アイリーン・クインランは、鏡、スモーク、マイラー、カラーフィルター、ヨガマット、シャワーガラス、期限切れポラロイドを使い、スタジオ内で抽象的な写真を制作してきた。初期作品は商品撮影の照明と反射を用いながら、売るべき商品を置かない。後の作品では、浴室、家庭用品、自身の身体、育児によって区切られた時間が撮影方法を決める。彼女の作品におけるフェミニズムは、抽象画面へ後から付ける主題名ではない*20。制作費や広いスタジオへのアクセス、女性の裸体を見る慣習、母親になった作家が確保できる場所と時間が、使用する物、ぼかし、傷、化学処理として画面に残る*21。
抽象写真は光、形、化学作用による自律的な実験として語られ、広告写真は同じ反射や鮮やかな色を商品への欲望へ利用してきた。クインランは商品撮影の鏡、ゲル、フラッシュを使いながら、画面から商品を外した。出産後は、育児の合間に使える浴室、シャワーガラス、自分や友人の身体、期限切れポラロイドを撮影に用いた。抽象的な色面を純粋な造形として切り離さず、広告の技術、女性の身体を見渡す視線、母親になった作家が使える時間と場所が、写真の形をどう決めるかを画面から読めるようにした点に、彼女の位置がある。
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クインランは1972年ボストン生まれ。2005年にコロンビア大学でMFAを取得し、ニューヨークを拠点に活動している。初期には路上や人物も撮影したが、外の世界から被写体を探す方法を離れ、限られたスタジオ内で光、物、反射、フィルムを組み立てるようになった*10。本人は、ファッションと広告の仕事をした経験が《Smoke & Mirrors》に深く関わり、アンパサンドを含む題名もブランド名のように見せるためだったと説明している*20。
2000年代の写真では、デジタル加工とオンライン流通が一般化する一方、写真を透明な窓ではなく、物、化学反応、展示面として捉える動きが強まった。クインランはこの流れの中で、アナログへの回帰を真正性の保証にはしなかった。ICA Bostonが説明するように、彼女の写真は物理的なセットを記録しながら、同時にそのセットを判別しにくい幻影へ変える*2。鏡やフィルムは「真実」を守る材料ではなく、写真が実物の記録と作られた錯覚を同時に生むことを示す材料である*12。
クインラン自身は、作品の主題を「写真そのもの」へ限定せず、物質文化、加齢、死、性、母性、環境、スクリーン、触覚を挙げている*20。これらは並列されたテーマではなく、撮影場所、材料、制作時間を実際に変える要因である。商品写真の照明、家庭にあるヨガマット、浴室、自身の身体、育児で短く区切られた時間が、それぞれ画面の形と制作規模を決める*21。
なぜ商品撮影の技術を使ったのか
《Smoke & Mirrors》では、色ゲル、フラッシュ、鏡、マイラー、布など、商品を魅力的に見せる撮影技術が使われる。画面の中心に商品はなく、反射、色、光沢だけが残る。ICA Bostonはこの写真を「商品を欠いた商品写真」に近いものとして、口紅広告、アルバムカバー、スクリーンセーバー、モダニズム絵画との類似を指摘している*2。広告の技術を捨てずに商品だけを外すことで、鑑賞者は、特定の商品ではなく、光沢や色そのものへ反応していることに気づく*11。
本人は初期作品について、雑誌やレコードジャケット、母と祖母のアーミッシュ・キルト、絵画史、森の影が抽象への関心を作ったと語っている。したがって彼女の抽象は、純粋な内面表現でも、広告批判だけでもない。家庭で受け継がれた手仕事、商業画像、美術館で見た絵画、スタジオの小さなセットが同じ画面へ入る。内的な視覚も外部の世界から作られるという本人の考えが、異なる出自の形や色を混ぜる理由になっている*20。
失敗と傷を残す理由
クインランは期限切れフィルムを使い、ネガを針やボールペンで引っかき、水、砂、海水などへ触れさせ、現像を失敗させる。これは偶然を神秘化するためではない。本人は、材料の失敗を残すことで作者の手が見え、すべての写真が人間の操作によって作られていることが読めると述べている。広告写真では傷や現像ムラが消され、商品だけが自然に魅力的に見える*20。クインランはその除去工程を逆向きにたどり、光沢のある表面に制作の労働と失敗を戻している*16。
小さな汚れ、足跡、しわ、化学的な斑点は、滑らかな色面だけを見る状態を中断する。クインランは、作品がどこで、誰によって、どのように作られたかへ意識を向けたいと語っている*20。ここで写真の物質性とは、紙やフィルムが物であるという一般論ではない。広告やスクリーン画像では除去されやすい傷、現像ムラ、手作業を、完成画面で確認できるようにすることを指す。
《Sophia》《Laura》のフェミニズム
