写真の座標 Photo Coordinates
PHOTOGRAPHERS/TAKUMA NAKAHIRA ·日本写真 ·UPDATED 2026.07
TN
§ 111 — Photographer Index — 日本写真

中平卓馬

Takuma Nakahira 1970s / 1970年代
Country日本 Period1970–1980s Channel写真史の論点 · 日本写真
Abstract

中平卓馬は、夜の東京、道路、地下道、植物、湾岸、島々を、粒子の粗いモノクロから明晰なカラーまで、方法を変えながら撮影した写真家、批評家である。『PROVOKE』『来たるべき言葉のために』、《サーキュレーション》《氾濫》、『なぜ、植物図鑑か』を通じ、写真と言語、撮影する身体、紙と印刷、都市の管理、展示空間を検証した。獲得した画調が作家の署名や商品へ固定されるたびに、その方法を批評し、次の撮影と発表形式へ移った。

この写真家が変えたこと

中平は、写真家の一貫性を同じ画調の反復で示す考えを揺さぶった。『PROVOKE』のアレ・ブレ・ボケを完成形とせず、《サーキュレーション》の即日展示、『なぜ、植物図鑑か』の列挙、《氾濫》のカラー壁面へ移った。写真が言葉から自由になる可能性と、写真自身がコード、商品、作家名へ固定される危険を、自己批判と方法変更を繰り返す制作として示した。

Keywords PROVOKE アレ・ブレ・ボケ 来たるべき言葉のために サーキュレーション なぜ、植物図鑑か 氾濫
§ WORKS 作品を見る

本サイトでは作品画像を掲載していません。下記の公式アーカイブで作品をご覧ください。

目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 『PROVOKE』以前――中平卓馬が編集者から写真家へ移った理由

中平卓馬は東京外国語大学でスペイン語を学び、1963年の卒業後に『現代の眼』編集部へ入った。東松照明の仕事に接し、「写真100年」展の編集にも参加したのち、1965年に退社して撮影と批評を始めた*16。1965年から1977年までに百本を超える文章を発表している*19

中平は詩人を志し、ラテンアメリカ革命を研究する左翼系の勉強会にも参加した。政治や芸術の言葉が個々の場所や物を一般概念へまとめることに疑問を深め、後に「木」という語と、特定の時刻と場所で撮られた一本の木を比べた*8。写真を撮ると、批評の抽象語は光、距離、時間、物の表面にさらされ、撮影者の身体も都市の速度や対象の抵抗を受ける。ダニエル・アビーはこの時期の中平を「世界の中の身体」という観点から分析している*23。概念だけでは確かめられない現実を、自身の移動と感覚を通して検証することが、写真を選ぶ理由になった。

1968年、中平、多木浩二、高梨豊、岡田隆彦は『PROVOKE』を創刊し、森山大道は第2号から加わった。副題「思想のための挑発的資料」は、写真を文章の挿絵から外し、意味が確定する前の資料として置く方針を示した*20。トリスタン・イグナス=メンジーズは、高度成長下の社会を一人の視点では捉えきれない状況に対する集団的なリアリズムの実践として同誌を論じている*24。写真、批評、詩、編集、ページの衝突が制作の単位だった。

粗い粒子、手ブレ、焦点の外れ、極端な明暗は、被写体を報道的な説明へすぐ結びつける動きを遅らせた*4。フィリップ・シャリエは、既成のコードを外そうとした不鮮明な画調も、反復されれば新しいコードになると指摘する*25。アレ・ブレ・ボケの成功が、中平に次の自己批判を迫った。

§ 02 / 04 写真と言語――『来たるべき言葉のために』から『なぜ、植物図鑑か』へ

『来たるべき言葉のために』――アレ・ブレ・ボケと紙・印刷

1970年の『来たるべき言葉のために』は、夜の道路、地下道、窓、人物、動物、看板を粒子の粗いモノクロ写真として連ねる。木村恒久のデザインによる192点が光沢紙の見開きで構成された*5。裁ち落とし、黒い余白、反復、遠近の切り替えが、ページをめくる速度と像同士の衝突を作る。

