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PHOTOGRAPHERS/MARI KATAYAMA ·ステージド写真 ·UPDATED 2026.07
MK
§ 302 — Photographer Index — ステージド写真

片山真理

Mari Katayama 1987–
Country日本 Period2010s — Channel写真史の論点 · セルフポートレート
Abstract

片山真理は、義足や手縫いの分身を自ら作り、それらと自身の身体を緻密に配置して撮影する。本記事では、片山が絵画的な一画面の構成を使い、義足、衣服、人形、鏡像をどのように結びつけたかをたどる。その構図は、既製の服や靴では対応できない身体を、女性性、障害、生活、他者との関係をもつ存在として写す方法になっている。

この写真家が変えたこと

片山真理の特徴は、演出されたセルフポートレートに、義足、医療用具、身体に合わせて縫った衣服、手縫いの分身を持ち込んだ点にある。障害のある女性の身体を、医療や克服の物語だけで示さず、装い、欲望、生活、他者との関係の中に置いた。自分の身体に合う服や靴、撮影する部屋まで作り、身体の見え方を他人や既製品に任せないセルフポートレートを築いた。

Keywords セルフポートレート 義足 手縫いのオブジェ 身体政治 ハイヒールプロジェクト GIFT
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

裁縫とセルフポートレートの始まり

片山真理の表現は、写真より先に裁縫から始まっている。1987年に埼玉県で生まれ、群馬県で育った片山は、幼少期に脚へ固定する装具と専用靴を着けていたため、市販の服をそのまま着ることが難しかった。母や祖母が身体に合う衣服を縫い、片山自身も鉛筆より先に針と糸を持ったと振り返っている*1。身体に合う物がなければ自分で作るという考えは、裁縫を日常生活の技術から作品制作へつなぐ基礎となった。

先天性脛骨欠損症により9歳で両脚の切断手術を受け、その後義足で生活してきた経験は制作の背景にある。高校時代には、失った脚を想像した手縫いの脚や装飾した義足を作り、それらを身につけた姿を撮影してオンラインで発表した。片山は初期から、自分の身体も布や義足と同じく、作品を作るための材料の一つとして扱っていたと振り返っている*2

2010年に群馬県立女子大学を卒業し、2012年に東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻を修了した後、写真、立体、裁縫、パフォーマンスを横断する活動を展開した。あいちトリエンナーレ2013、「六本木クロッシング2016」、2019年の第58回ヴェネチア・ビエンナーレへの参加は、個人的な自己撮影から始まった方法が、現代美術と写真の双方で発表されていく節目となった*3*4

§ 02 / 04 表現の核心

なぜ自分で作り、自分で撮るのか

片山は十代の頃、自作した物と一緒に他の写真家のモデルになった。身体もオブジェも自分が用意したにもかかわらず、完成した写真は撮影者の作品になることに違和感を覚え、自分で部屋を飾り、ファインダーを何度も確認して撮影するようになったと話している*5。V&Aのインタビューでも、撮る側と撮られる側の関係を自分で引き受けることが、セルフポートレートを始めた理由の一つだったと説明している*6

制作はスケッチから始まり、布製の脚や人形を縫い、衣装、家具、鏡、照明を用意し、最後に自分の身体を置いて構図を確かめる。片山は一つの設営に約一週間をかけ、カメラと立ち位置の間を往復しながら画面を整えると語っている*7。ここで写真は、すでに完成した立体を記録する手段ではなく、裁縫、彫刻、室内、ポーズを一つの画面として成立させる最終段階になる。

片山は、幼い頃に祖父と見た絵画が、構図、物語、考えを言葉で説明せず一枚の中に収める現在の方法へ強く影響したと述べている*6。そのため片山の写真は、映画の一場面のように前後の物語を想像させるだけでなく、絵画のように身体、物、色、反射を一枚の中で同時に見せる構成を取る。

絵画的構図——女性像、義足、鏡像

シンディ・シャーマンの〈Untitled Film Stills〉では、衣装、化粧、身振り、場所によって、映画に登場しそうな女性像が作られる*8森村泰昌は名画や映画スターの姿と構図へ自ら入り込み、既存の人物像を別の身体から演じ直した*9ジェフ・ウォールは俳優、照明、セットを用いて、現実に起きたように見える出来事を撮影前に作った*10。片山も一枚の画面を事前に作るが、中心にあるのは一人の役柄や出来事ではなく、生身の身体、義足、衣服、人形、鏡像がどのような関係で一つの身体として見えるかという問題である。

