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PHOTOGRAPHERS/YURIE NAGASHIMA ·日本写真 ·UPDATED 2026.07
YN
§ 245 — Photographer Index — 日本写真

長島有里枝

Yurie Nagashima 1973–
Country日本 Period1990–2000s Channel写真史の論点 · 日本写真
Abstract

長島有里枝は、セルフポートレートと家族写真、写真集、文章を往復しながら、女性の身体を誰が撮り、その意味を誰が決めるのかを問い続けてきた写真家。1993年の家族とのヌードから、妊娠、家庭、祖母の遺品、フォトグラムへ方法を変え、後年には「女の子写真」と括られた1990年代の言説そのものを研究と執筆で検証した。

この写真家が変えたこと

長島は、女性の自己表象を「自分を自由に撮ること」で終わらせず、写真を作る側と、その作品を説明する側の両方に自ら立った。美大時代、男性の友人たちの映画や写真でモデルをすると、求められる女性像が作り手の空想に沿った型で、自分自身は見られていないと感じた。そこで三脚の前後を自分で行き来し、家族の裸体を性的な商品とは異なる日常の場面へ置いた。その後、自作を「女の子写真」と呼んだ雑誌や批評を1990年から2014年まで調査し、異なる作家の仕事が性別や年齢を共通項にどのように一括されたかを検証した。撮られる側だった自分がカメラを持ち、さらに自作を説明してきた言葉まで資料から調べ直した。写真を作ることと言葉を検証することの両方を続けた点が、長島の仕事の特徴である。

Keywords セルフポートレート 家族写真 私写真 フェミニズム写真 女の子写真 写真集
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 03 背景と時代

長島は映画監督を志して美術大学に進み、希望した映画専攻に入れず視覚伝達デザインを学んだ。写真は必修科目で、中古のニコンFEを手にしたことから制作が始まったと本人は振り返っている*1。大学2年の夏、教員から「日本人を撮る」という課題を出されたままヨーロッパへ出発し、自分も日本人だと気づいて三脚でセルフポートレートを撮り始めた*1。翌年にヌードへ進んだ背景には、美大在学中に男性の友人たちの映画や写真で演技やモデルをした経験があった。そこで求められる女性像は作り手の空想に沿った型で、自分自身は見られていないと感じたと長島は振り返っている*4。作家として知られるようになった後には著名な男性写真家からモデルの依頼を受ける機会もあったが、自作と矛盾すると感じたと話している*4。当時の「ヘアヌード」ブームへの反発も重なり、女性の裸体を男性の性的欲望から切り離す方法を探すようになった*1。そこで考えたのが、家族全員が裸のまま普段通りに過ごす場面を撮る方法だった。本人は、家族を裸体と性をもっとも結びつけにくい関係と考え、日常の行為を裸で撮る方法を選んだと説明している*1。1993年、この家族とのセルフポートレートはPARCOのアーバナートで評価され、長島は作家として知られるようになる*2。初期の作品は「セルフヌード」などの言葉で紹介され、その後は1990年代後半に広がった「女の子写真」の枠へ遡って組み込まれていった。長島は自分の活動開始時期や1995年からの渡米を挙げ、当初からその集団に属していたわけではないと説明している*1。1990年代半ば、若い女性がカメラを持つこと自体が、新しい文化現象として報じられた。1996年の『Frieze』は、日記的なスナップ写真と「ガーリー文化」が同時に注目を集め、長島とHiromixの登場とともに、さまざまなカメラを持つ若い女性が街へ出ていた状況を伝えている*35。作品ごとの方法より、年齢と性別が先に語られやすい環境でもあった。文化人類学者ガブリエラ・ルカーチは、バブル崩壊後の不況期に、家族や友人を撮る女性写真家の作品が男性批評家から「失われた関係を回復する女性的な表現」と読まれた一方、撮る側の女性たちは、妻や母として関係を支える役割から離れ、自分の仕事を持つために写真へ向かっていたと論じている*27。女性たちが写真を仕事へ結びつけようとしていた時期に、その作品は家庭や人間関係を支える「女性らしさ」の証拠として読まれた。ジェーン・サイモン、ミオ・ブライスも長島と川内倫子を比較し、家庭や身近な題材、写真技術をめぐる評価が、女性写真家の仕事を「未熟」「感覚的」と扱う批評に結びついた過程を検討している*28。シアトルでの語学学習を経てカリフォルニア芸術大学大学院へ進み、批評の授業で自分の制作を言葉にする訓練を受け、作品は説明しなくても伝わるという考えが変わったと本人は話している*1。2001年には『PASTIME PARADISE』で木村伊兵衛写真賞を受賞した*9。その後、妊娠と子育ての中で、仕事と母親として求められる役割の両立をめぐる差別に直面したことが、社会学とフェミニズムを学び直す契機になった*1。2017年の東京都写真美術館での個展は、初期のセルフポートレートと家族、1990年代の若者文化、アメリカ滞在期、2007年のスイスでの植物連作、女性のライフコースに焦点を当てた作品を一つの流れに置いた*2。2020年には、1990年から2014年までの写真言説を資料から検証した『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』を刊行し、作品を作った本人が、その作品を説明してきた言葉の歴史まで調べ直す仕事へ進んだ*3

