石内都は、横須賀、古いアパート、傷跡、母の遺品、被爆者の衣服、桐生の絹を通して、戦後の場所と女性たちの生活が物や身体にどう残るかを撮影した写真家。写真を始めた理由は、自宅に残されたカメラと暗室機材、そして染織で使った薬品の匂いと暗室の作業がつながった体験にあった。東松照明との横須賀比較、テキスタイル研究の《Mother’s》読解、衣服の細部から《ひろしま/hiroshima》を読む論考を手がかりに、石内の写真が戦後をどのように見せたのかを整理する。
石内都は、写真のリアリズムを、社会的な出来事を外側から説明する記録や、撮影者の内面だけを語る私的な写真としてではなく、場所や物に残る具体的な跡から考え直した。横須賀、アパート、母の遺品、被爆者の衣服、桐生の絹は、個人的な対象でありながら、米軍基地、戦後の住居、女性の生活、原爆、近代日本の産業へつながっている。染織で素材を見た経験と、暗室で紙に像を定着させる作業は、壁、皮膚、布、遺品の細部を読む方法へ結びついた。石内の写真は、客観的なドキュメンタリーと私写真のあいだで、個人と社会を同じ画面に置く写真の方法を示した。
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石内都は群馬県桐生市に生まれ、1953年に家族とともに神奈川県横須賀へ移った。ゲッティ美術館の「Postwar Shadows」は、横須賀が1945年以後に米海軍基地を抱えた都市であり、石内の初期作品を読むうえで、この場所の戦後性が重要になると説明している*1。横須賀では、米軍基地、アメリカ映画、ポップ音楽、基地の近くで働く人々の日常が重なっていた。ゲッティは、石内が西洋文化への関心と基地への嫌悪を同時に抱えていたことを記録している*1。石内は多摩美術大学でデザインを学び、のちに染織へ移った。ゲッティの展示テキストは、1960年代末の学生運動の時代に石内がテキスタイル・デザインを学び、卒業前に退学した後、1975年にカメラと写真機材を得て写真へ向かったと整理している*1。写真を始めたきっかけは、写真家になるための計画ではなく、手元に残された機材と、自宅に作った暗室だった。SFMOMAのインタビューでも、石内は家に余った部屋と暗室機材があったため、二階に暗室を作ったと語っている*5。1976年から1977年にかけて、石内は週末ごとに横須賀へ戻り、《Yokosuka Story》を撮影した。ゲッティは、その撮影が徒歩や、米軍で運転手として働いていた母の車によって進められたことを記録している*1。同じ横須賀は、すでに東松照明が占領後の日本を考える場所として撮っていた。上智大学の論文は、東松が横須賀や基地の街を、国家が作る明るい戦後像と合わない現実として見た一方、石内は同じ都市を、自分が育ち、避け、戻ってきた場所として撮ったと論じている*14。その後、石内は《Apartment》で木村伊兵衛写真賞を受け、《Endless Night》、《1・9・4・7》、《Scars》、《Mother’s》、《ひろしま/hiroshima》、《絹の夢》へと制作を広げた。横浜美術館は、2017年の「肌理と写真」で、初期から未発表作まで十三シリーズ約240点を通して石内の「粒子」に注目している*3。
写真を始めた理由——暗室と染織がつながる
石内の写真は、最初から明確な主題や職業意識を持って始まったわけではない。SFMOMAのインタビューで石内は、写真家になろうと思って始めたのではなく、家に余った部屋と暗室機材があったため、二階に暗室を作ったと語っている*5。Tokyo Art Beatのインタビューは、石内が写真紙を布のように感じ、現像液の中で粒子が浮かび上がることに強く惹かれたと伝えている*20。Oculaのインタビューでは、学生時代の染織で使った氷酢酸の匂いが暗室の停止浴と結びつき、写真を染め物に近いものとして感じたことが語られている*21。ここで重要なのは、石内が写真を「外を写す道具」としてだけではなく、薬品、紙、光、手作業によって像を作る行為として受け取ったことだ。布や糸の状態を見る経験は、写真紙、粒子、黒の濃さ、表面の傷みに向かう視線と結びついていった。
横須賀——戦後ドキュメンタリーを内側から撮り直す