片山にとって服や靴は、女性像を演じるために後から選ぶ衣装である以前に、身体に合う物が市販されているかという生活上の問題だった。既製の服や靴が自分の身体を着用者として想定していないため、女性の姿を作るには、まず衣服、義足、靴そのものを身体に合わせて作る必要がある*11*1。片山の構図は、既存の女性像を引用するだけでなく、その像を支える衣服や器具の条件まで画面へ持ち込む。

〈you’re mine〉では、片山の身体から型を取った人形、ベッドに横たわるセルフポートレート、全身鏡に映る現在の姿が同じ展示に置かれた。写真の片山は濃い化粧と下着を身につけ、ティツィアーノのヴィーナスを思わせる姿勢を取るが、ストッキングに見えるものは医療用の圧迫帯である。Ana Moyerは、美術史的な女性像、装い、医療器具が同じ画面に置かれることで、女性らしさの規範と、その規範の外側に置かれやすい障害のある身体が同時に現れると分析している*11。片山は障害を女性性の反対側に置かず、同じ身体の中にある装い、治療、欲望を一枚に並べている。

《mirror》では、卓上鏡が画面の中心に置かれ、鏡の内側には義足がほとんど見えない上半身の肖像が、外側には義足と室内の物が写る。Lou-Naëma Fischer-Barnicolは、この鏡を写真の枠を画面内でもう一度示す構成として読み、同じ身体でも、どこを切り取るかによって異なる肖像が作られると指摘している*12。鏡の内側だけなら一般的な女性肖像に近く、外側まで見れば義足や生活環境を含む身体が現れる。この構図は、「普通の女性像」らしさが、何を画面に入れ、何を外すかによって作られることを示している。

《bystander #016》には、海辺に横たわるヴィーナス像、脚を持たず手で感情を表す直島女文楽、他者の手を写した触手状の腕が重ねられている。Kubińskiは、人物、人形、操る手、触手が一枚の中で重なり、見る側と見られる側、人間の身体と作られた身体の境界が不安定になると分析している*13。この作品では、理想化された女性像と義足や多腕の分身が並び、異なる身体像と素材が一枚の中で同時に働いている。

〈tree of life〉——鏡と反射の構図

近作〈tree of life〉では、鏡面タイルを使った専用セットがスタジオ内に作られ、床、壁、天井の境目が反射の中で見えにくくなる。片山は最大規模の手縫いの立体、過去作を組み直した衣装や壁面、自身の身体を置き、フィルムカメラの一度のシャッターで撮影した*6。鏡は身体を増やす装飾ではなく、本人と他者、実物と反射、床と天井の区別が揺れる状態を作るために使われている。

The Brooklyn Railは『Synthesis』収録作を、色、柄、反射、光沢、身体、オブジェが画面を埋めるマキシマリスト的な構成として論じている*14。American Suburb Xも、近年の画面が複雑化し、義足だけへ視線を集中させる見方から、身体、物、スタジオ、パフォーマンスを一体として見ることを求めると評価している*15

Sixtysix Magazineは、群馬の住居兼スタジオを、生活用品、レコード、布、貝殻、ビーズ、手縫いの分身が同じ場所にある、生活されながら意図的に整えられた空間として紹介している*5。2026年のVogue Japanインタビューで片山は、アーティスト、母、妻という複数の役割に加え、義足メーカーのナブテスコや靴ブランドのセルジオ ロッシとの共同制作を通して、身体を技術や他者との関係から捉えるようになったと語っている*16。Vogue Japanは、〈tree of life〉の鏡面空間と長時間露光を、身体の複製と直接向き合った初期作から、物との距離と共存を探る近作への変化として論じている*16

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

ハイヒールプロジェクト——女性性と選択

2011年の《子供の足の私》と《I’m wearing little high heels, I have child’s feet》は、初期セルフポートレートとハイヒールプロジェクトを結ぶ作品である。片山は《小さなハイヒールを履く私》で大人になることを切望する子どもを、《子供の足の私》でサーカスの楽屋にいる子どもを想定したと説明している*17。義足と靴は、歩行を支える器具であると同時に、成熟や装いへの憧れを示す物として写されている*18

