須田一政は、東京の路地、地方の祭礼、通行人、看板や植物を、ローライフレックスの6×6判で撮った写真家である。1968年前後、プロヴォークはアレ・ブレ・ボケによって報道・広告写真の明快さを攻撃し、コンポラ写真は事件から日常へ題材を移した。須田は両者への共感を「全く関係ない」と否定した。〈風姿花伝〉、『わが東京100』、『人間の記憶』を通して、運動の理念より撮影時の反応を優先した理由と、精密な正方形が日常の場面を説明のつかない像へ変える仕組みをたどる。
須田は、同時代の路上写真に「鮮明に写っているのに、何が起きているのかは決められない」画面を定着させた。6×6判は顔、衣服、文字、植物を細部まで記録するが、正方形の縁が出来事の前後を切り、人物と物を同じ強さで並べる。プロヴォークが粒子、ブレ、強いコントラストで写真の透明性を壊したのに対し、須田は描写を崩さず、状況を説明する手掛かりを画面の外へ残した。
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写真集から学んだ構成と、恐山への旅
須田一政は東京・神田に生まれ、1962年に東京綜合写真専門学校を卒業した。東京都写真美術館のインタビューでは、自分は「撮るよりも見るほうから写真に入った」と振り返り、ウィリアム・クライン、リチャード・アヴェドン、アーヴィング・ペンの写真集を洋書店で見続けたと話している。ペンの静物写真をまねた際には、被写体をそろえても構成と色彩を再現できず、画面の成立が対象そのものとは別の問題だと知った*3。写真学校在学中には濱谷浩の『裏日本』に触発されて雪国へ向かい、1963年に〈恐山〉で『日本カメラ』月例年度賞を受けた*1。写真を見る経験と、知らない土地を歩く経験が、初期の二つの基盤となった。
天井桟敷の前衛と、写真運動から距離を置いた制作
1967年から1970年まで、須田は寺山修司が主宰した演劇実験室・天井桟敷の専属カメラマンを務めた*1。演劇、ポスター、映画、衣装が交差する現場には、横尾忠則、宇野亜喜良らが参加していた。写真史家フェルディナント・ブリュッゲマンは、天井桟敷を1960年代の前衛文化を結ぶネットワークとして捉え、須田の仕事を伝統と近代が同時に存在する戦後日本の文化状況へ置いている*9。ただし須田自身が天井桟敷から路上写真の理論を導いたわけではない。彼が後年に強調したのは、寺山の思想の継承より、制作へ向かう現場の熱気だった*3。
1968年の写真史――報道の危機、プロヴォーク、コンポラ
1968年前後、日本の写真界では、写真が現実を客観的に伝えるという前提が複数の方向から問い直された。東京都写真美術館は、学生運動の記録、「写真100年」展、『カメラ毎日』のコンポラ写真特集、『プロヴォーク―思想のための挑発的資料』創刊が同じ年に重なったことを、写真史の枠組みが再検討された状況として整理している*5。プロヴォークは粒子、ブレ、ピントの不安定さ、強いコントラストを用い、整然とした報道写真と商業写真の言語に対抗した*6。コンポラ写真は統一した宣言を持つ運動というより、事件や英雄から離れ、室内、路地、家族、無名の通行人を低い温度で撮る傾向を編集と批評が名づけたものだった*7。
「全く関係ないです」――共感の否定が示す制作の順序
2014年、プロヴォーク、コンポラ、政治運動に共感したことがあるかと問われた須田は、「全く関係ないです」と答え、自分の写真は自身の興味にだけ関係すると述べた*4。別のインタビューでも、評論によって作風を固定されると次の被写体への「ときめき」が失われるため、評論に「からめとられたらダメ」だと話している*3。この二つの発言は、社会や写真史への無関心よりも、撮影前に運動の理念や作品の意味を決めることへの拒否を示している。須田が撮影の起点として説明したのは、物を少し違う角度から見たときに現れる「ぎょっとするような表面」だった*3。
発表媒体と完成した画像を比較すると、須田と同時代の写真との関係が具体化する。須田の作品は『カメラ毎日』『日本カメラ』に掲載され、プロヴォークやコンポラをめぐる議論と同じ雑誌文化の中で読まれた。Mougins写真センターは、ブレ、粒子、激しいコントラストを用いたプロヴォークに対し、須田がローライフレックスの正方形へ対象を精密に収め、露骨なグラフィック効果を避けた点を対照させている*8。ブリュッゲマンも、その緻密な観察と静止した緊張を、プロヴォークの攻撃的な画像とは異なる応答として論じている*9。須田は通行人や路地という同時代的な題材を共有しながら、像を荒らさず、出来事の前後と人物の目的をフレーム外へ置いた。
繰り返し歩いた場所で、反射的に撮る
須田は常にカメラを携え、歩行中に反射的にシャッターを切った。FUJIFILM SQUAREはこの姿を「カメラを持った二本の足」と表現している*11。ただし、未知の土地で同じように撮れたわけではない。釜ヶ崎の取材では、知らない場所に慣れないまま撮る難しさを語り、普段撮っていた東京の下町には何度も通っていたと説明している*4。短い撮影の前には、道の幅、人の距離、光の向き、街の速度を身体で覚える時間があった。反射的な撮影では、意味のある事件を待たず、顔の向き、腕、看板、鉢植え、路面が一時的に一つの配置を作ったところで画面を閉じた。
6×6判の精密さ――細部は読めても、状況は確定しない