《Yokosuka Story》の横須賀は、米軍基地のある街を外から説明する都市記録ではない。ゲッティの展示テキストは、石内にとって横須賀が、映画館で見たアメリカ国旗、基地のそばで働いた母、女性としての不安、少女期の記憶が重なる場所だったと説明している*1。上智大学の論文は、《Yokosuka Story》を東松照明の占領をめぐる写真と比較し、二人が同じ横須賀を見ながら異なる位置から撮っていたことを論じている*14。東松にとって横須賀は、占領後の日本とアメリカの力関係を考える場所であり、ドブ板通りや本町のように米軍基地の影響が濃く見える地域が大きな意味を持った。上智大学の論文は、東松や森山大道、中平卓馬ら外部から来た写真家が、横須賀を米軍基地周辺の街として強く捉えたのに対し、石内はその見方だけでは自分の知っている横須賀にならないと感じていたことを整理している*14。石内は、基地の記号になりやすい場所だけでなく、野比海岸、長沢海岸、雲、壁、道のように、横須賀らしい観光的な目印から外れる風景もシリーズに入れた。上智大学の論文は、この選択によって《Yokosuka Story》が、横須賀をドブ板通りや本町だけで記憶させない構成になっていると論じている*14。また、The Fashion Postのインタビューで石内は、初期の横須賀やアパートがドキュメンタリーのように誤解されやすかったため、自分はドキュメンタリー作家ではなく、伝えるためでも記録のためでもないと言ってきたと語っている*29。ただし同じ発言の中で、石内は結果として写真が記録になり、何かを伝えてしまうことも受け入れるようになったと述べている*29。石内の横須賀は、社会を外側から説明するドキュメンタリーではなく、自分が育った場所へ戻り、その場所に残る戦後の現実を写真にしていく仕事だった。
布と紙——テキスタイル研究から見える《Mother’s》
糸の目、布の厚み、擦れ、色の入り方、手触りを見ながら素材を扱う経験は、石内が写真を始めた後、写真紙の状態、粒子、黒の濃さ、壁や皮膚の傷みに目を向ける態度へつながった。上智大学の論文は、石内が写真紙を布に近いものとして捉え、写真を染めたり織ったりするようにプリントすると語った点を引きながら、暗室作業が彼女の写真にとって中心的だったと整理している*14。戦後日本の美術をめぐるフェミニズム研究では、女性作家の活動や身体の表象が、美術制度の中でどのように見えにくくされてきたかも論じられてきた*28。石内が撮る下着、口紅、被爆者のワンピース、銘仙や絹は、美術の大きなジャンル分類から離れ、生活の中で身につけられ、使われてきた物として意味を持つ。Royal College of ArtのJules Findleyの博士論文は、複雑な喪失を紙やテキスタイルの制作でどう扱うかを問う実践研究の中で《Mother’s》を参照している。Findleyは、石内が織りを学んでいたこと、亡くなった母の衣服を手放す前に撮影したこと、下着が母の身体の印象を残す物として写っていることに注目している*22。Findleyは、母の死後に日用品が突然役割を失うこと、口紅、マニキュア、義歯、下着が清潔な背景の上に一点ずつ置かれることで、家庭内の持ち物ではなく、不在の身体を思い出させる物になると読む*22。さらにFindleyは、石内の母の下着の写真が、自身の紙を使った制作にも影響したと述べている*22。Carole Huntのテキスタイル研究は、衣服や布が私的な記憶と公的な記憶を保持し、伝える媒体になりうると論じている*25。《Mother’s》の衣服、下着、化粧品、靴は、戦中から戦後を生きた一人の女性の生活を、身につけた物と使った物からたどる入口になる。
住居、赤線跡、肌へ移る視線
《Apartment》では、人物の顔ではなく、住居の壁、畳、窓、階段、室内の暗がりが主題になる。SFMOMA所蔵の《Apartment #69》は1978年のゼラチン・シルバー・プリントとして記録され、The Third Gallery Ayaの略歴は同シリーズによって1979年に第4回木村伊兵衛写真賞を受けたことを確認している*6。ゲッティの展示テキストは、石内が横須賀で13年間暮らした簡素な集合住宅の記憶から、東京や他都市の古いアパートを探し、室内や廊下、住人の気配を撮影したと説明している*1。《Endless Night》では、視線は旧赤線地帯や遊郭跡へ向かう。AWAREのインタビューで石内は、横須賀の旧遊郭を撮ることが女性の身体の商品化への批判であり、他の女性に対する自分の関わり方でもあったと語っている*2。《1・9・4・7》や《Scars》では、建物に向かっていた視線が、手、足、皮膚、傷跡へ移る。SFMOMAの「What is a scar?」は、《Scars》を外傷の痕跡を近接撮影したシリーズと説明し、石内が傷跡を古い写真に近いもの、誰かが生き残った証として考えていることを紹介している*5。住居、赤線跡、肌は違う主題に見えるが、どれも人が過ごした時間が壁、床、皮膚、傷みに残る場所として撮られている。