§ 02 / 03 表現の核心

カメラの前後を同時に占める

長島のセルフポートレートでは、三脚の前に立つ被写体と、撮影条件を決めてシャッターを切る撮影者が同じ人物になる。本人は、他人に頼みにくいヌードを自分で撮ることで、場所、時間、服装、ポーズ、シャッターの瞬間まで自分で決められたと説明している*4。東京都写真美術館は、1993年の《Self-Portrait (Family #26)》をセルフポートレート・シリーズのゼラチン・シルバー・プリントとして収蔵している*5。長島は後年、この方法によって、男性の撮影者と女性のモデルという役割分担に別の配置を作り、自分の身体が自分のものであることを示せると語っている*4。長島自身は、これらの写真をパフォーマンスの記録として考えられるかもしれないと述べ、役を演じ、場面を演出し、現実と設定の間を行き来してきた*4。画面に写る「本人」は、私生活をそのまま見せる証拠であると同時に、撮影者が設定した役割を自ら演じる人物でもある。1994年の《Tank Girrrl》について、長島は当時人気だった漫画キャラクターのTank Girlになろうとしていたと説明しており、煙草、セプタム、アイパッチ、Tシャツを使って別の人物を演じている*29。British Journal of Photographyのインタビューでは、自画像を実生活に基づく「Myself」と演じられた「Self Portrait」に分けながら、どちらもパフォーマティブだと本人は説明している*30。同じ取材で長島は、当時は制作の個人的背景をすべて公にせず、作品が自分を表現しながら、それらを隠しておける方法でもあったと振り返っている*30。2023年のi-Dでは、撮影中は役を演じることで現実の問題から離れ、主に男性をからかう感覚が解放になったと語った*31

家族のヌードで、見る側の習慣を試す

家族写真は、裸体と性が自動的に結びつく見方を試すために考えられた。長島は、家族なら性との結びつきがもっとも弱いと考え、「普段通りのことを裸で行う」場面を思いついたと説明している*1。家族という既知の関係、日常の動作、ヌードという強い記号が同じ写真に置かれることで、裸体を見た側がどの文脈を先に選ぶのかが写真の問題になる。美大時代、男性の友人たちの作品でモデルをした長島は、作り手の空想に沿う女性役を演じさせられ、自分自身を見られていないと感じた*4。家族とのセルフポートレートでは、自分が三脚の前後を行き来し、場所、服装、ポーズ、シャッターの瞬間を決めた*4。撮る側と撮られる側を分けず、裸体をどう見せるかまで自分で決める構造にした。長島の「家族」は血縁を肯定する主題でもなかった。実家と疎遠だった時期には、自分で選んだ友人たちを本当の家族のように感じ、《empty white room》に友人、地下のパーティー、都市の周辺部で過ごした時間を収めている*29。《Kazoku》と《empty white room》には、生まれ育った家族と、自分で家族のように感じた友人たちが、それぞれ別の生活の場として写っている。批評家ヨルグ・コルベルクは、深瀬昌久と長島がともに《家族》という題を使い、作者自身も家族と同じ画面に現れる点から二人を比較した*33。深瀬は父が長く写真家として働いた写真館の集合写真の形式を使い、1970年代から80年代にかけて家族を繰り返し撮った。そこには家族以外の若い女性が加わり、後半には父や姪の遺影も同じ集合写真の中へ入る*34。長島の1993年作は自宅で撮られ、家族全員が裸のまま普段の行為をし、作者自身も画面に入り、セルフタイマーで撮影条件を決めた*1。深瀬は固定された写真館の形式を反復し、そこへ家族関係の変化、病、死を重ねた。長島は家族全員が裸になる設定によって、裸体を性的に読む習慣と、撮影者/モデルの役割を組み替えた。コルベルクは、深瀬の作品にあるシニカルさと、長島がカメラの解放的な力を使って自分の家族関係を語ったことを対照させている*33。長島は初期制作時に深瀬の《家族》を知らなかったと話しており、二人を影響関係で結ぶ根拠はない*23。同じ《家族》でも、深瀬は写真館の型を反復し、長島は自宅で全員が裸になる場面を自分で設定した。作者が家族写真の中でどこに立ち、場面をどう作ったかが異なる。

