潮田登久子は、冷蔵庫、本、豪徳寺の部屋に残る光や生活用品を通じて、近しい人の時間を人物の表情だけに頼らず写してきた写真家である。桑沢で石元泰博、大辻清司に学び、街の人物写真から出発したが、人を撮ることへの躊躇を経て、生活に触れたモノを正面から記録する方法へ進んだ。近年は『マイハズバンド』を機に、家族写真、物撮り、フォトブック、日本女性写真家史を結ぶ作家として再評価が進んでいる。
潮田登久子は東京に生まれ、1960年に桑沢デザイン研究所へ入学し、1963年に同校リビングデザイン科写真専攻を卒業した*1。AWAREの作家略歴は、桑沢で石元泰博、大辻清司に学んだこと、また牛腸茂雄ら同時代の写真家との接点を記している*2。1966年から1978年までは桑沢デザイン研究所と東京造形大学で写真の助手・講師を務め、1975年頃からフリーランスの写真家として活動を始めた*3。1976年には新宿ニコンサロンで初個展「微笑みの手錠」を開き、1978年に写真家の島尾伸三と結婚、同年に長女まほが生まれた*4。1979年初頭、家族は東京・豪徳寺に移転されていた旧尾崎行雄邸の一室へ移り、この古い洋館での暮らしが、のちに『マイハズバンド』や『冷蔵庫/ICE BOX』へつながる生活空間になった*5。1990年代以降は、本と書棚、図書館、出版社、修復現場を写す『BIBLIOTHECA/本の景色』を長期的に展開し、2018年には同シリーズで第37回土門拳賞、日本写真協会作家賞、東川賞国内作家賞を受けた*6。2022年には、1970年代末から1980年代初めの家族写真をまとめた写真集『マイハズバンド』がtorch pressから刊行され、Paris Photo–Aperture PhotoBook Awardsの審査員特別賞を受けた*7。
潮田の写真を特徴づけるのは、劇的な出来事を追うよりも、生活の中に置かれたモノを、誰かが使い、触れ、時間を過ごした痕跡として写す態度である。桑沢デザイン研究所での写真教育と、大辻清司の周辺で写真集を見ながら写真について話す環境は、その土台になった。潮田は、大辻の自宅でロバート・フランクの写真集『アメリカ人』を初めて見て、学生や卒業生たちと「穴の開くほど」見たこと、またポール・ストランドの写真集を買っていたことを語っている*3。この経験は、潮田にとって写真を一枚の図像としてだけでなく、写真集の連なり、画面の構成、対象の表面、光の扱いを考える環境があったことを示している。同時代の写真運動との関係では、桑沢の先輩である高梨豊がプロヴォークに関わった一方、潮田はその潮流について「興味が湧かなかった」と述べ、遠くから見ていたと語っている*3。横浜市民ギャラリーあざみ野のリーフレットも、初期作「街へ」を新倉孝雄や牛腸茂雄らのコンポラ写真に含めるのは難しいとし、CAMERA WORKSや自主ギャラリー運動に近くありながら外部にもいた作家として潮田を整理している*8。潮田は、プロヴォークの荒れた粒子や強い運動性、コンポラ写真の繊細な都市感覚に同化するのではなく、身近な生活圏にある対象を、正面から、時間をかけて撮る仕事へ進んでいった。
人物を撮る仕事は、桑沢で写真を学び始めた時期から続いていた。横浜市民ギャラリーあざみ野のリーフレットで潮田は、石元泰博の授業で街へ出て知らない人に声をかけ、了解を得て撮影する課題が出され、銀座、上野、浅草、新宿へ通ったと回想している*8。桑沢のインタビューでは、1976年頃の初個展「微笑みの手錠」について、人間を撮る写真がたまったためニコンサロンで開いた展覧会だったとし、新宿、浅草の見世物小屋、銀座などで人物を撮っていたと述べている*3。のちに「街へ」と呼ばれるこの時期の写真は、街頭の人物へ近づき、相手の了解を得て撮るという実践から生まれた仕事だった。ただし、その方法は早い段階で行き詰まりも生んだ。あざみ野のリーフレットでは、撮影のコツをつかむほど、カメラが武器となり獲物を追いかけるものなのではないかという疑問が芽生えたと記されており*8、IMAのインタビューでも、人を撮るうちに視線が斜に構え、社会や人を意地悪に見ているように感じたこと、島尾から人間の尊厳を大事にするよう言われたことが語られている*9。