被爆者の衣服と絹——《ひろしま》から《絹の夢》へ
《ひろしま/hiroshima》では、広島平和記念資料館に保存された被爆者の衣服や遺品が、自然光やライトテーブルの光の中で撮影される。Jani Scanduraの論考は、広島の原爆表象には、反戦や平和の明確なメッセージ、そして重い調子が求められやすいという前提から出発している*26。そのうえでScanduraは、石内の《ひろしま/hiroshima》が、爆心地や惨状を説明する写真ではなく、衣服の刺繍、縫い目、柄、焦げ、摩耗、ほつれ、穴といった細部を見る写真である点に注目している*26。焦げや穴は被害の跡を示すが、柄、刺繍、縫製、布の選び方は、その服を着ていた人が被爆以前の日常の中で身につけていた物であることを示している。大和日英基金のインタビューでも、石内は自分が原爆資料を記録として撮っているのではなく、いま同じ時間と空間で出会った物を自分の見方で撮っていると説明している*30。同じインタビューでは、広島を撮る男性写真家の多くが記録、反戦、平和の方法を取ってきたことに触れ、それだけではない見方を開くためにキャプションを付けないとも述べている*30。そのため《ひろしま/hiroshima》は、原爆の被害を大きな歴史として示すだけでなく、服を選び、着て、暮らしていた人の身体の大きさ、好み、身だしなみ、生活へ視線を戻す作品になる。Melissa Bestの論文も、このシリーズが衣服と身の回り品を通して、被爆者の生活、個人の身元、戦争の記憶、国民的な記憶との関係を広げると論じている*27。《絹の夢》では、広島の衣服から生まれた絹への関心が、桐生の銘仙、繭、製糸工場、織物工場へ向かう。MIMOCAは、石内が《ひろしま》の制作中に多くの絹織物に触れ、出生地である桐生が織物産地だったことから、2010年以降に絹を題材として撮影を始めたと説明している*23。青幻舎版『絹の夢』の紹介は、この作品を、石内の個人史、近代日本の絹産業、それを支えた女性たち、そして故郷・桐生へ続く仕事として整理している*24。石内の布への視線は、母の衣服、被爆者の衣服、桐生の絹をばらばらに扱うものではない。身につけられ、使われ、傷み、保存された布を通して、戦後を生きた女性たちの生活、労働、身体に触れた物を撮る方法へ広がっている。
《Yokosuka Story》1976–77年
《Yokosuka Story》は、石内の出発点であり、横須賀という場所を戦後日本の基地の記憶と自分の過去の双方から捉えたシリーズである。ゲッティの展示テキストは、同作が1977年に展示され、写真界に強い衝撃を与えたと説明している*1。MoMA所蔵の《Untitled #5》は1977年制作、1994年プリントのゼラチン・シルバー・プリントとして記録され、粗い粒子と黒い縁がシリーズの形式的特徴を示している*4。上智大学の論文は、石内が「粒子の粗い暗い横須賀」は現実には存在しないと語った点を引き、同作を実在の都市の客観的記録ではなく、選択的で傷つきやすい記憶から作られた横須賀として読んでいる*14。この作品は、横須賀を社会問題として説明するだけでなく、撮影者が避けていた場所を、歩くこと、撮ること、暗室で焼くことによって見直した写真集でもある。
《Apartment》1977–78年
《Apartment》は、横須賀の記憶を都市の住居へ移した作品である。ゲッティは、石内が横須賀で暮らした簡素な集合住宅の記憶を背景に、東京や他都市の古いアパートを探して撮影したと説明している*1。SFMOMA所蔵の《Apartment #69》は1978年制作のゼラチン・シルバー・プリントで、写真は人の顔よりも壁、暗がり、窓、室内の傷みに集中する*6。ゲッティは、石内が異なる場所で撮影した部屋や建物を、ひとつの架空の集合住宅のように見せたいと考えていたことも紹介している*1。このシリーズは第4回木村伊兵衛写真賞の対象となり、石内は初期から写真集と展示の両方を使って自分の作品を残した。Apertureの近年のインタビューでは、当時の写真展が短期間で終わるため、写真集が展示の記録として重要だったこと、そして《Apartment》と《Yokosuka Story》が自費出版だったことが語られている*16。