イェレナ・ストイコヴィッチは、深い黒、白く飛ぶ光、粗い粒子、フラッシュの反射が、被写体と印刷の表面を同時に意識させると論じている*17。ギョウォン・キムは、都市の看板、文字、壁面と、紙、インク、ページの物質性を同じ問題として分析する*26。道路が人の移動を組織するように、ページの継ぎ目や印刷の濃度も見る順序を変える。写真集の粗さは、都市を透明に説明する写真と、写真を透明に運ぶ紙という二つの前提を崩すための形式だった。

風景論――テレビ報道、道路、都市の管理

中平が松田政男、足立正生らと共有した風景論は、事件の中心人物を追う代わりに、道路、地下道、工事現場、郊外、埋立地を撮影した。ストイコヴィッチは東京湾岸を、商品、情報、労働を運ぶ循環網の像として分析している*17。プリチャードは、高度成長と冷戦秩序が空間へ刻まれる過程として論じた*18

1972年の「ドキュメンタリーという幻影」は、連合赤軍事件のテレビ中継や沖縄返還を背景に、記録映像が出来事をそのまま運ぶという信頼を検討した*7。ユリコ・フルハタは、報道が政治的衝突を反復して「現在の事件」を作る一方、風景論が人物のいない道路や都市設備に国家の管理を見いだしたと論じている*28。中平のカメラは事件の主役から、事件を流通させる画面と、人々の移動を平時から統御するインフラへ向かった。

1970年前後、全日本学生写真連盟は水俣、四日市、足尾などを巡り、被害、歴史資料、統計を写真集へ組み込んだ。ケリー・ミドリ・マコーミックはこの活動を、日本のエコクリティカルな写真の形成過程に位置づける*29。被害者とデータを前面に置く同連盟と、無人の道路へ向かった中平の方法は異なるが、産業と国家の仕組みが土地を変える状況への応答という課題があった。

《サーキュレーション》――1971年パリ、即日撮影と展示

1971年のパリ青年ビエンナーレで、中平は街を毎日撮影し、夜に現像し、翌日に印画紙を壁へ貼り足した。一日約200枚の制作、移動、暗室作業、壁面の増加、観客の動きが一続きの作品になった*8。SFMOMA所蔵作も、その連続する行為の一部である*9

アビーは、写真家の身体が交通、商品、情報の流れを移動し、受け取った像を会場へ戻す過程として分析する*23。撮影から掲示までの時間を短くしたため、完成形は会期終了まで定まらない。中平はこの仕事の後、自分が述べてきたことと実際の行為が初めて重なり始めたと振り返った*8。歩行、暗室労働、掲示、観客の反応を、都市の循環の内部へ置いた。

『なぜ、植物図鑑か』――作者の様式から対象の差異へ

『なぜ、植物図鑑か』は1973年に刊行された評論集である。中平は、アレ・ブレ・ボケが反抗的な画調として識別され、広告や出版に消費される事態を批判した。筑摩書房は、初期作品への自己批判から事物を事物として記録する写真へ向かう転換を示す論集と紹介している*10。シャリエはこの転換を戦後写真のリアリズムと機械的客観性から検討した*11

「植物図鑑」は植物だけを撮るという主題ではない。植物、道路、建物、動物を、物語の象徴や作者の感情の代用にせず、一項目ずつ画面へ置く。中心となる一枚を設けず、異なる対象を同じ資格で並べることで、写真家が世界を先に意味づける力を抑えようとした。プリチャードはこの列挙を、断片が増え続ける開かれた手続きとして分析している*18

アラン・ロブ=グリエ、J・M・G・ル・クレジオの影響も指摘されている。ストイコヴィッチは、ヌーヴォー・ロマンが物を心理や物語から離し、形、位置、反復を記述したことと中平を比較する*17。マセソンは、人間を世界の中心に置く認識への批判を論じた*3。アビーは、李禹煥やもの派、現象学的な「出会い」との同時代性に注目する*23。対象を既知の名前へ回収する前に、見る身体と物が同じ場所で向き合うことが、図鑑という方法の条件になった。

