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PHOTOGRAPHERS/YANG FUDONG ·コンセプチュアルアート ·UPDATED 2026.07
YF
§ 174 — Photographer Index — コンセプチュアルアート

楊福東

Yang Fudong
Country1980s / 1980年代 Period1980–1990s Channelイメージを疑う · CONCEPTUAL
Abstract

ヤン・フードンは、《An Estranged Paradise》《竹林の七賢》《The General’s Smile》など、白黒の35mm映画、演出写真、マルチチャンネル映像によって、急速に変化する中国で生きる若者と知識人のためらいを描いてきた。古典文学、文人画、1930年代の中国映画、ヨーロッパ映画の記憶を現在の身体へ重ね、物語の説明を抑え、断片、間、反復、視線のずれから歴史的移行を感じさせる。静止画と動画を連続する時間として扱い、写真の一瞬へ前後の気配を与えた作家として読む。

この写真家が変えたこと

1990年代末から2000年代の中国現代美術では、絵画中心だった国際的評価の中へ、写真と映像が都市化を経験する個人の時間を持ち込んだ。ヤン・フードンは、大判写真の三連作《The First Intellectual》、35mm白黒映画、マルチスクリーン映像を一つの視覚言語として用い、古代の文人、民国期映画の記憶、改革開放後の青年を、結末が保留された場面として重ねた。彼が表したのは近代化の外観より、受け継いだ理想と新しい都市生活の間で判断を保留する主体の沈黙、反復、待機だった。ヤンの独自性は、中国の歴史的な人物像と現在の青年を大型の静止画にも定着させ、写真と動画の双方へ、出来事の前後と複数の時代を想像させる時間構造を組み込んだ点にある。

Keywords ヤン・フードン 竹林の七賢 An Estranged Paradise 白黒映画 35mmフィルム 中国現代美術 文人 マルチチャンネル
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

中国美術学院の絵画教育から、時間を扱う映画へ

ヤン・フードンは杭州の中国美術学院で油彩を学び、1990年代半ばに上海へ移った。絵画教育は、画面内の人物配置、光、余白、風景と身体の比率に長く残る一方、彼が向かったのは、完成した一枚の構図より、像が現れて消える時間だった。Marian Goodman Galleryは、ヤンが絵画を背景に持ちながら、映画、写真、インスタレーションを通じて歴史、社会、政治に直面する個人の感情と経験を扱ってきたと整理している*1。最初の長編《An Estranged Paradise》は1997年に撮影を始め、資金不足による中断を経て2002年に完成した。MoMA Postは、ヤン自身がこれを教育を受けた階層についての「小さな知識人映画」と呼び、若い世代の喪失と疎外を扱ったと紹介している*2

1990年代末の中国では、市場経済化と都市開発が生活の速度を変え、現代美術は国際展へ急速に接続していた。ヤンの画面では、工事現場や商品による直接的な説明を抑え、古い家、湖、霧、ホテル、竹林、洋装の青年、制服、宴席を、時代の境界が揺らぐ白黒像として組み合わせる。遅い時間は、変化の意味を捉えきれず、過去の教養と新しい都市生活の間で自己像を探す主体を表すために選ばれた。

Documenta 11以後の国際的受容と「中国の物語」への距離

《An Estranged Paradise》はOkwui Enwezorの支援を受けて完成し、2002年のDocumenta 11で上映された。HIAPの紹介は、Enwezorが制作を後押しし、作品がDocumenta 11へ至った経緯を記している*3。この国際的な登場は、ヤンを「変貌する中国」を示す作家として可視化した一方、彼の作品は社会状況を、青年の身振り、沈黙、風景の持続へ変換する。Museo Esteban Vicenteは、現代中国の知識人のアイデンティティ、欲望、孤独を、夢と現実の間にある映画的世界として位置づけている*4

ヤンが扱う近代化では、古いものと新しいものが同じ現在に重なる。画面では、古代の伝説、民国期の映画、社会主義期の制服、グローバル都市のファッションが同時に生きている。時代錯誤は、現在の主体が複数の過去を身につけている状態を示す。M+の近年のインタビューでも、ヤンは新作《Sparrow on the Sea》を制作する際、初期作《An Estranged Paradise》や《竹林の七賢》の小道具が意識に戻ったと語り、作品間を反復する記憶として捉えている*5

§ 02 / 04 表現の核心

《竹林の七賢》— 古代の隠逸を、現代の青年の身振りへ移す

《竹林の七賢》(2003–2007)は、魏晋時代に政治から距離を置き、竹林で詩、音楽、酒、思想を交わしたとされる七人の文人の伝説を、現代の若い男女によって五部構成の映画へ作り直した。M+は全五部、約五時間に及ぶ作品をヤンの代表作と位置づけ、詩、音楽、文人画に繰り返し表されてきた古代の理想郷を現代へ移したと説明している*6。第一部では都会的な衣服の七人が山中を歩き、第二部以後は農村、海辺、都市、労働や享楽の場へ移る。彼らは共同体を求め、山、農村、海辺、都市を移動しながら帰属先を探し続ける。

