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PHOTOGRAPHERS/TAKUMA NAKAHIRA · 日本写真
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§ 111 — Photographer Index — 日本写真

中平卓馬

Takuma Nakahira 1970s / 1970年代
Country日本 Period1970–1980s Channel写真史の論点 · 日本写真
Abstract

1938年東京生まれ、2015年没。写真家・批評家。1968年の写真同人誌《プロヴォーク》創刊に参加し、荒れ・ぶれ・ぼけの実験的な写真言語を理論的に支えた。写真集《来たるべき言葉のために》(1970年)を発表し、戦後日本写真の最も根本的な問い直しを行った写真家として今日も参照される。

Keywords 日本写真 日本
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 03 背景と時代

1938年東京生まれ、2015年没。編集者として出発し、1960年代末の政治的激動期に写真批評の言語を発展させた。1968年、森山大道・高梨豊・多木浩二とともに写真同人誌《プロヴォーク》を創刊。1970年に写真集《来たるべき言葉のために》を刊行し、1971年パリ・ビエンナーレに参加した。1977年に体調を崩して記憶と言語の一部を失い、1980年代以降は沖縄・横浜などを拠点に異なる直接性をもつ写真実践を続けた*2

§ 02 / 03 表現の核心

中平卓馬の写真実践は、プロヴォーク期と1977年以降で大きく局面が変わる。初期の仕事は、荒い粒子・高コントラスト・ブレ・ピントのはずれた断片的なイメージ——いわゆる「アレ・ブレ・ボケ」——による写真であり、これは単なるスタイルではなく、安定した表象・言語・イデオロギーへの批判的攻撃だった。カメラは安定した見方の記録ではなく、見ることの不安定性を暴露する道具として用いられた。写真集《来たるべき言葉のために》(1970年)はその到達点であり、SFMOMAはこれを日本急進写真の先駆的な仕事として評している*2

中平はアパーチャーが刊行した著書のなかで「世界そのものが、私の視線と物たちの反射する視線とが闘い合う磁場である。見ることは、他者の視線に自己をさらすことでもある」と記しており、この言葉は彼の写真実践の核心を端的に示す*1。視線は一方通行の記録ではなく、対象との緊張した相互関係として成立する——この認識が、アレ・ブレ・ボケという形式的な選択を単なるスタイルでなく批評的な実践として根拠づける。

1971年のパリ・ビエンナーレへの参加は、中平の仕事が国内の文脈を超えて、ポスト1968年の画像と言語をめぐる国際的な議論に位置することを示している。MoMAが後年この出品を論じた際も、《来たるべき言葉のために》を単なる日本の反カルチャー産物ではなく、表象言語そのものへの問い直しとして位置づけた*3

1977年の病後、中平の写真は変容した。記憶と言語の喪失を経て現れた写真は、初期の荒々しい批判性とは異なる直接性をもつ。SFMOMAはこの変化を、アイデンティティの断絶と写真実践の継続という緊張として提示しており、この後半期の存在が中平をプロヴォーク創設というスタイル的な記号に還元することを難しくしている*2

§ 03 / 03 批評と写真史上の位置

近年の機関的受容は、中平をプロヴォーク創設期のみに還元することを拒み、批評的著述と後半期の仕事の重要性を強調する。SFMOMAは中平を日本急進写真の先駆者として位置づけながら、1977年の病と変容した後期の質を正面から扱っている。MoMAの論考は1971年パリ・ビエンナーレでの出品を国際展示史のなかに位置づけ、中平がポスト1968年の画像・言語論争の国際的な参加者だったことを示す。アパーチャーによる著作の英訳・出版は、批評家・写真家としての中平の評価をさらに国際的なものへと押し広げた*1

§ REL 関連する写真家・運動
関連する写真家
  • 森山大道 ― 本文で、《プロヴォーク》をともに創刊し、荒い粒子やブレを通じて表象批判を共有した写真家として登場する。
関連する運動
  • プロヴォーク ― 本文で、中平の初期写真と批評がプロヴォーク期のアレ・ブレ・ボケを通じて表象・言語を問い直したと説明される。
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