距離、フレーミング、カラー、シャッターを切る時点には写真家の身体が残る。アビー、プリチャードは、見る側と見られる対象の相互性に注目する*19。シャリエは、作者を退ける宣言が「真のリアリズム」を実現したかを問い直した*11。図鑑へ向かった理由は初期写真の力不足ではなく、その成功が「中平らしい像」という新たな分類を作ったことにある。分類を逃れようとする写真にも身体と選択が残るという矛盾を、撮影の課題として引き受けた。

《氾濫》――48点のカラー写真と現代美術

1974年の《氾濫》では、マンホール、地下鉄、建物、道路、看板、サメなどを写したカラー写真48点が、約6メートルの壁面へ配置された。Taka Ishii Galleryは、写真メディアの増殖と、像が作家の統制を越えて押し寄せる状態を背景に挙げる*2。再構成では高さ約1.6メートル、幅約6メートルの作品として記録されている*12

壁面では全写真が同時に現れ、観客の位置によって組み合わせが変わる。プリチャードは、メディアが一方向に供給する像の過剰を、複数の経路で読む配置へ変えたと論じている*18。ヤスフミ・ナカモリは、《氾濫》を中平が写真と1970年代の現代美術を結んだ転換として位置づけた*27。東京湾岸の写真は1970年の東京ビエンナーレ「人間と物質」展カタログ表紙にも使われた。壁面と観客の移動を作品に含め、写真をコンセプチュアル・アートやインターメディアと同じ場で機能させた。

§ 03 / 04 代表作・写真集・展示方法

《La nuit》と『来たるべき言葉のために』

SFMOMA所蔵の《La nuit 1》では、暗い街路と人物の気配が粗い粒子と黒い階調に沈む*6。写真集は同種の像を192点反復し、都市を既知の場所へ戻す情報を削った。その不鮮明さが中平を識別させる画調となったとき、自己批判が始まった。

《サーキュレーション 日付、場所、行為》1971年

サーキュレーション 日付、場所、行為》は、撮影、現像、掲示を会期中に反復した。完成作品を後から提示する時間を外し、都市を歩く身体、暗室、会場、観客を同じ制作過程へ置いた。

《氾濫》1974年

《氾濫》は48点のカラー写真を異なる大きさと向きのまま置き、広告、植物、道路、工業設備を視野の周辺まで連続させた。2024年の回顧展は、この作品、雑誌仕事、島々、病後のカラーを同じ制作史に置いた*1。壁面を移動する観客が像の順序を作る構成である。

沖縄・奄美の島々と、病後のカラー写真

中平は1973年に沖縄、1974年から1977年にかけて奄美、吐噶喇列島などを撮影した*16。プリチャードは、海路、基地、港、道路が日本本土と周縁の関係を作る過程として論じている*22。アビーは奄美の写真の傾き、近い距離、不安定な空間を、対象を整然と所有する視点から外れる「出会いの記録」と分析する*23。本土から島を整理する足場そのものが画面内で揺らぐ。

1977年、中平は急性アルコール中毒で倒れ、記憶と言語に大きな障害を負った。回復後は横浜を歩いてカラーで撮り、『新たなる凝視』(1983年)、『Adieu à X』(1989年)などへまとめた。発病前後を二つの作家像へ分けない再検討が進んでいる*1。SFMOMAの映像では、歩行と撮影が病後の日常に組み込まれていたことを確認できる*14

後期作品は「植物図鑑」への単純な回帰ではない。SFMOMAは、分類や一般化に収まらない対象ごとの差を強調する方向へ進んだと説明している*16。《Untitled, from Documentary》の明晰なカラーと正面性は初期モノクロと異なる*15。対象を既成の意味へ急いで結びつけず、歩行と撮影のたびに差を確かめる姿勢は続いた。