プロジェクトの直接の契機は、夜の店で働いていた際に「ハイヒールを履かないなんて女じゃない」と言われた経験だった。片山はその言葉への悔しさから義肢装具士へ相談し、義足で履けるハイヒールの制作を始めた*17。この経験は、市販の靴や義足がどのような身体を履き手として想定しているかを明らかにした。片山は実際に履いて歩けるハイヒールを作り、装いと移動を一つの制作で扱った。

片山はハイヒールを、限られた身体だけに認められる記号ではなく、日常にある自由な選択肢の一つにしたいと述べている*19。そのためプロジェクトは、義足を美しく装飾するだけで終わらない。義足、靴、衣服、歩行、舞台、歌を実際に結びつけ、既製品が用意しなかった選択肢を生活の中で作る試みになっている。

ファッションへの参加には、解放だけでは捉えられない面がある。Laini BurtonとJana Melkumova-Reynoldsは、装飾的な義足が障害のある身体を医療の対象から消費者へ移す一方、その身体を商品文化へ取り込む可能性もあると論じている。ただし二人は、片山の手縫いの脚や人形が、自身の身体を左右対称で完全な形へ修正せず、そのまま写し取ることで、ファッションモデルやマネキンが前提とする身体から距離を取っていると分析した*26。ハイヒールプロジェクトには、これまで排除されてきた身体が装いの選択肢を得ることと、障害のある身体が新しい商品イメージとして消費される危うさが同居している。

代表作——〈you’re mine〉〈bystander〉〈On the Way Home〉

2014年の〈you’re mine〉は、手縫いの物を見せるために自分を置いた初期作品から、社会の中で見られる身体そのものへ関心が移る転機となった。片山は、写真、人形、鏡を通して「どれが私なのか」を問い、オブジェと本人のどちらを主役にするかを改めて考えたと説明している*20

2016年の〈bystander〉では、直島女文楽で人形を支える黒子の手に着想を得て、他者の手を撮影し、布へ印刷して縫い合わせた多腕のオブジェを作った*21。他者の身体が作品に現れたのはこのシリーズが初めてであり、片山は制作を通して「共生していくこと」の難しさと力強さを経験したと説明している*21

2016年の〈On the Way Home〉は、妊娠中に故郷の川で撮影された。片山は、娘の人生を考えたことで、時間の感覚が自分の約100年から過去と未来へ広がり、歴史を自分の問題として感じるようになったと説明している*21。翌2017年の展覧会では、妊娠・出産による動きにくさや体形の変化から身体を強く意識し、その経験をセルフポートレートにしたと語っている*17

写真集『GIFT』『Synthesis』——編集と近作

2019年刊行の『GIFT』は、2007年から2018年までの複数シリーズを収めた最初の写真集である。布張りの表紙には片山の手が型押しされ、冒頭には視力検査表や身体の断片が置かれた後、義足、手縫いの物、セルフポートレートへ進む*22。Conscientious Photography Magazineは、この順序によって、強い印象を持つ人物写真が、先に示された物の制作と身体の経験から読み直されると評価している*23

同年の第58回ヴェネチア・ビエンナーレでは、写真と手縫いの立体を組み合わせた作品を発表した*4。第45回木村伊兵衛写真賞では、『GIFT』とヴェネチアでの展示の双方が受賞対象となった*24。受賞対象が写真集と展示の両方に及んだことからも、片山の制作が一枚の写真だけでなく、ページの順序や展示空間を含めて評価されたことが分かる。

2025年刊行の『Synthesis』は、2019年から2025年までの九つのシリーズを収め、母となった後の身体、群馬へ戻った生活、スタジオ、〈caryatid〉、〈tree of life〉をつないだ作品集である*14。初期の室内では本人と分身の関係が中心だったが、近作では住まい、土地、環境、過去の作品までが画面に加わる。American Suburb Xはこの変化を、義足だけに還元できない、制作とパフォーマンスの全体として評価している*15

§ 04 / 04 批評と写真史上の位置

構図が示すジェンダーと障害

片山の作品は、義足や先天性の身体的特徴を入口に紹介されることが多い。LensCultureのインタビューで本人は、作品を障害者の権利やボディポジティブの表現に限定せず、人間に共通する条件を扱っていると説明している*7。片山が退けているのは、障害を扱うこと自体ではなく、作品を「勇気」「新しい美」「ボディポジティブ」という分かりやすい物語にまとめる見方である。その関心は、着たい服が身体に合うか、履きたい靴を選べるか、義足を装うことができるか、部屋や舞台で身体をどう動かせるかという具体的な条件に現れる。裁縫と構図は、既製品が対応しない身体のために服を作り、その身体を写す場も自分で用意するという同じ経験から生まれている。