この作品では、古典が現代の青年の身振りを測る参照枠になる。政治から退いた文人の伝説は、改革開放後の青年が社会参加、成功、自由、孤独の間で立ち止まる姿と重なる。Marian Goodman Galleryは、古代の文人を現代の若者によって再演する五部作を、伝統的価値と現代社会の緊張を扱う作品として紹介している*7。俳優の歩行、喫煙、沈黙、互いにずれる視線は、明確な行動を起こす前の時間を引き延ばす。物語の因果より身振りの反復が前景化し、歴史的な移行は、身体が進路を選びきれずに立ち止まる感覚として現れる。

白黒35mmフィルムが作る、現在と記憶の不安定な距離

ヤンの白黒像は、ノスタルジーを演出するだけの様式から離れている。35mmフィルムの粒子、強い逆光、深い黒、ゆっくりしたカメラ移動は、現代の場面を古い映画の記憶へ近づけながら、複数の映画時代を一つの画面に重ねる。Orientationsの解説は、ヤンがデジタルより35mmフィルムを用いることで、映像に触覚的な質を求めたことを紹介している*8。フィルムは、現在をすでに記憶されたもののように見せ、時間の位置を揺らす。

写真においても、人物は動作の途中や視線のずれの中で止められる。静止画は映画の宣伝用スチルを思わせながら、画面外へ続く出来事だけを予感させる。Tateの作家ページは、ヤンの映画、写真、インスタレーションを同一の実践として収蔵・紹介している*9。彼の写真は映画の副産物として扱われず、時間の一部だけを示すことで前後を想像させる独立した媒体として機能する。

演出と即興 — 完成した脚本より、現場で像を発見する

ヤンの映像は緻密に構成されて見えるが、制作では、固定脚本の再現より、現場で場面を発見する比重が大きい。本人は、まず曖昧な考えから始め、撮影場所と俳優との関係の中で場面を見つけていくと語っている*10。ShanghARTに収録された対話でも、《竹林の七賢》の人物、場所、現代性について、伝説を説明するより、現代の感覚へ開く制作過程が語られている*11

この即興性は、準備された場面の内部で偶然を受け入れる方法として働く。衣装、場所、光、カメラはあらかじめ選ばれるが、俳優の間、視線、風、天候、動作のずれを残す。演出と現実の境界が揺らぐことで、人物には役柄からこぼれる身振りが残る。ヤンは、歴史的人物像を演じる現代の俳優と、その理想像との距離を撮る。古典的理想を知りながら現在の生活との接点を探す知識人の状態が、そこに現れる。

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

《An Estranged Paradise》— 杭州の風景と「小さな知識人」

《An Estranged Paradise》(1997–2002)は、杭州を舞台に、若い知識人・朱子が身体的不調、恋愛、都市生活、風景の間を漂う長編映画である。MoMA Postは、作品を1990年代中国の若い教育層が経験した喪失と疎外の系譜に置き、同時代の中国独立映画との関係を示している*2。西湖は中国絵画や文学の理想的風景として知られる。ヤンの画面では、霧、雨、室内、湖面が主人公の不調と呼応し、世界の輪郭が定まる前の状態を持続させる。

題名の「疎遠な楽園」は、目の前に残る風景と文化的記憶に対して、主人公と風景の間に生じる隔たりを表す。作品が五年間かけて完成した制作史も、撮影時の1990年代と発表時の2000年代を一つの映画に重ねる。Documenta 11での上映は、この個人的で遅い映画を、ポストコロニアルな世界の複数の近代性を扱う国際展へ接続した。EMMAは後に《竹林の七賢》第一部を展示し、古典的な文人像を現代の青年へ移す代表作として紹介した*12

《The General’s Smile》— 宴席、権威、人生の劇場

《The General’s Smile》(2009)は、老将軍を囲む宴会を複数スクリーンで展開し、権威、記憶、老い、祝祭を一つの場に重ねる。原美術館は日本初個展で同作を中心に紹介し、軍の高官を祝う宴を通して人生の普遍性を扱う大規模映像インスタレーションと説明した*13。宴席には明確な筋書きより、乾杯、演奏、踊り、沈黙、老人の表情が繰り返される。複数画面は同じ出来事を別角度から同時に見せ、中心人物の権威を安定させるより、周囲の時間へ分散する。

スクリーンの間を歩くたび、鑑賞者の視点と出来事の順序が変わる。これは映画館の固定座席とは異なり、見る順序と滞在時間が鑑賞者に委ねられる。ヤンのマルチチャンネル作品は、映画を物語の容器から展示空間の環境へ変え、写真の連作を見るように、複数の瞬間を比較させる。ACMIの《Yang Fudong: Filmscapes》は、作品を中国絵画やフィルム・ノワールの伝統と結びつけ、同一場面を複数の視点と断片から構成する映像実践として紹介した*14

《The First Intellectual》— 静止画に前後の時間を発生させる

写真作品《The First Intellectual》(2000)は、負傷して血を流すスーツ姿の青年が、人影の途絶えた都市の路上で煉瓦を構える三連作である。ShanghARTの作品記録では各画面が高さ193センチ、幅127センチのカラー・クロモジェニック・プリントとして制作されている*19。襲撃者と煉瓦の向かう先は画面外に残り、三枚を並べても事件の因果は未完のままである。怒りと無力感が、別々の姿勢として反復される。

