篠山紀信は、広告、雑誌、写真集、美術館展示を制作の場とし、スター、ヌード、建築、東京、震災後の痕跡を同時代の公共イメージとして撮影した写真家。『晴れた日』『家』『TOKYO NUDE』『ATOKATA』とシノラマを通じて、撮影、編集、印刷、流通、展示が人物像や場所の記憶を形づくる過程を示した。
篠山が戦後日本の写真に加えたのは、広告や雑誌の制作条件を写真表現の中心に置く方法である。『晴れた日』は1974年の人物と出来事を一冊の時間に編集し、『家』は生活の痕跡を全国の建築に記録し、シノラマと『TOKYO NUDE』は複数カメラと大規模な演出で変貌する東京を構成した。写真が誰に、どの媒体で、どの大きさで届くかまで設計した点が、篠山の歴史的位置を具体的に示す。
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目次 · Table of Contents
ライトパブリシティと写真雑誌——大衆へ届く像を作る
篠山紀信の表現は、1960年代の広告制作、写真雑誌、美術館が近接する環境で形成された。日本大学芸術学部写真学科在学中の1961年に日本広告写真家協会展のAPA賞を受賞し、広告制作会社ライトパブリシティで経験を積んだ。卒業制作は1963年に『カメラ毎日』へ掲載され、1966年には東京国立近代美術館「現代写真の10人」展へ最年少で参加し、1968年からフリーランスとして活動した*1。広告の現場では、依頼、企画、モデル、照明、美術、デザイン、印刷、掲載場所が一枚の像の成立に関わる。篠山はこの共同制作を、像が社会へ届くための仕組みとして用いた。写真雑誌の連載と広告の制作速度によって、同時代の人物、建築、商品、事件へ継続してカメラを向け、複製された像を多数の読者へ届ける方法を身につけた。彼が写真に見いだした可能性は、現在の人物や場所が公共のイメージへ変わる過程に参加し、その時代の表面を大量の印刷物として残すことにあった。
「時代の複写」と『決闘写真論』——写真の基準を現在に置く
篠山は「カメラマンは自分の生きている時代しか撮れない」と語り、自身の仕事を「時代の複写」と説明した*1。この考えの対象には、現実の出来事に加え、スターのポーズ、広告の照明、雑誌の見開き、写真集の順序、展覧会の大きさも含まれる。それらは、その時代が人物や場所をどのような像として共有したかを示す。1977年には中平卓馬との共著『決闘写真論』を刊行し、写真と現実、撮影者の立場、同時代の表現をめぐる対話を公刊した*12。篠山の写真観では、記録と演出、作品と商品、個人表現と大衆媒体が同じ制作過程に属する。社会が求めるスター像や身体像を制作する現場へ入り、そこで用いられる欲望、技術、速度、流通を写真の題材と条件にした。時代を外部から総括する立場を取らず、現在の中心で像を作り、その像が後に歴史資料へ変わることを引き受けた点に、彼の問題意識がある。
『晴れた日』——雑誌の速度で1974年を編集する
写真集『晴れた日』は、『アサヒグラフ』で1974年5月から半年間続いた連載を基礎に、同年の写真を加えて構成された。美術、芸能、政治、プロとアマチュアのスポーツ、人々の暮らしが一冊に収められ、長嶋茂雄、輪島功一、オノ・ヨーコなどの著名人と社会の出来事が同じ年の流れに配置された*1。画面様式を統一する代わりに、主題も規模も異なる像が1974年に同時に存在したという編集上の事実が前面へ出る。篠山は写真が生来持つ大衆性について語り、東京都写真美術館は同書を昭和の時代批評として紹介している*1。雑誌の取材周期は現在へ接近する速度を生み、写真集のページ順は一年間を振り返る時間を作った。歴史的な重要度が確定する前に人物と出来事へ接近し、異質な写真を同じ年の記憶として編集する方法によって、篠山は写真家を出来事の選別者であると同時に、公共イメージの編者として位置づけた。
『家』と「快楽の館」——建築に残る時間を撮る
『家』は月刊誌『潮』の1972年1月号から1975年12月号まで連載され、北海道から沖縄まで、迎賓館、旧大本営跡、農村の住居、炭鉱の廃墟、東京のアパート、京都の茶屋を撮影した*1。東京都写真美術館所蔵の《家》では、建物の外形に加え、家具、壁、光、傷み、空室が、そこにあった生活を示す。作品ページは1975年制作の銀色素漂白方式印画として画像と作品情報を公開している*3。高度成長期の日本で住居や共同体が急速に変わる中、篠山は建築を様式の見本として整理せず、使用の痕跡、所有者の趣味、地域差、空間に残る時間を撮影した。2016年の原美術館「快楽の館」では、33名のモデルを館内で撮影した77点を、撮影場所と対応する展示空間へ配置した*6。『家』では場所に蓄積した生活の時間を記録し、「快楽の館」では撮影された建物と鑑賞者が立つ建物を重ね、展示そのものを新しい出来事にした。建築は背景に留まらず、身体、光、記憶、鑑賞者の位置を決める制作条件となった。