《Endless Night》1978–80年
《Endless Night》は、旧赤線地帯、遊郭跡、夜の街の建物を撮影したシリーズである。AWAREのインタビューで石内は、横須賀の旧遊郭を撮ることが女性の身体の商品化への批判であり、他の女性に対する自分の関わり方でもあったと語っている*2。国立美術館の所蔵検索では、中村赤線地帯、安浦、飛田新地、橋本、野毛など、1978–80年に撮影され1993年にプリントされた《Endless Night》作品群が確認できる*15。この作品群では、身体は直接写されない。代わりに、建物の外壁、階段、部屋、夜の気配が、制度化された性と労働の痕跡を残す場所として撮られる。
《1・9・4・7》と《Scars》
《1・9・4・7》は、石内と同じ1947年に生まれた女性たちの手足を撮影したシリーズであり、身体を顔や名前からではなく、年齢を帯びた表面から見る仕事である。東京都コレクションでは、同系統の《#28 from 1906 to the skin》が1991〜93年のゼラチン・シルバー・プリントとして確認できる*7。SFMOMA所蔵の《Scars #12, New York》は1994年制作のゼラチン・シルバー・プリントで、傷跡が身体の一部として画面いっぱいに扱われている*17。SFMOMAの映像解説は、傷跡を外傷の記録として見るだけでなく、時間をまとった写真に近いものとして考える石内の見方を紹介している*5。ここで傷跡は、痛みを説明する言葉ではなく、その人が生きてきた時間を皮膚の上に示すものとして写される。
《Mother’s》と《ひろしま/hiroshima》
《Mother’s》は、母の衣服、化粧品、下着、靴などを撮影したシリーズで、2005年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館に出品された。日本館公式ページは、この展示を、戦中から戦後を生きた母の遺品を通じて一人の女性の肖像に迫る企画として記録している*8。The Metの《Mother’s #36 [lipstick]》は2002年制作、2018年プリントのクロモジェニック・プリントで、化粧品の表面を通して、所有者の接触と不在を示している*9。Findleyの博士論文は、《Mother’s》を、母の死後に残された衣服や日用品を撮影し、手放すことと保存することのあいだで扱う作品として読んでいる*22。母の下着や化粧品は、母本人を写していなくても、日々の生活の中で身体に触れていた物であり、石内はそれらを記念品としてまとめるのではなく、一点ずつ撮影して残した。清潔な背景の上に置かれた口紅、マニキュア、義歯、下着は、家庭の中にあった時とは違う距離で見え、母の生活と不在の両方を示す。《ひろしま/hiroshima》では、広島平和記念資料館の被爆者の衣服や遺品が撮影される。SFMOMA所蔵の《ひろしま/hiroshima #71》は2007年制作、2016年プリントのクロモジェニック・プリントで、布の色、柄、破れ、縫い目が画面の中心になる*10。Scanduraの論考は、広島の原爆表象に求められやすい重さを確認したうえで、石内が衣服の細部へ視線を移している点を読む*26。焦げや穴は被害の跡だが、柄、刺繍、縫い目、布の質は、被爆者がそれを衣服として選び、着ていた時間も示している。石内自身も、広島の衣服を原爆資料としてではなく、自分が着ていてもおかしくないワンピースとして見たと語っている*30。Melissa Bestの論文も、このシリーズが衣服と身の回り品を通して、被爆者の生活、個人の身元、戦争の記憶、国民的な記憶との関係を広げると論じている*27。《ひろしま/hiroshima》は、原爆を大きな歴史として扱いながら、被爆者を「犠牲者」という言葉だけに閉じ込めない。服の色、柄、縫い目、布の質を見せることで、戦争の記憶を、かつてその服を着て暮らしていた一人ひとりの身体と日常へ戻している。
《Frida by Ishiuchi》