この作品は、映画の一場面に見える写真と、映画から切り出したスチルの違いを明確にする。三枚の静止画だけで前後の映像を想定させ、鑑賞者は画面外の出来事を組み立てる。大判プリントによって青年の身体は等身大を超え、社会の転換期に位置を見失った知識人という類型が、個人の傷とためらいを伴う具体的な身体として現れる。ShanghARTの批評文は、この人物を、自分と社会のどちらに問題の原因を求めるか揺れる現代の知識人として論じている*17

《Ms. Huang at M. Last Night》(2006)はParkettのために制作された独立したデジタルプリントで、MoMAは版画・プリント部門の作品として収蔵している*20。ヤンの制作では、写真が映画の副産物になる場合も、映画と同じ舞台や人物から独立した作品へ展開する場合もある。この往復によって、静止画は出来事を完結させる証拠から、人物がどの時代と物語に属するのかを保留する場面へ変わる。

§ 04 / 04 批評と写真史上の位置

美しい映像は、社会批評を弱めるのか

ヤンの作品は、撮影、衣装、俳優、風景が洗練され、美術館や映画祭で「詩的」「夢幻的」と評されやすい。その美しさが、中国社会の政治的・経済的変化を曖昧にし、普遍的な憂愁へ回収するという批判は成り立つ。一方で、ヤンが描く主体は、明確な立場を選びきれずに揺れる姿によって時代を示す。ART iTのインタビューは、ヤンの作品における現実と夢、個人と社会、伝統と現代の往復を本人の言葉からたどっている*15

彼の美しさは現実を覆う装飾であると同時に、古典、映画、広告、ファッションによって主体が自分を想像する条件でもある。人物は美しく構成されながら互いの身体から距離を保ち、視線は外れ、行動は途中で止まる。画面の魅力と物語の中断が、理想的な生活像と現実の隔たりを表す。Kunsthall 3,14の展覧会資料は、ヤンの作品を歴史的記憶と現代の心理的状態が交差する映画的空間として位置づけている*16

中国現代美術における映画的転回

1990年代から2000年代にかけて、中国現代美術では、絵画中心の国際的評価に対して、映像、写真、パフォーマンスが新しい経験を記述する媒体になった。ヤンはその中で映画史の語彙を用い、青年の表情、沈黙、風景、待機によって近代化を表した。ShanghARTの批評文は、《An Estranged Paradise》《竹林の七賢》を「小さな知識人」と現代中国の知識人像をめぐる作品として論じている*17

王慶松(ワン・チンソン)が社会制度を巨大な一枚の舞台に圧縮する一方、ヤンは役割を選びきれずに立ち止まる人物の時間を引き延ばす。両者は演出を用いる。ワンの写真は社会構造を可視化し、ヤンの像はその構造が主体の内側で遅れや躊躇へ変わる過程を扱う。この差異によって、中国の演出写真・映像は、政治的寓意から、時間、記憶、感情の形式へ広がった。

写真史上の位置 — 静止画と動画へ同じ未完の時間を組み込む

映画スチルや物語を示唆する演出写真はヤン以前にも存在した。彼の写真史的な固有性は、中国古典の文人像、民国期映画の視覚、改革開放後の青年を、結末が保留された同じ時間へ組み込んだ点にある。《The First Intellectual》では事件が未決のまま反復され、《竹林の七賢》では五時間の映画を通して共同体の理想が保留される。静止と持続のどちらを選んでも、人物は歴史の中間に留まる。

Documenta 11、ヴェネチア・ビエンナーレ、美術館のマルチスクリーン展示、写真のエディションという複数の制度を横断したことで、ヤンの作品は中国現代美術において、写真と映像を対等に扱い、同じ人物像と時間意識を異なる長さで展開する実践として定着した。MoMAが映画と独立したプリントを同じ作家コレクションに含めることも、この受容を示している*18。彼の仕事は中国映像の全体を代表するというより、社会変化を象徴的な事件や都市景観で示す方法に、人物が判断を保留して過ごす時間そのものを、写真と映像の共通主題として加えた。

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • ワン・チンソン ― 中国の社会変化を巨大な一枚の寓意へ圧縮する同時代作家。ヤンはその変化を人物の遅い時間へ移す。
  • 杉本博司 ― 映画と写真、長時間露光、歴史的時間を横断し、一枚の像に見えない時間を蓄積する。
  • シンディ・シャーマン ― 映画的な人物像を演じ、静止画の前後に架空の物語を発生させた先行例。
Movements / Contexts
  • 中国現代美術 ― 改革開放後の社会変化と国際展の拡大の中で、映像と写真が重要な媒体になった。
  • シネマティック写真 ― 映画の照明、演技、場面構成を用い、物語の余白を残す静止画。
  • マルチチャンネル映像 ― 複数スクリーンに時間と視点を分散し、鑑賞者の移動によって作品を組み立てる展示形式。
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