§ 04 / 04 批評・再評価・写真史上の位置

中平卓馬はなぜ自分の写真を批判したのか

中平の国外での知名度は長く『PROVOKE』とアレ・ブレ・ボケに支えられてきた。アビー、プリチャードは、その新規性が強調される一方、百本を超える批評と1970年代の方法変更が見えにくくなったと指摘する*19。中平が初期の画調を批判したのは、成功して模倣可能な感性となり、像を説明から自由にする方法が別の固定された記号へ変わったからである。

文章は直前の方法が現実をどこで捉え損ねたかを分析し、次の撮影、編集、展示はその分析を別の条件で試した。図鑑の列挙にも身体と編集が残り、即日展示にも選択が残る。中平は矛盾を一つの理論で解消せず、画調、制作時間、展示空間、色、移動する場所を変えて検証を続けた。

中平の写真史上の位置は、写真が言葉から自立すれば現実へ直接届くという期待を自ら試し、その写真もコード、商品、作家名へ固定されることを確認した点にある。撮影する身体、紙と印刷、編集の時間、壁面、観客の移動を制作の条件として組み直し、方法が成功したときに生じる盲点を次の作品の出発点へ変えた。

海外研究による再評価――身体、集団、紙、島々

2003年の横浜美術館展は、病後の仕事を初期作品と並べて制作全体を検証した*13。2024年の東京国立近代美術館展は、《氾濫》、雑誌仕事、島々、病後のカラーを連続した制作史として示した*1。2025年には初の英語選集『At the Limits of the Gaze』が刊行された*19

海外研究は、中平の方法が生まれた条件へ対象を移している。イグナス=メンジーズは集団制作を論じた*24。シャリエは構造主義とコードを扱った*25。キムは紙と都市の物質性を分析した*26。フルハタはテレビ報道と風景論を位置づけた*28。マコーミックは同時代の公害写真を検証した*29。ナカモリは写真と現代美術の交差を示した*27。アビーは撮影する身体と奄美の空間へ議論を進めた*23

2026年にはスペイン紙『El País』も、権力、言語、見る行為を扱う理論家として中平を紹介した*21。中平は現在、特定の画調を生んだ作家から、身体、集団、印刷、都市インフラ、展示、島嶼を通じて写真の条件を検証した写真家、批評家として位置づけ直されている。

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • 東松照明 ― 編集者時代の中平に写真へ向かう契機を与え、戦後日本を都市、占領、基地、沖縄から捉えた先行者
  • 森山大道 ― 現像を教え、『PROVOKE』第2号から参加した写真家。粗粒子の画面を共有しながら、都市と私性への向き合い方は異なる
  • 高梨豊 ― 『PROVOKE』創刊メンバー。都市を連続的に観察し、写真集と雑誌を通じて東京の変化を捉えた
  • 多木浩二 ― 『PROVOKE』創刊メンバーで、写真と言語、都市、身体をめぐる議論を理論面から支えた
Movements / Contexts
  • プロヴォーク ― 写真を説明の従属物から外し、言葉と思考を挑発する印刷物として再構成した雑誌
  • 風景論 ― 都市の景観を中立な背景と見なさず、国家、資本、メディアが作る視覚として問う同時代の批評
  • 写真集 ― 一枚の代表作より、見開き、反復、ページ順、印刷の黒を表現の中心へ置いた媒体
§ REF さらに読む
来たるべき言葉のために / For a Language to Come
中平卓馬 / 1970年

夜の東京を中心とするモノクロ写真を、見開き、裁ち落とし、反復によって構成した代表的写真集。The Metの所蔵ページで装丁と内容の一部を確認できる。

The Met で見る ↗
なぜ、植物図鑑か
中平卓馬 / ちくま学芸文庫 / 2007年

初期写真への自己批判、写真と言語、記録、メディア社会をめぐる中平の理論を確認できる評論集。

出版社ページ ↗
§ SRC 出典