MoMAが《Sophia》と《Laura》をフェミニズムと物質文化から説明するのは、画面の形がヨガマットという具体的な商品と、女性の名前によって作られているからである。《Sophia》では、健康、美容、自己管理に結びつくヨガマットが折られ、壁へ垂らされる。題名はジュディ・シカゴの《The Dinner Party》で顕彰された女性の一人から取られた*1。女性の身体を整える現在の商品に、女性を歴史へ記録する美術作品の名前が重なる。
《Laura》は同じヨガマットを期限切れの白黒ポラロイドで撮影した。像が十分に現れなかったため、クインランはフィルムをスキャンし、デジタルで着色した。題名は『Twin Peaks』のLaura Palmerに由来する*1。身体そのものを写さず、身体を管理する商品と、若い女性の死を中心に進むテレビドラマの名前を組み合わせた。ここでフェミニズムは、女性を象徴する抽象形を探すことではなく、女性の身体が商品、歴史上の名前、大衆文化の物語によってどう見られるかを、素材と題名から具体的に問う方法になっている*20。
母親になった後、浴室がスタジオになった
2014年以降の裸体写真は、新たに母親となり、長時間の外出やスタジオ制作が難しくなった状況から始まった。クインランは浴室をスタジオにし、自分や友人の身体をシャワーガラスへ押し当て、旧式の白黒ポラロイドで撮影した。育児の合間に制作を続けるには、広いスタジオ、モデル、撮影チームを前提としない方法が必要だった*3。ガラスは利用できる身近な撮影面であると同時に、身体の輪郭を潰し、皮膚、反射、現像液を一枚の表面へ重ねる*22。出産後の身体を従来の裸体写真のように明瞭な全身像として差し出さず、制作時間の制約と身体の変化を同じ形式に残した*23。
こうした時間と場所の制約は、作品の外にある私生活として処理されていない。クインランは、母親になったことで狭くなった行動範囲と短く区切られた時間を、浴室という撮影場所、身体をガラスへ押しつける方法、素早く扱えるポラロイドへ反映した*20。後の講演紹介でも、彼女の主題は母性に加え、身体の自己決定、家庭内労働の反復、中年期の身体へ広がっている*23。ここでフェミニズムは作品へ付けられた主題名ではなく、誰がどの場所と時間を制作に使えるのかを、構図、材料、撮影方法に残す考え方になっている*24。
《Smoke & Mirrors》
《Smoke & Mirrors》では、煙と鏡が現実のスタジオ内に置かれ、反射と浅い焦点によって奥行きの判別しにくい像になる。題名は錯覚やごまかしを指す慣用句であると同時に、広告ブランドのような響きを持つ*2。写真はセットの物理的事実を記録しているが、見る者はその事実から空間を再構成できない*4。この二重性によって、写真が「実在した物を写した」という事実と、「見えている空間が真実である」という判断が同じではないことが分かる*5。
《Sophia》《Laura》
《Sophia》と《Laura》では、抽象的な形が女性の身体を直接表す記号として固定されない。折れたヨガマットは商品、布、皮膚、地形のように見え、題名によって別の歴史が呼び込まれる。《Laura》の現像失敗とデジタル着色は、アナログ写真の偶然を保存するだけでなく、テレビドラマの色彩や記憶の不確かさを重ねる。素材、題名、処理の三つが揃うことで、抽象が社会から切り離された色面ではなく、女性の身体をめぐる商品と物語から作られることが具体化される*1。
《Broken Figure》《Dune Woman》
《Broken Figure》や《Attachment》では、身体をシャワーガラスへ押し当て、旧式の白黒ポラロイドの現像液を操作した。身体、ガラス、乳剤が重なり、どの輪郭が皮膚で、どれが反射や化学的なムラかを見分けにくくなる。Art Institute of Chicagoは、このシリーズを母性についての考察とし、身体、ガラス、写真材料の層が見る者の視線を妨げると説明している。裸体を明瞭に見せる写真では、鑑賞者が女性の身体を一つの形として把握しやすい*3。クインランは圧迫されたガラス面と不均一な現像によって、その見渡す視線を止め、母親になった身体を理想化された母性や性的な裸体のどちらにも整理させない*22。
《Dune Woman》では、浴室で始まった裸体写真が、砂、皮膚、フィルム上の化学物質と並べられる。展覧会解説は、家庭内労働の蓄積を砂の侵入にたとえ、新しい母性の限られた時間から作品が生まれたと説明している。ここで家庭は私的な背景にとどまらず、制作を可能にも困難にもする労働環境として表れる*21。
アナログとデジタルを分けない
クインランはアナログ写真をデジタル画像より真正だとは考えていない。期限切れポラロイド、銀塩プリント、スキャン、デジタル着色、UVプリントを作品ごとに使い分ける*9。選択の基準は古い技術を保存することではなく、身体や物が画像へ変換される際に、どの段階で触覚、傷、圧縮、色の変化が起きるかを示せるかどうかにある*10。スクリーン上で滑らかに流れる画像に対し、フィルムの傷やガラスへ押しつけられた身体は、画像の背後に接触と労働があったことを残す*18。