CCAの会話でも、技術が上がるほど他者にカメラを向けることが武器のように感じられ、他者を撮る方法に限界を感じたと述べている*10。冷蔵庫への移行は、この人物撮影への疑問と、豪徳寺の部屋での生活が重なるところから始まる。IMAで潮田は、島尾のように家の中や周囲を軽やかに撮ることを自分も試したが、それは真似だと感じ、しばらく作品制作から離れた後、家の中で自分にできることを探し、6×6で冷蔵庫を撮り始めたと説明している*9。冷蔵庫は人物の顔ではないが、誰かが使い、食材を入れ、開け閉めし、家の都合に合わせて整理しているものだった。人物にカメラを向けることへのためらいは、潮田の関心を人から遠ざけたのではなく、人が生活した跡を残すモノへ向かわせた。
『冷蔵庫/ICE BOX』は、潮田が自宅の冷蔵庫を撮り始め、親族、知人、友人の冷蔵庫へ対象を広げていった連作である*11。KYOTOGRAPHIEは、潮田が自分の生活を記録に留めるように冷蔵庫を撮り始め、その後約20年にわたり撮影対象を広げたと説明している*12。横浜市民ギャラリーあざみ野の回顧展リーフレットは、豪徳寺の旧尾崎行雄邸での暮らし、進駐軍払下げのスウェーデン製冷蔵庫、室内のものを記録しようとした撮影の始まりを具体的に記している*8。CCAの会話で潮田は、米軍基地で売られていた大きな中古冷蔵庫を島尾が買ってきたこと、その音や存在感が小さな部屋での生活を考えさせ、自分の日々を撮り始めるきっかけになったことを語っている*10。同じ会話では、冷蔵庫を昆虫採集のように集めるつもりで撮り、開いた状態と閉じた状態を正面から撮ること、冷蔵庫の周囲を片づけず、スリッパや生活用品があればそのまま入れることも説明されている*10。冷蔵庫は顔や身振りを持たないが、食べ物の保存、買い置き、整理の癖、家族構成、季節、家の中の労働を静かに抱え込む。そのため『冷蔵庫/ICE BOX』では、人物の感情を説明するかわりに、冷蔵庫の扉、棚の中身、周囲に残された生活用品が、家ごとの暮らしの違いを示す。正面性と反復は、冷蔵庫を匿名の工業製品に見せるためではなく、同じ形式の中で、家ごとの使われ方の差を見えるようにするために働いている。ベッヒャー夫妻との比較についても、横浜市民ギャラリーあざみ野のリーフレットは、シンプルなフォーマットと撮影対象を決める点には共通点があるものの、潮田の写真はタイポロジーそのものではなく、モノの奥にストーリーと社会性が広がる仕事だと整理している*8。東京都写真美術館の「TOPコレクション セレンディピティ」が《冷蔵庫》を牛腸茂雄、北井一夫、島尾伸三らの作品と同じ「しずかな視線、満たされる時間」のセクションに置いたことも、この連作を、家庭の内部を静かに観察する写真として見る手がかりになる*13。
1995年から始まった『BIBLIOTHECA/本の景色』では、潮田の対象は冷蔵庫から本へ移る。PGIの展覧会文は、このシリーズについて、本を情報の担い手としてだけでなく、多くの人の手を渡り、時間を重ねて変化してきた存在として撮っている点を説明している*14。Nikon THE GALLERYの展覧会文では、潮田が本の内容を知りたかったのではなく、造本の美しさと「モノ」としての佇まいに惹かれたことが示されている*6。資生堂ギャラリーの撮影メモには、初版本、古書、傷んだ表紙、修復、手袋、書庫での撮影経験が記されており、本が読むための内容だけでなく、扱われ、傷み、守られる物体であることが具体的に見える*15。桑沢のインタビューで島尾は、写真の中に写った文字から著者、発行年、おおよその内容、ページ数などを調べていくと説明している*3。横浜市民ギャラリーあざみ野のリーフレットでも、島尾に「どんなつまらないモノにも、物語がある」と言われたことで、モノを撮ることへの躊躇がなくなったという潮田の言葉が紹介されている*8。この場合の「物語」は、写真家が付け加える逸話というより、写っている本の著者や出版年、出版社、修復の跡、書庫や編集室の来歴をたどることで見えてくる具体的な時間である。