ハイヒール、医療用の圧迫帯、装飾した義足、手縫いの分身は、障害を説明する記号として置かれるだけではない。実際に身体を支え、装い、動きを可能にし、写真の中では女性性や欲望とも結びつく。片山は、義足を人工物だから身体の外側にあるとは考えず、手術を受けた身体や人の手が入った風景も含め、自然と人工を単純に分けられないと語っている*25。構図の中で生身の身体と人工物が連続して見えるのは、この考えを形にしたものである。

2026年のArtReviewは、現代美術で義足が身体と技術の融合、喪失、トラウマの比喩として使われると、障害のある人の日常が消えてしまう危険を指摘した。同誌は片山について、義足を一般化された象徴にせず、身体を支える器具、装飾を施す表面、日常的に身につける物として扱っていると評価する*27。片山の写真では継ぎ目や接合部も隠されない。義足は「人間と機械」を表す記号ではなく、実際に履かれ、身体を支え、生活の中で使われる物として写る。

片山は、女性であることを制作に使う要素の一つと位置づけ、「女性の強さ」を伝えることだけを作品の目的にはしていない*25。Ana Moyerは、化粧、下着、ハイヒール、医療用の圧迫帯が同じ画面に置かれる点を、女性性の規範と障害のある身体を同時に扱う構成として読んでいる*11。片山の構図では、ジェンダーと障害が別々の主題として置かれるのではなく、身体が服、器具、医療、欲望、視線と出会う同じ場面に現れる。

演出写真の歴史における片山真理

サイモン・ベーカーは片山の作品に、シンディ・シャーマン、ジェフ・ウォール、マシュー・バーニーとの接点を見ている*2。片山も、自分の身体を使った演技、撮影前に作られた場面、写真と彫刻やパフォーマンスの横断という先行する方法を受け継いでいる。森村泰昌とも、既存の絵画や映画を参照し、身体を使って一枚の画面を作る点で比較できる*9

片山の写真史上の位置は、演出や絵画的構図を発明したことではなく、そこへ何を持ち込んだかにある。先行する演出写真が役柄や出来事を作ったのに対し、片山は、身体に合う衣服、義足、医療器具、手縫いの分身、鏡像を同じ画面に置いた。それらは人物を説明する背景ではなく、実際に身体を支え、装い、ときには別の身体として現れる物である。片山はセルフポートレートを、障害のある女性の身体がどのような服、器具、空間、視線の中で見えるのかを示す方法にした。

片山の作品は、東京都写真美術館、森美術館、Tate Modernなどに収蔵され、2019年には第58回ヴェネチア・ビエンナーレへ参加した*3*4。写真集『GIFT』とヴェネチアでの展示が第45回木村伊兵衛写真賞の受賞対象となったことも、完成した一枚だけでなく、物を作り、並べ、ページや空間で見せる一連の方法が評価されたことを示している*24

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • 森村泰昌 ― 美術史や映画の人物を自ら演じ、既存のイメージを別の身体から読み直した作家
  • シンディ・シャーマン ― 衣装、化粧、ポーズによって映画や雑誌の女性像を演じ、写真の中の人物がどのように作られるかを示した作家
  • 石内都 ― 身体の痕跡、衣服、傷を通して個人の記憶と社会の歴史を重ねて捉えた写真家
  • 長島有里枝 ― 自己、家族、ジェンダーを撮る行為そのものから問い直した写真家
Movements / Contexts
  • ステージド写真 ― 現実を偶然に待つのではなく、場面を構成・演出して撮影する写真実践
  • セルフポートレート ― 被写体と撮影者が同じ位置を占める写真形式
  • 身体政治 ― どの身体が正常、美しい、自由とみなされるかをめぐる制度と表象
  • クラフトと写真 ― 裁縫、立体制作、室内の設営を行い、その成果を一枚のセルフポートレートとして完成させる方法
§ REF さらに読む
GIFT
Mari Katayama / United Vagabonds / 2019年

〈you’re mine〉や〈bystander〉など、それまでの主要作品をまとめ、ヴェネチア・ビエンナーレ展示とともに木村伊兵衛写真賞の対象となった最初の写真集。

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Synthesis
Mari Katayama / SPBH Editions・MACK / 2025年

セルフポートレート、手縫いのオブジェ、身体と土地をめぐる近年までの制作を編み直した作品集。

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§ SRC 出典