写真を、分からないものを調べる方法にする

長島は、答えを示すためよりも、まだ理解できていないものを調べるために写真を使ってきた。2016年のインタビューで本人は、社会の問題に触れる主題を選び、作品から議論を起こしたいと話している*23。同じインタビューでは、理解できないものを写真で調べると話し、記憶は年代順に整列せず、箱いっぱいの写真のように頭の中へ残ると説明した*23。撮ることは、疑問を一度で解決する行為より、観察し、認識し、受け入れていく過程に近いという*23。家族、家、身体は時期をまたいで繰り返し現れ、同じ対象が生活の変化とともに別の方法で撮られている。

一枚の自己像から、生活の時間へ

長島のセルフポートレートは、1990年代の数枚のヌードで終わっていない。1992年から2016年までに600点を超える写真が作られ、後年の展示では約30分のスライドショーとして再構成された*4。撮影される身体は、若さ、妊娠、出産、子育て、加齢を通って変化し、同じ人物を長期間撮ること自体が作品の形式になった*7。長島は、自分の身体の変化と作風の変化が連動してきたと語っている*8。東京都写真美術館の公式プロフィールには、2004年の写真集《not six》が主要刊行物として挙げられ、2017年展では長期のセルフポートレートと女性のライフコースに関わる作品が同じ回顧の中に置かれた*2。スライドショーと写真集では異なる時期の身体が順番に現れ、「ヌード」「母親」「若い女性」といった一つの属性では括れない生活の変化が続いていく。

自分の身体から、女性たちの戦争記憶へ

出産後、長島の関心は自分と家族の経験から、別の女性たちが生きた時間へも広がった。2004年に制作し2005年に発表した《千人針》では、戦時中に女性たちが出征する家族のために縫った千人針を、自分のシャツで再現し、約660人の女性に針を入れてもらった*21。息子の保育園に隣接するデイケアセンターでは、戦時中を知る女性たちに話を聞き、映像を撮影し、展示では参加者の顔と縫う手元を写したポラロイドを構成した*21。長島は、妊娠中の2001年にアメリカ同時多発テロ事件が起こり、続いてアフガニスタンで戦争が始まるなかで出産を迎えたことで、戦争を自分と無関係な出来事として考えにくくなり、子どもの未来に関わることが制作の主題へ入ったと説明している*21。いわさきちひろ美術館の「Life展」では、この作品と戦争経験者への映像インタビューが同じ空間に置かれ、個人の手仕事が戦争の記憶を語る方法として再提示された*26。セルフポートレートで自分の身体から始まった制作は、《千人針》では戦時中の女性たちの手仕事と証言へ広がった。自分が写る作品から、他の女性が経験した時間を聞き取り、記録する作品へ方法が変わっている。