たとえば『みすず書房旧社屋』では、1948年から1996年まで使われた木造の旧社屋、書庫、編集室、編集会議、建物解体前の空き部屋が撮影されている*8。同リーフレットは、丸山真男の『戦中と戦後の間』が、がらんとした棚に置き忘れられたように見え、それが本を撮り始めるきっかけになったという潮田の言葉も伝えている*8。本は内容を読むための媒体であるだけでなく、出版社の建物、編集者の仕事、戦後思想、修復、蔵書の移動を含む物体として画面に置かれる。このため『BIBLIOTHECA』は、静物写真であると同時に、図書館、出版社、個人蔵書、修復現場、大辻清司のアトリエを含む、知の保存空間の写真でもある。東京国立近代美術館に収蔵される《Bibliotheca [#01]》は、2007年制作、2018年プリントのゼラチン・シルバー・プリントとして記録され、このシリーズが写真作品として美術館コレクションにも位置づけられている*16。
『マイハズバンド』は、夫の島尾伸三、娘まほ、豪徳寺の洋館での生活を写した写真群である*5。IMAのインタビューでは、これらの写真が当初は展示や写真集を目的に撮られたものではなく、引っ越しの整理中に古いプリントやネガが見つかったことで、約40年後に見直された経緯が語られている*9。同じ家族生活は、島尾伸三も『まほちゃん』などで撮っていた。CCAの会話で潮田は、夫が同じ一室での生活を撮った成功作を持っていたため、自分の写真を発表することを考えなかったが、最終的に『マイハズバンド』としてまとめられた写真は島尾の写真とは違うものだったと述べている*10。桑沢のインタビューでも、潮田は島尾の写真を、ボケやブレや曖昧なコントラストがありながら印刷では雰囲気が出るものとして語り、自分は三脚を立て、ピントを合わせて撮っていたと述べている*3。同じ部屋、同じ家族、同じ時期を写していても、島尾の写真がボケやブレを含む印刷上の雰囲気を持つのに対し、潮田の写真は室内の光、家具、紙類、食器、冷蔵庫、窓辺の布といった生活の配置を強く残している。
写真集としての『マイハズバンド』は、6×6判の写真を中心にしたBook 1と、35mmの写真を中心にしたBook 2からなる二冊組である*17。PGIの案内では、Book 1は122ページのハードカバー、Book 2は76ページのソフトカバー、テキストは光田ゆりと長島有里枝、デザインは須山悠里、言語は日本語と英語とされている*18。Apertureは、二冊を帯でゆるく束ねた構成、布装の一冊、家庭空間を細部から記録する視線、二色刷りでモノクロ写真の階調を再現するデュオトーン印刷、光田と長島の論考を評価した*7。『マイハズバンド』を国際的なフォトブックの流れに置くとき、中心になるのは造本の完成度だけではない。1970年代末から80年代初めの東京の一室で、妻であり母であり写真家でもあった潮田が、夫、幼い娘、冷蔵庫、台所、寝具、紙片、訪ねてくる写真関係者を撮っていたことが、40年後の編集によって、ひとつの時代の家庭と写真家の視点として読まれるようになった点が重要である。Paris Photo–Aperture PhotoBook Awardsでは、2022年に1,026点の応募から35冊が選ばれ、『マイハズバンド』はPhotoBook of the Year部門の候補となり、審査員特別賞を受けた*19。Apertureが二冊組の構成、帯で束ねる造本、デュオトーン印刷、光田と長島の論考を評価したのは、家庭内で撮られた写真群が、回想のアルバムではなく、1970年代後半の日本の生活、夫婦、育児、女性写真家の視点を読む写真集として成立していたからである*7。三つの代表作はいずれも、撮影時には身近な対象だった冷蔵庫、本、室内写真が、時間を置いて写真集や展示にまとめられることで、家庭、出版文化、写真家同士の関係を示す記録として読み直される点で結びついている。