シノラマと『TOKYO NUDE』——複数カメラで東京を構成する
1983年から試みられたシノラマは、複数のカメラを連結して同時に撮影し、隣接する画面を横長の像へ構成する方法である。『TOKYO NUDE』では、バブル期に増えたポストモダン建築、道路、照明、群像として配置された身体が、継ぎ目を持つ都市像へまとめられた。東京都写真美術館の資料は、撮影地の調査、多数のモデル、メイク、ライティングを含む大規模な制作工程を記している*1。隣り合うフレームには視点と時間のわずかな差が残り、東京は、複数の場面が同時進行する舞台として現れる。ヌードの身体は、建築、道路、広告照明と同じ都市の要素として組織される。広告写真で培った共同制作、照明、演出を都市規模へ適用し、変貌する東京を継ぎ目のある複数画面として提示した。シノラマは広い画角を得る技術に加え、一枚の写真が持つ統一的な視点を分割し、都市の過剰な情報量と人工性を画面構造へ移す方法だった。
『明星』から大型展示へ——人物像を公共空間へ流通させる
篠山は1971年から『明星』の表紙を担当し、歌手や俳優が「アイドル」という大衆文化の像として共有される過程に関わった*1。東京都写真美術館の公式コレクションにある《Carmen Maki》では、ポーズ、背景、照明が人物を印刷物の中で即座に認識できる像へ整えている*4。《小林旭》にも、人物の存在を強く伝える画面の明快さが確認できる*7。スター写真とヌードでは、人物が社会の中でどのような像として現れるかを、衣装、身体、視線、照明、背景から制作した。その人物像は雑誌の表紙から写真集、広告、展覧会へ移され、それぞれの媒体で異なる尺度を得た。2012年から巡回した「写真力 THE PEOPLE by KISHIN」はスターや社会的事件を撮った写真を巨大プリントで展示し、2019年まで全国32会場を巡回した。Gallery AaMoの記録には幅8メートルを超える作品と、約99万人の累計動員が記されている*5。印刷部数、写真の大きさ、観客との距離まで制作の範囲に含め、人物像が公共空間へ届く条件を設計した。
『ATOKATA』——震災後の物と場所を記録する
東日本大震災後の『ATOKATA』は、篠山が長く扱った時代の記録を、喪失後の場所へ向けた仕事である。2011年5月から秋まで4回被災地を訪れ、津波で倒れた木々、打ち上げられた船、倒壊した建物、静かな自然、家に残った生活の痕跡を撮影した*1。TIMEは同年刊行の写真集を、震災直後の損壊した木、金属、石を記録した仕事として紹介している*18。『家』が住居に積み重なった時間を撮ったシリーズであることを踏まえると、『ATOKATA』は、その時間が一度に断たれた場所を物と空間から記録した作品となる。スター写真やシノラマで用いた大規模な照明と演出は抑えられ、現場に残った物の位置、表面、周囲の風景が直接写される。篠山は写真を「死んで行く時の記録」と語っており、華やかな人物像と災害後の痕跡は、現在の像を未来へ残すという写真観の中でつながっている*1。時代が求める対象と媒体に応じて形式を変え、失われる前の現在を複写する姿勢がここにも現れている。
商業写真を時代の記録へ——篠山紀信は何を変えたのか
篠山の活動では、広告、雑誌、写真集、ヴェネツィア・ビエンナーレ、美術館展が並行していた。発行部数、知名度、制作スタッフ、印刷技術、展示規模が画面の成立に関わり、商業写真と美術作品が一つの制作史を形づくる。1976年には『家』をテーマにヴェネツィア・ビエンナーレ日本館へ出品し、雑誌連載から生まれた仕事を国際展の空間へ移した*6。同時代の森山大道は、小型カメラ、路上の偶然、粗い粒子から都市の不安定な経験を記録した。篠山は企画、照明、モデル、建築、印刷、大型展示を組織し、社会が共有する人物像や都市像を制作した。両者は雑誌を主要な発表媒体としながら、複製と都市へ異なる方法で向き合った。『晴れた日』は1974年の出来事を一冊に集め、『家』は生活環境を建築から記録し、『TOKYO NUDE』はバブル期の東京を複数のフレームへ構成し、『ATOKATA』は震災後の喪失を物と場所から追った。篠山が写真に加えたのは、広告や雑誌の制作条件を取り込み、撮影、編集、印刷、配布、展示を一つの表現として設計する方法である。スター、ヌード、家、都市、災害のそれぞれに応じて形式を変え、その時代が自らをどのように見せ、何を失い、何を記憶するかを記録した。写真の大衆的な流通を時代批評の条件として引き受けた点に、戦後日本写真における篠山の固有性がある。
二人の対話を通じて、写真、現実、演出、撮影者の立場をめぐる同時代の論点を確認できる。