抽象写真を純粋形式として扱わない
写真史の抽象は、光、形、化学作用による媒体固有の実験として評価されてきた。クインランはその造形を引き継ぎながら、同じ色面と反射が広告、雑誌、アルバムカバー、スクリーンセーバーでも人の注意を引くことを示す*2。彼女の写真では、モダニズム絵画を思わせる構成と商品写真の光沢が同じ撮影装置から生まれる*11。抽象写真が社会から独立しているかを一般論で論じる代わりに、どの照明、商品、身体、制作場所が色と形を作ったのかを画面ごとに確認できる*12。
育児、家事、制作時間から見るフェミニズム
クインランのフェミニズムは、ジュディ・シカゴへの参照や女性裸体だけに集約されない。小さな折り畳み机、家庭用品、浴室、自分の身体を使う方法は、制作費、場所、育児時間へのアクセスが作家ごとに異なることを示す*20。彼女は短い制作時間、家事の反復、身体をガラスへ押し当てる圧力を、完成作から消さずに残した*23。大規模なスタジオで作られた抽象写真と同じ外観だけで比較すると見落とされる労働を、撮影場所、傷、ガラス、ポラロイドの失敗から読めるようにした点に批評性がある*24。
なぜ女性の裸体を明瞭に見せないのか
商品写真では商品を、伝統的な裸体写真では身体を、すぐに把握できる形で見せることが求められる。クインランの反射、ぼかし、ガラス、化学的な傷は、見る者が対象を一度に理解することを妨げる*3。特に裸体作品では、皮膚、ガラスの反射、乳剤のムラが重なり、女性の身体を輪郭の閉じた一つの形として見渡しにくい*5。この不明瞭さは装飾ではなく、身体を鑑賞や所有の対象として素早く処理する視線へ抵抗する具体的な撮影方法である*20。
クインランの写真史上の位置は、アナログ技法を復活させたことにあるのではない*1。彼女は、モダニズム写真の抽象、広告撮影の誘惑、女性裸体の鑑賞形式、母親になった作家が使える時間と場所を、一枚の写真の構図や材料を決める要因として扱った*10。ヨガマット、シャワーガラス、浴室、家事と育児に区切られる時間までが、構図、撮影距離、現像方法を決める*22。抽象画面を作家の内面や媒体の純粋性だけから説明する代わりに、誰の身体と労働がその色と形を生んだのかを問える写真を提示した*24。
初期の《Smoke & Mirrors》はMoMAとSFMOMAのコレクションに入り、スタジオ内で作られた抽象写真として早くから受容された*6。SFMOMAの所蔵記録も、この時期の作品を写真コレクションの中で公開している*7。写真集刊行を紹介したFriezeの記録は、初期シリーズから後の裸体までを同じ制作史としてたどる*8。《The Waves》では、写真をスクリーンや展示空間と組み合わせ、画面上の反射を展示面へ拡張した*9。
その後の《Good Enough》は、完全な仕上がりを価値とする写真から距離を取り、失敗や即応的な制作を肯定する題名を掲げた*13。《Too Much》では、物、色、身体が過剰に重なる画面を展開した*14。同展の批評は、表面の魅力と身体的な圧力が同居する点を論じている*15。《Mind Craft》は、手作業、知覚、写真材料の関係を展覧会全体へ広げた*16。Contemporary Art Libraryの記録では、作品の規模と壁面での配置を確認できる*17。同展のレビューは、抽象写真を触覚と身体の問題として読んでいる*18。Modern Art Museum of Fort Worthの講演は、初期のスタジオ抽象から母性と身体へ至る変化を本人の言葉で確認できる資料である*19。
- サラ・ヴァンダービーク ― スタジオに一時的な構築物を作り、写真を物と美術史的イメージの残存記録として扱う同世代の作家。
- ルーカス・ブレイロック ― デジタル加工の痕跡を隠さず、画像制作の労働を見せる作家。クインランは同じ問いをフィルム、傷、化学処理から扱う。
- ケイト・ステシウ ― インターネット画像を切断・再配置し、画像と商品流通の関係を扱う作家。クインランの広告的抽象と比較できる。
- シャノン・エブナー ― 文字、物、撮影条件を通じて、写真が意味を作る物質的な過程を検討する作家。
- アーティ・ヴィアカント ― オンライン画像と展示物の変換を扱う作家。クインランのアナログ/デジタル混成と同時代的な位置を共有する。
- 抽象写真 ― 被写体の説明より、光、形、色、乳剤の働きを前面に出す写真。クインランはその純粋性を広告と身体から問い直す。
- コンセプチュアルアート ― 完成した像だけでなく、撮影手順、材料、展示、見る制度を作品の問題とする流れ。
- フェミニズム写真 ― 女性の身体の見せ方と、制作時間、空間、資金を誰が持てるのかを問う写真実践。
- ポストインターネット ― スクリーン上の画像と物としてのプリントが往復する環境。クインランは触覚と化学的痕跡から応答する。