潮田の受容は、2010年代後半以降、国内の受賞、フォトブック、国際展を通じて大きく広がった。2018年に『BIBLIOTHECA/本の景色』が土門拳賞、日本写真協会作家賞、東川賞国内作家賞を受けたことは、長期にわたる本のプロジェクトが、静物や資料写真の範囲を超えて、作家の代表作として評価されたことを示している*6。『マイハズバンド』が開いた評価は、家族写真の再発見だけにとどまらない。PGIは、同作が潮田の家族生活と作家としての成長を記録するだけでなく、日本初の商業写真ギャラリーであるツァイト・フォト・サロンなど、日本の写真界が展開していく時期も写していると説明している*18。同じ展示文は、牛腸茂雄、批評家の平木収、写真史家の金子隆一ら、後に日本写真の形成に関わる人々の若い時期が、潮田の視点から写されていることも指摘している*18。FUJIFILM SQUAREの英語版展示ページも、約40年前に撮られた写真が2022年の写真集刊行によって国内外での再評価の契機になったと紹介している*5。
潮田が『マイハズバンド』や『冷蔵庫/ICE BOX』のもとになる写真を撮っていた1970年代後半は、日本写真ではプロヴォーク以後の表現、コンポラ写真、私写真、商業ギャラリーや写真集の展開が並走していた時期だった。その一方で、家庭、育児、家事、夫婦関係といった私的領域は、女性の生活に深く関わる場でありながら、写真史の中心的な語彙では扱われにくかった。Apertureの『I'm So Happy You Are Here: Japanese Women Photographers from the 1950s to Now』は、女性写真家の仕事を既存の日本写真史への対抗、補完、挑戦として提示し、女性たちが自分の生活と日本社会をどう見てきたかを主要な論点にしている*20。Japan House São Pauloの「Life that unfolds」は、潮田と川内倫子を対話的に並べ、川内が潮田を、女性の社会進出が難しかった時代から写真家として活動し、生活に真摯に向き合ってきた作家として評価している*21。Fotomuseum Den Haagも同展を、欧米で注目されてきた日本の男性写真家中心の理解を補う企画として紹介し、日常生活の観察、女性の社会的位置、写真形式の実験を主要な論点に挙げている*22。同じ時期の海外でも、女性写真家たちは私的領域や女性像を別の方法で扱っていた。シンディ・シャーマンは1977年から《Untitled Film Stills》で映画やメディアに流通する女性像を演じ直し、MoMAはシャーマンの関連語にフェミニスト・アートと写真を挙げている*23。ナン・ゴールディンは1970年代末から1980年代にかけて、自分の周囲の友人や恋人、子ども、暴力、喪失をスライドショーと写真集として構成し、MoMAは《The Ballad of Sexual Dependency》を、作家自身の経験から成るきわめて個人的な物語として説明している*24。潮田の写真は、シャーマンのように女性像を演じ直すものでも、ゴールディンのように親密な共同体を日記として差し出すものでもない。むしろ、冷蔵庫、家具、本、室内の細部を通して、家庭の内側で過ごす時間を、告白ではなく観察の積み重ねとして残したところに独自性がある。このため『マイハズバンド』の国際的な受容は、単に「よくできた写真集」が評価されたというより、1970年代後半の日本の家庭と女性写真家の視点が、写真集という形式を通じて、世界の読者が読める歴史の入口になったことを意味する。『冷蔵庫/ICE BOX』では、同じ形式で撮られた冷蔵庫の開閉が、家庭ごとの食、住まい、整理の癖、生活の見え方を示す。『BIBLIOTHECA/本の景色』では、本の内容だけでなく、出版年、著者、修復、書庫、出版社の旧社屋、蔵書の来歴が画面の問題になる。『マイハズバンド』では、私的な家族写真が、二冊組の写真集、論考、国際的なフォトブック賞によって、1970年代末から1980年代初めの生活と日本写真の人間関係を見せる資料にもなる。潮田は、私写真、物撮り、フォトブック、アーカイブのどれか一つに収まりきる作家ではない。家庭の中のモノを継続して写す方法によって、家族、生活、出版文化、女性写真家の視点を、後から検証できる写真の形で残した作家である。