「女の子写真」という名前を検証する

長島が「女の子写真」という呼び名を検証した背景には、自分の身体や作品が他人の言葉で説明されてきた経験がある。本人は中学生頃から、身体や行動が周囲によって「女らしさ」へ合わせられていくことに違和感を持ち、18歳でシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』を読んだ経験をフェミニズムとの最初の出会いとして挙げている*7。若い頃の長島は、自分をフェミニストとは考えていなかった。2021年の金沢21世紀美術館でのステイトメントでは、テレビで知るフェミニストが年長の学者や運動家として見え、自分の生きづらさや、連帯や運動をうまく作れない感覚と結びつかなかったと振り返っている*22。制作を続ける中で、自分が繰り返し扱ってきた身体、家族、仕事、母親として求められる役割の問題を、後からフェミニズムの言葉で読み直すようになった*22。言葉のずれは、作品の受け止められ方にも早くから現れていた。1993年、PARCOでナン・ゴールディンのスライドショーと荒木経惟とのトークを見た長島は、ゴールディンに、親しい相手の私的な場面を撮れるほどの関係をどう作るのかを尋ねた。ところが後の批評書では、「人がセックスする場面を撮りたい」という趣旨の質問として紹介され、長島自身の記憶と食い違っていた*36。本人が尋ねた親密さの問題が、若い女性と性の話へ置き換わったのである。初期のセルフポートレートも、男性社会の視線が女性の身体をどう扱うかへの応答として制作された*4。その作品群は後に「女の子写真」の名のもとで、技術の未熟さ、感覚性、若さ、女性性と結びつけて語られた。長島が問題にしたのは、異なる作家の作品が性別を共通項に一括され、古い男女二元論や確認できない私生活の情報まで評価の根拠にされたことだった*18。2010年の『「女の子写真」の時代』を読んだことが、自分で反論を組み立てる直接の契機になり、2007年から参加していた上野千鶴子の勉強会で千田有紀と出会った後、2011年に大学院へ進んだ*18。本を書く目的について、長島は特定の批評家を責めることより、自分と自分を「女の子」と考える人が自尊心を損なわず自己主張できることを挙げている*18。大学院では1990年から2014年までの雑誌や書籍を集め、同じ説明が反復されることで「女の子写真」というカテゴリーがどう作られたかを言説分析で検証した*1。2014年にはラトビアのISSPで「Photography as a Subversive Tactic: Being the Other」と題するワークショップを行っている*32。同じインタビューで長島は、自分を一つの名称に分類することを好まないとも話している*23。初期作品では、自分で撮影条件を決めてセルフポートレートを作った。後年には、自作や同世代の作家を説明してきた雑誌、書籍、批評を自分で読み直した。写真を作ることと言葉を検証することの両方で、他人の説明に任せず、自分で確かめる方法を選んでいる。

植物を、祖母の創作をたどる入口にする

2007年の《SWISS》では、人の身体に代わって草花と室内が画面の中心になった。スイス滞在の少し前、長島は亡くなった祖母の遺品から、約25年前に撮られた大量の花の写真と押し花の素材を見つけている。主婦だった祖母にも自分と同じ創作意欲があったと、そのとき初めて知ったと話している*19。祖母は庭づくりと植物の観察を続け、写真や押し花を残していたが、その制作は職業的な作家活動として知られず、家の中に残された。長島は祖母の花の写真を携えて幼い息子とスイスのレジデンスへ赴き、現地の草花、滞在した部屋、息子との生活を撮影した*19。植物は新しい題材であると同時に、亡くなった祖母の視線と、一人の女性が家の中で続けた創作をたどる手がかりになった。その関心は後に、祖母の遺品を用いた《past, perfect, progressive./過去完了進行形》や、「プロ」と「アマチュア」を分ける基準への問いへ続いている*1。《SWISS》の《黄色い野生の花》は、2007年の発色現像方式印画として東京都写真美術館に収蔵されている*12。批評家の椹木野衣は2010年の《SWISS+》を初個展《愛の部屋》の変形として読み、家族との関係を示す写真から、死や離別によって関係がほどける過程をどう写真にするかへ焦点が移ったと論じた*38。祖母の写真や押し花を作品へ取り込む過程で、家庭に残された創作と、「プロ」「アマチュア」を分ける基準が制作の主題になった。

知らない女性との関係を、会話と交換から作る

2015年以降、長島は、まだ親しくない相手との関係が始まる過程そのものを制作へ入れた。KIITOでの滞在制作《縫うこと、着ること、語ること。》では、神戸の女性たちに「捨てたいのに捨てられない服」を募り、服にまつわる話を聞き、その服を着た姿を撮影し、自身の古着や写真との交換を通じて素材を集めた*24。集まった古着は、パートナーの母親との共同制作によって大きなタープへ作り替えられ、写真とともに展示された*24。撮影に加え、話を聞くこと、物を交換すること、別の女性と縫うことが同じ仕事の中に置かれている。初期の家族写真では、すでに知っている相手との関係を使って撮影者と被写体の役割を組み替えた。この仕事では、知らない女性との関係を会話と交換から作り、その時間まで作品へ含めている。

