従う

ディーンは、媒体が予期しない結果を返したとき、その結果へ従うと語っている*14。フィルムの露光、傷、色の変化、撮影中に入る鳥や光は、完全には制御できない。Menil Collectionが〈Blind Folly〉の中心に「探さないことで見つける」という態度を挙げたのも、運命、失敗、媒体の挙動を作者の判断と並ぶ要素として扱うためである*21。偶然は、作者が知らなかった時間を作品へ入れる方法になる。

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

《The Green Ray》—見えるか分からない現象を待つ

《The Green Ray》(2001)は、日没直後に一瞬現れるとされる緑の閃光を16mmで待ち、偶然記録した作品である。Marian Goodmanは同作の上映歴を伝え*5、De Pontは彼女の映画を遅く瞑想的で、アナログ像の魔術を探るものと説明する*9。Menilの回顧展は、緑の閃光が人間の目やビデオでは捉えにくく、フィルムのコマ間に現れることを紹介する*21。作品は現象の科学的証明より、肉眼、カメラ、再上映の間に生じる見え方の差を扱う。

〈Floh〉—説明を失った写真の孤立を保つ

写真集〈Floh〉では、フリーマーケットなどで集めた匿名写真を、撮影者、年代、場所の説明をほとんど付けずに編集した。NECSUSは〈Floh〉と《FILM》を通じ、アナログ媒体への関与を検討している*11。撮影者や所有者を失った写真では、像だけが過去から切り離されて残る。ディーンは欠けた情報を推測で埋めず、並べる順序だけを作った。映画の連続時間では扱いにくい、停止した断片の孤立が、この作品には必要だった。

《Monet Hates Me》と《The book End of time》—保存を物質の変化として扱う

Gettyでの《Monet Hates Me》は、研究所の資料を偶然的な探索から選び、箱に収めた複製群として構成した*4。The Met所蔵の《The book End of time》は、J・G・バラードの本をユタのカリ鉱床で結晶化させ、読めない物体へ変えた*17。The Metの保存記事は、塩が増減し得る作品を通じ、どの状態を保つかという課題を示す*18。アーカイブと保存は過去を安定させる制度であると同時に、選択と物質変化を引き受ける制作の場になる。

《FILM》と《JG》—映像が存在する装置を見せる

2011年の《FILM》は、Tate Modernのタービンホールに縦長の35mm映像を投影し、巨大なフィルムストリップのような建築経験を作った。Marciano Art Foundationは、フィルム制作の道具と工程が消滅の危機にあった時期に、媒体の生命力を主張した作品と説明する*10。《JG》では35mmアナモルフィック映画と特殊なマスクを使い、同じフィルム面の中で複数の時間と場所を並行させた*16。マリアン・グッドマンでの展示は、映画、写真、拾得葉書、塩の物体、フォトグラビュールを同じ会場へ配し、媒体ごとの時間と表面を比較した*23

§ 04 / 04 批評と受容

肖像・風景・静物—古典的なジャンルを複数媒体で検討する

2018年、National Portrait Gallery、National Gallery、Royal Academyが肖像、静物、風景を分担して同時開催した。NPGは映画による肖像を、長い撮影時間の中で人物が変化する像として提示し*6、Royal Academyの刊行物は三つの制度を横断する構成を記録した*8。Burlingtonの批評は、偶然、時代錯誤、命名を継続的な関心として論じる*12。写真か映画かという区分より、各ジャンルがどの時間と物質を必要とするかが展示の中心になった。

1990年代のギャラリー映画と16mmの系譜

映像インスタレーションが白い展示室を暗い上映空間へ変えた時期に、ディーンは16mm・35mmのフィルム、映写速度、リール、光路、会場の暗さを個別に指定し、媒体の条件を一括した「映像」へ吸収させなかった。The Metはこの変化の中に彼女を位置づけ*19、Tate Papersはデジタル技術が媒体理解を変える時期に、映画的かつアナログな観点から制作したと論じる*26。2018年にはマーク・トスカーノへ16mmプログラムを依頼し、マーガレット・テイト、ガイ・シャーウィン、サラ・プシル、ジョン・スミスらを肖像、風景、静物の三部へ組んだ*25。Menil Collectionの回顧展も、フィルム、版画、写真、黒板画を各素材の性質に従う一つの実践として整理している*24

保存することの矛盾—内容とともに、装置と労働を残す

アナログ作品の存続は、フィルム在庫、現像所、映写機、技術者、上映環境に左右される。《FILM》はその危機を会場全体で示した*10。映像データだけを複製しても、リールの長さ、映写速度、光の揺れ、機械音が失われれば、作品が作った時間は変わる。塩の本も、文章内容だけでは結晶の変化を引き継げない*18。Royal Academyの作品・文章・フィルモグラフィーは、制作媒体と上映・出版の履歴を一つの資料体系として残している*20。ディーンの受容は、作品のイメージと同時に、それを成立させる素材、装置、技術者をどこまで未来へ渡せるかという制度的課題を伴っている。

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Photographers
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