リチャード・ビリンガムは、ブラック・カントリーの公営住宅で父レイ、母リズ、弟ジェイソンとの生活を35ミリのカラーフィルムで撮り、『Ray’s a Laugh』にまとめた。一般家庭が日常や記念日を残すカラースナップと同じ媒体に、飲酒、口論、退屈、世話、笑いが反復する室内時間を収めた。写真は父を描くための資料として始まり、家族を理解しようとする私的な制作として続いた。出版・展示後には、公営住宅、失業、飲酒を読み取る階級表象としても受容され、本人の目的と社会的な読みのずれが作品の倫理を形づくった。
英国の社会ドキュメンタリーは労働者階級を外部から公共化し、家庭のカラースナップは家族内の記憶として使われてきた。ビリンガムは長くポーズを保てない父を描くため、安価なカメラと直接フラッシュで同居生活を撮り、騒乱、沈黙、世話、空の部屋が続く写真集へ編集した。私的なスナップが公開後に階級表象へ変わる過程を示し、親密さと社会的な視線を同じ像の問題にした。
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ビリンガムが育ったウェスト・ミッドランズのブラック・カントリーは、製造業と重工業で形成された地域であり、1980年代の工場閉鎖、長期失業、公営住宅政策の変化が家庭生活へ深く及んだ。本人は高層住宅で育った時期を振り返り、父レイが長く仕事を離れ、飲酒とともに室内で過ごした生活を語っている*8。この社会状況は、作品の中心が職場や街路から、待つ、飲む、眠る、世話をするという室内の反復へ向かった背景を説明する。階級表象を扱う研究も、脱工業化後の英国で家庭内部が社会構造の痕跡を担う作品として論じている*18。
制作の出発点は絵画だった。絵画を学んでいたビリンガムは父を描く資料として写真を撮ったが、レイは長いポーズを保ちにくかったため、安価なコンパクトカメラで短い瞬間を記録した。現像費を抑える目的で最も安いフィルムと処理を選び、暗い室内では直接フラッシュを使った。Observerのインタビューでは、絵画資料として撮り始め、内蔵フラッシュ付きの簡易カメラや期限切れフィルムも使った経緯が語られている*5。ぶれ、赤目、色かぶりは、被写体の動き、室内光、制作費、撮影目的から生まれ、家庭の不安定な時間を伝える形式になった。MoMAは1996年の「New Photography 12」で、この写真群を新しい写真実践として紹介した*17。
写真が美術へ入った1990年代半ばには、若い英国美術家をめぐる展覧会、市場、大衆紙が、階級や私生活を強い物語として消費していた。《Ray’s a Laugh》は1997年の「Sensation」に含まれ、ビリンガム自身も「貧困から発見された才能」という物語の中で紹介された。*13家庭内で始まった制作が写真集、展覧会、批評を通過すると、レイとリズの生活は労働者階級のイメージとしても読まれた。ここで、家族を理解しようとした撮影目的と、美術制度が写真へ与えた社会的な意味の間にずれが生まれた。そのずれが、誰が家族を見て、説明し、所有するのかという倫理的な問題を作品へ加えた。
家庭写真が残す時間
ここでいう家庭写真とは、家族が自宅、旅行、誕生日、卒業式などで撮り、アルバムへ残す普通のスナップを指す。35ミリのカラーフィルムは、安価さと扱いやすさから、家族が日常を記録する媒体として広く使われた。家族写真研究は、こうした写真が記念日を選び、家庭の継続する物語を作る役割を説明している*19。ビリンガムは誕生日のような行事に加え、レイが椅子で待つ時間、リズがパズルをする時間、動物が室内を横切る時間、口論のあとの沈黙を同じ媒体へ残した。
一般的な家族アルバムは、家族が残したい出来事を選び、世代を通じて共有する編集物である。笑顔、旅行、誕生日、儀式が繰り返されることで、家庭が継続する物語が作られる。『Ray’s a Laugh』は同じカラー・スナップの親しみやすさを使いながら、依存、退屈、装飾、世話、孤独も家族を形づくる時間として収めた。*19写真集の順序によって、記念日の写真からこぼれやすい反復する日常が家族の記憶へ加わった。
私的な記憶が階級資料になる
撮影の出発点は父を描くための資料であり、家族の生活を理解する私的な作業だった。写真が家族の外へ流通すると、狭い部屋、剥がれた壁紙、安価な家具、手製の酒、動物、身体の傷は、公営住宅、失業、福祉、飲酒を読み取る社会的な徴候になった。Nonsiteの再評価は、写真集が家族の個別性を示す一方、美術制度がレイとリズを「働く階級の荒廃」の典型として枠づける危険を論じている。*14家庭写真と階級表象の接続は、同じ室内写真が家族には記憶として、美術館の観客には社会的な証拠として読まれたときに生じた。家族写真研究は、アルバムを私的な記憶の容器であると同時に、家庭が自らを社会的に表す制度として捉えている。*20
写真集が作る家庭の時間
初版で広く流通した写真には、レイが倒れる場面、リズが猫を放るように見える場面、食器や動物で埋まった室内など、状況を即座に判断させる像が多い。ビリンガムは写真集では隣り合う写真の関係を重視し、笑いのあとに沈黙、口論のあとに空の部屋、人物の写真の間に窓や動物の写真を挟んだ。Photoworksのインタビューでは、写真が映画の場面のように前後でつながる必要を語っている*1。Redbrickの対話でも、各像が一冊の流れを作る編集への関心が確認できる*4。順序によって、激しい一枚は家族全体の説明から一場面へ戻り、別の時間と並んで読まれる。