写真を置く空間から、ケアの場へ

写真以外の素材や共同制作は2010年代に増える。ただし、観客がどこを通り、どの順番で写真を見るかという関心は、1994年の初個展《愛の部屋》からあった。赤い毛皮で覆った部屋にはテレビ、ソファ、自身のヌードが置かれ、カーテンの先の暗い細長い空間に家族ヌードが並んでいた*20。写真の選択と同じくらい、身体を見る場所と順序が作品の一部になっていた。「家庭について/about home」では、母親との共作による造形物と大小の写真を空間に置き、祖母が残した花の写真や家族の記憶を、家庭、女性の創作、プロとアマチュアの境界を考える材料にした*10。2020年の「B&W」では、祖母から引き継いだ押し花を印画紙に置いた8×10のフォトグラムと、木板に写真乳剤を塗ってプリントした風景を、本人が暗室で制作して展示した*11。長島はフォトグラム《past, perfect, progressive./過去完了進行形》について、視覚が優位になりやすい写真でシルエットを使い、見る側の想像へ開く方法を話している*8。2023年の《ケアの学校》では、展覧会場を自身のスタジオとして公開し、トーク、発表会、読書会、フリーマーケット、お茶会などを通じて、参加者と「ケア」について学ぶ場を作った*25。作品を見る空間は、他者と話し、学び、時間を共有する場所へ変わった。この展開には、2021年に愛犬Punkを亡くした経験があった*31。長島は、言葉による意思疎通の少ない犬との関係で、亡くした後に最も恋しかったのは平凡な時間にただそこにいた存在だったと振り返り、ケアは重い責任と同時に「ただそこにいること」でも成り立つと考えるようになった*31。展示ではPunkと同じ色に染めた髪を、犬が使っていたリボンで結んだ後頭部の写真を置き、個人的な喪失をケアについて話す入口にした*31。2024年の国立西洋美術館の出品リストには、写真、ポストカードへのドローイング、髪の毛、犬の毛、羊毛、毛糸、紙の作品が並んでいる*17。1994年の《愛の部屋》で始まった空間構成は、後年には遺品や手仕事、共同制作を含む形へ変わった。

§ 03 / 03 批評と受容

注目の一方で、写真家としての資格まで疑われた

長島の初期作品は大きく報じられたが、その注目は作家としての評価と同じ意味ではなかった。1995年の『Studio Voice』で飯沢耕太郎は、長島をロバート・フランク、ナン・ゴールディン、荒木経惟と同列には置かず、まだ「写真家」と呼べないかもしれないと書いた一方、20歳の「女の子」の熱意に注目し、その技術を「ぎこちない手つき」と表現した*20。PARCO賞の受賞後も、「写真家」と呼べるかどうかが批評の対象になった。翌1996年の『Frieze』も、16人の女性写真家を日記的スナップと「ガーリー文化」の流行の中へ置き、若い女性が自分と身の回りを撮る現象を論じ、最後にはカメラの背後にあるものを愛か自己愛かと問うている*35。同じ記事は、それまで撮られる対象だった女性が撮る主体へ移ったことを歓迎しながら、その作品を年齢と性別でまとめて論じてもいた*35。Tokyo Art Beatは、1993年の家族写真が大きな反響を呼び、その後も「ヘアヌード」や「女の子写真」の文脈で誤解を伴って読まれてきた経緯を紹介している*6。2017年の東京都写真美術館での公立美術館初個展は、約四半世紀の制作を初期のヌードから植物、家庭、共同制作まで並べ、数点の刺激的なイメージに偏った作家像を修正する機会になった*2。2020年の書籍を論じたRealTokyoの書評は、女性写真家をめぐる言説を再検討し、実際の作品を見ることと議論することへ評価を戻す必要を指摘している*13。長島は早くから注目されたが、その作品は長く「ヘアヌード」や「女の子写真」といった呼び名を通して紹介された。その距離を、2017年の回顧展と2020年の著書が、展覧会と資料調査という別々の方法で検証している。