《Frida by Ishiuchi》は、フリーダ・カーロの私物を撮影したプロジェクトである。Michael Hoppen Galleryは、カーロの死後に封印され、2004年に整理された「青い家」の遺品を石内が撮影したシリーズとして紹介している*12。資生堂ギャラリーは、35mmフィルムと自然光で撮影された私物が、カーロの苦難のイメージを固定するのではなく、彼女の身体と生活の痕跡を浮かび上がらせると説明している*11。母の遺品、被爆者の衣服、カーロの私物を同じ歴史として並べることはできない。共通するのは、肌に触れた面、使われた跡、時間で変化した質感から、人物を写さずに人物の肖像を作る方法である。
《絹の夢》
《絹の夢》は、石内の布への視線が、広島の衣服から桐生の絹へ広がった作品である。MIMOCAは、石内が《ひろしま》の制作中に多くの絹織物に触れたことをきっかけに絹へ関心を持ち、桐生が織物産地であることから、2010年より銘仙、繭、製糸工場、織物工場を撮影したと説明している*23。MIMOCAは、明治、大正、昭和に流行した銘仙が、当時の女性たちがファッションを楽しむ姿をうかがわせるものだとも説明している*23。青幻舎版『絹の夢』の紹介は、この作品を、《ひろしま》から始まった絹の道が、絹産業、近代日本、女性たちの労働、故郷・桐生へ続くものとして整理している*24。ここで絹は、美しい素材としてだけでなく、近代日本の産業、女性の労働、土地の記憶、石内自身の個人史が重なるものとして撮られる。
石内の受容は、国内の写真賞や展覧会、海外美術館のコレクション、国際展を通じて広がった。The Third Gallery Ayaは、《Apartment》による1979年の木村伊兵衛写真賞、2005年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館代表、2007年から続く《ひろしま/hiroshima》、2013年の紫綬褒章、2014年のハッセルブラッド国際写真賞を略歴として整理している*13。Google Arts & Cultureに掲載されたゲッティの「Postwar Shadows」は、石内が1970年代半ばに男性中心的だった日本写真界へ登場し、個人的な経験と戦後日本の政治的記憶を結びつけた作家として紹介している*18。ハッセルブラッド財団の2014年の授賞理由は、石内の仕事を、記憶における個人的なものと政治的なものの関係を探る実践として評価している*19。写真史の中で、石内の仕事は、社会的な出来事を外側から説明するドキュメンタリーと、撮影者の内面を前面に出す私的な写真のあいだに位置している。東京写真美術館の荒木経惟展資料は、《センチメンタルな旅》を「私写真家宣言」と結びつけ、妻との私的な時間が写真の中心になる流れを説明している*31。石内の場合、横須賀、アパート、母の遺品、被爆者の衣服は個人的な対象でありながら、戦後日本、基地の街、女性の生活、戦争の記憶へつながっていく。The Fashion Postのインタビューで石内が「記録ではない」と語りながら、結果として記録になり伝わることも受け入れている点も、この位置を支えている*29。東松照明との比較は、この違いを具体的に示す。東松が基地や占領を通して戦後日本を見たのに対し、石内は同じ横須賀を、自分が育ち、避け、戻ってきた場所として撮影した*14。AWAREの作家解説は、《1・9・4・7》以後の石内が身体、傷跡、母の身体と遺品へ向かった流れを整理しており、彼女の作品が場所から身体、遺品へ移りながらも、時間と痕跡を扱い続けたことを確認できる*2。笠原美智子による2005年ヴェネチア・ビエンナーレ日本館テキストは、《Mother’s》を、母という一人の女性の肖像であると同時に、今日の日本の自立した女性につながる先行者の肖像として読んでいる*8。布や衣服をめぐる研究も、この位置づけを支えている。Findleyは《Mother’s》を、母の衣服、紙、喪失の研究の中で読み、衣服や日用品が母の生活を残す媒体になる点を示している*22。Scanduraは《ひろしま/hiroshima》を、原爆の記録写真としてだけでなく、衣服の細部から被爆者の日常へ近づく作品として読んでいる*26。そのため石内都の写真は、私写真、戦後ドキュメンタリー、フェミニズム写真のどれか一つに収めるより、個人的な対象から社会的な歴史を見せる写真として位置づけられる。写真のリアリズムを、出来事を客観的に説明することだけで考えず、壁、皮膚、衣服、遺品に残る具体的な跡から社会と個人を同じ画面に置いた点に、石内の独自性がある。