2024年の「director’s cut」は、初期ダミーに近い長い順序を復元し、静かな室内、孤独、反復を増やした。Guardianの紹介は、この新版が未発表写真を加え、1996年版より静かで長い家庭の時間を示す構成になったと伝えている*3。新版は倫理問題を残したまま、センセーショナルな一枚へ偏った受容に、家族と同じ空間で過ごした撮影者の長い時間を戻している。
家族を撮る権限
ビリンガムは息子として家族の生活に参加し、撮影目的で訪れる報道者には持てない長さの時間を、同じ室内で過ごした。その近さが、口論の前後、待つ時間、世話の身振りを写す条件になった。一方、撮影、編集、出版、販売の決定権は息子と編集者に集中した。Financial Timesの再刊評は、理解のために撮ったという本人の説明と、親密な苦境を公開することへの疑問が現在も並存すると指摘する*12。家族関係が与えた接近の権利と、作者が持つ公開の権限の差が、この作品の倫理的な緊張を作っている。
レイ
レイの写真は、倒れる、叫ぶ、酒を飲む場面だけで構成されていない。《Untitled, 1995》のように、壁際に立つ身体と室内の色が同じ平面へ押し込まれ、人物が家庭の中心でありながら環境に吸収される写真がある。MoMAはこの作品を、直接フラッシュと近距離の色彩によって身体と室内が緊張する例として所蔵している*16。写真集の中でレイは、悲劇的な被害者、喜劇的な酔漢、父、撮影に応じる被写体という複数の役割を行き来し、どれか一つの社会類型に落ち着かない。
リズ
リズの花柄の服、入れ墨、パズル、置物、鮮やかな壁紙は、室内を自分の好みで作り替える造形感覚を示す。彼女は服と身体を強い色彩で構成し、カメラに正面から応じることもある。『ニューヨーカー』は、直射光が生活の損傷とリズの造形感覚、家族の演劇性を同時に見せると論じている*11。ビリンガムが絵画を学んでいたことを踏まえると、赤、黄、青、花柄、肌、家具が作る強い対比も作品の構造として見えてくる。
空の部屋と動物
新版で重要性を増した空の部屋、窓、鳥、犬、猫の写真は、人物の場面の間に休止を作る。National Science and Media Museumは、ビリンガムのスナップを、動作の前後が連続する時間の中で紹介している*2。動物は世話、騒音、逃走、触れ合いの循環を作り、空の部屋は家族がそこにいた時間の余韻を示す。こうした写真が、室内を階級の徴候だけで読む流れに間を置く。
《Ray & Liz》
映画《Ray & Liz》では、ビリンガムは幼少期の三つの出来事を俳優、セット、細部の再現によって構成した。本人は、子どもには理解できなかった状況の時間と空気を作ることを重視したと語っている*13。写真は撮影時の家族を短い瞬間として記録し、映画は後年の記憶から場面を作り直す。二つの媒体を比べると、『Ray’s a Laugh』にも撮影位置と編集による構成があることが明確になる。The Quietusの対話は、写真に残らなかった幼少期の時間を映画のセットと俳優で再構成した経緯を伝えている*6。The Seventh Artのインタビューでは、再演が出来事の感覚を検討する方法として説明されている*9。
ゴールディン、クラークとの違い
ビリンガムは、撮影者が共同体の内部にいる写真の系譜でナン・ゴールディンやラリー・クラークと比較される。ただしゴールディンの写真が友人、恋人、クィアな共同体の自己表象とスライドショーの共有空間を作り、クラークが若者集団への参加と逸脱を軸にしたのに対し、『Ray’s a Laugh』の被写体は撮影によって共同体として組織されない。家族という既存の関係から逃れられない撮影者が、愛情と嫌悪を同じ本へ編集する点に固有の圧力がある。MoMAは1996年の「New Photography 12」で、この家族写真を同時代の新しい写真実践として展示した*17。同館の作家ページには所蔵作品と展覧会記録がまとめられており、写真集で知られた写真群が美術館のコレクションと展示へ入った経路を確認できる*7。
称賛と嫌悪
初期受容では、写真は率直で愛情深いと称賛される一方、貧困、肥満、飲酒を美術の見世物にしたと批判された。Observerの長文記事は、ビリンガムの上昇物語と家族の生活がメディアによって結びつけられた状況を記録している*5。私的な記憶、形式的な色彩、社会的な階級記号、市場での価格が同じ像に重なるため、称賛と批判は現在まで続く。M Createsの再評価も、三十年後に階級的な覗き見と家族への愛情という相反する読みが残ることを示している*10。
家族の時間を編集する
英国の社会ドキュメンタリーでは、労働者階級の生活が撮影者の取材と説明を通して公共化され、家庭写真は家族内部の記憶として保管されることが多かった。生活を共有する人物を内部から撮る実践がすでに存在するなかで、ビリンガムの固有性は、父を描くために使った普通のカラースナップの距離と色を保った像が、写真集、美術館、批評を通ると階級の公共的表象へ変わる、その過程を作品から消さなかったことにある*14*17。一枚だけなら、倒れる父や混乱した室内が家族全体の説明になりやすい。そのため写真集の順序には、騒乱の前後にある待つ時間、世話、装飾、動物、空の部屋を戻す役割があった。ビリンガムが撮影時に求めた家族の理解と、流通後に生じた階級表象を分けて考えることで、私的な親密さが公共の社会資料へ変わるときの力と暴力を、同じ作品の問題として読むことができる*3*15。