同じ「私生活」でも、写真の方法は違う

1990年代半ばの東京では、日記的なスナップ写真と「ガーリー文化」が同時に注目され、ナン・ゴールディン、ジャック・ピアソン、ヴォルフガング・ティルマンスの名も美術層に広く知られていた*35。長島とHiromixは同じ現象の中心に置かれ、『Frieze』はHiromixを自分と友人を撮る写真家として紹介している*35。長島の出発点には三脚、セルフタイマー、家族全員を裸にする設定があった*1。身近な生活を撮る点は共通しても、長島では、誰が場面を作り、誰が見られる側に置かれるかが作品の中心に残る。川内倫子との比較では、ジェーン・サイモン、ミオ・ブライスが、長島を「見ることのフェミニズム政治」、川内を日常を累積する「見ることの詩学」として区別している*28。どちらも家庭や日常へカメラを向けるが、同論文は長島ではジェンダー化された「見る/見られる」の問題、川内では日常の断片が積み重なる視覚のリズムに重点を置く。ナン・ゴールディンとの違いは、1993年に長島が本人へ投げかけた質問にも表れている。長島が尋ねたのは性そのものより、友人の私的な場面を撮れるほどの親密さをどう作るかだった*36。長島は自分自身や家族を画面の内側へ入れ、親しい相手との関係と、誰が撮影条件を決めるかを同じ作品の中で扱った。2018年の比較研究は長島と中国のLuo Yangを並べ、フィルム、身近な環境、親しい相手との関係を共通点として挙げている*37。同研究は、長島が自分、家族、夫、息子を繰り返し撮るのに対し、Luo Yangは友人や親近感を持つ女性たちを、血縁に代わる拡張された家族のように撮ると整理している*37。同じ身近な生活を扱っていても、長島の自己演技、Hiromixの友人スナップ、川内の日常の断片、Luo Yangの友人たちの肖像では、撮影者と被写体の関係が異なる。

1990年代の一現象から、世代を横断する写真史へ

近年の海外展では、長島は1990年代の「女の子写真」だけに限定されず、戦後から現在までの日本の女性写真家の歴史の中で紹介されている。Apertureの2024年刊行物『I’m So Happy You Are Here: Japanese Women Photographers from the 1950s to Now』は、1950年代から現在までの25作家を世代横断的に構成し、長島の作品と文章を日本写真史の再検討に含めた*14。2025年のFotografie Forum Frankfurtでの同展では、妊娠期のセルフポートレート《Full-figured, yet not full-term》が広報作品の一つに選ばれた*15。国立西洋美術館の2024年展では、長島を含む20組を超える現代美術家が、同館が未来の芸術を生み育てる場となってきたかという問いに作品で応答した*16。戦後から現在までの女性写真家史と、写真、素材、文章を横断する現代美術の双方から、長島を読み直す機会が増えている*14。家族ヌードは重要な出発点である。その後も長島は、自分と家族を撮る方法、生活の時間を写真集へ組む方法、作品に与えられた名前を資料から検証する方法を、三十年以上にわたり連続する仕事として扱ってきた。

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • 野村佐紀子 ― 同時代に身体と親密な距離を扱い、男性ヌードを写真集の時間へ組み込んだ作家。長島と比較すると、自己像と家族から出発する方法との差が見える。
  • 川内倫子 ― 家庭や日常へカメラを向ける点は共通するが、研究では、長島の「見ることのフェミニズム政治」と、川内が断片を積み重ねる「見ることの詩学」が区別されている。
  • 深瀬昌久 ― 《家族》では写真館の集合写真の型を反復し、ゲストや遺影を加えながら家族の時間と亀裂を写した。長島は自宅とセルフタイマーを使い、裸体の意味と撮影者/モデルの役割を組み替えた。
  • 細倉真弓 ― 1990年代以後のジェンダーと身体の問題を、男性身体、デジタル画像、展示空間へ展開した作家。
Movements / Contexts
  • 私写真 ― 個人の生活や親密な関係を写真へ持ち込みながら、誰が語るのかという問題を含む日本写真の文脈。
  • フェミニズム写真 ― 身体を撮る権限、視線、自己表象、写真制度の言葉を問い直す文脈。
§ REF さらに読む
『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』
長島有里枝 / 大福書林 / 2020年

1990年から2014年までの写真言説を資料から検証し、「女の子写真」と呼ばれた時代の言葉の歴史を書き直した研究書。

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『SWISS』
赤々舎 / 2010年

亡き祖母が残した花の写真と押し花を手がかりに、幼い息子と滞在したスイスで草花や室内を撮った連作をまとめた一冊。

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『Pastime Paradise』
マドラ出版 / 2000年

2001年に木村伊兵衛写真賞を受賞した写真集。家族とのセルフポートレートから出発した1990年代の仕事を代表する一冊。

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『not six』
スイッチ・パブリッシング / 2004年

パートナーとの生活を撮った2004年の写真集。東京都写真美術館の公式プロフィールで主要刊行物に挙げられている。

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長島有里枝 そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。
東京都写真美術館 / 2017年
展覧会ページを見る ↗
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