1970年代の代表作で須田が多用したのは、ローライフレックスによる6×6判である。JCIIフォトサロンは〈風姿花伝〉を、正方形の画面、大胆なトリミング、緻密な白黒描写を特徴とする作品として紹介している*10。横長画面のような強い進行方向を持たない正方形では、人物、文字、植物、路面が同じ面積の中でぶつかる。顔の皺や衣服の柄は判別できるが、画面端で切られた身体や視線の先は復元できない。プロヴォークが画像自体を不安定にしたのに対し、須田の写真では画像の表面は鮮明なまま、状況の説明だけが不足する。
Mouginsの展覧会資料は、須田が祭りの頂点を外し、出来事の直前または直後のような瞬間を選び、正確な構図の中に緊張を生じさせたと説明している*8。踊り手は動作の途中で止まり、子どもは画面外を見つめ、道端の物が人物と同じ強さで置かれる。ここにあるのは「異界」という抽象的な主題より、タイミング、距離、切断によって、日常の因果を読み取れなくする具体的な操作である。
カラー作品でも続いた、名所から外れる視線
1982年から1986年に撮影された〈日本の風景・都市の周縁〉は、6×6判のカラーポジ作品である。須田は当時、旅先の名所や美しい景色より、その周囲のありふれた場面に足を止めたと書き、有名な景観を「光」とすれば、自分が拾う像は同じ表面に落ちる日常の「影」だと述べた*11。色が加わっても、観光地の全景を避け、塗装、衣服、看板、人工光が作る局所的な配置を撮る方法は変わらない。須田の形式は、白黒の暗さや粒子ではなく、歩行、正方形、画面外への切断に支えられていた。
『風姿花伝』――雑誌連載、1978年版、2012年完全版
〈風姿花伝〉は1975年12月から1977年12月まで『カメラ毎日』に八つのポートフォリオとして掲載され、1978年に朝日ソノラマから写真集となった。須田が選んだ138点のうち初版には100点が収録され、全138点は2012年に刊行された*8。誌面、初版、完全版では点数と順序が異なるため、同じ写真群は、媒体ごとに点数と順序を変えた複数の形で残っている。公式ギャラリーでは、祭礼、子ども、路上、植物、看板が正方形の画面で連続する構成を確認できる*14。
題名は世阿弥の能楽論書『風姿花伝』から取られた。須田は、世阿弥の本には写真を撮る心構えから撮り方まで書かれていると述べ、被写体は借りもので、写真には撮影者自身が写ると考えていた*10。祭礼の民族誌的説明を目的とせず、演者、観客、路上の物を、自分が反応した瞬間の形として撮る姿勢に題名の意味がある。
『わが東京100』――下町の人物と周囲の物
『須田一政・わが東京100』は1979年に刊行され、1976年から1978年に撮られた東京の下町を100点で構成した*2。建築の全景より、路地、消防訓練、盛り場、通行人、店先の物が多い。2013年版は初版と同じ写真群を使いながら順序を変更し、99点を収録した*16。shashashaの書誌解説も、同書を東京の建築や街路そのものより、周囲の環境に置かれた住民の肖像を中心とする写真集として整理している*18。版の違いから確認できるのは、写真集の隣接関係が固定されていないこと、人物の視線や影、白く光る物が、異なる場所の写真と組み合わされるたびに別の対応を作ることである。
『人間の記憶』――年代を混ぜ、都市の個人を並べる
〈物草拾遺〉は1980年に『日本カメラ』で発表され、祭礼を主題にせず、人物、動物、看板、植物、室内外の断片を圧縮した*15。1996年の写真集『人間の記憶』は複数の年代と地域の写真を年代順から外して収録し、翌年に土門拳賞を受けた*2。ブリュッゲマンは、〈風姿花伝〉の集団や祭礼に対し、『人間の記憶』では都市に単独で立つ人物が増えたと指摘し、人口集中と共同体の変化を背景に挙げている*9。この批評は須田の社会理論を代弁するものではないが、祭礼の集団から都市の個人へ移る被写体の差を、戦後日本の都市化と結びつけて読む根拠を示している。
「異界」を、角度、距離、切断、タイミングへ戻す
須田の作品は「日常の裂け目」「ハレとケ」「妖しさ」といった語で説明されてきた。東京都写真美術館の2013年展も、現実から別の空間をのぞくような表現として作品を紹介している*12。一方、須田は作風を一つの評価へ固定されることに抵抗し、民俗的な闇を意図して撮ったという理解からも距離を置いた*3。祭礼の踊り手も東京の通行人も、正方形の中では看板、鉢植え、壁、影と同じ密度で置かれる。作品の奇妙さは、日本固有の精神性を仮定しなくても、撮影角度、被写体との距離、身体の切断、シャッターの時点から説明できる。
無許可のスナップが含む、撮影者と被写体の非対称性
反射的なスナップには、撮影者だけが画面を決定する非対称性がある。Conscientious Photography Magazineは、須田が回顧展図録のインタビューで、人物を許可なく反射的に撮り、その行為が無礼になり得ると認めていたことを紹介している*13。後年の釜ヶ崎では住民の警戒に直面し、モデルを置いて周囲の視線をそらす方法を採用した*4。この変化は、須田のスナップを無条件に「写真家の眼」と称賛せず、撮影場所の慣習、被写体の警戒、同意の有無を含む方法として読む必要を示す。
プロヴォークの弱い変種ではない、1970年代の別の路上写真
須田は国内で早くから受賞と展覧会を重ねたが、西欧での認知は森山大道、荒木経惟らより遅れた。Conscientious Photography Magazineは、西欧で紹介される日本写真が少数の著名作家と「日本的な異質さ」を強調する企画へ偏り、須田をまとまった作品群として見る機会が限られたと論じている*13。プロヴォークは雑誌、宣言、アレ・ブレ・ボケという説明しやすいまとまりを持つ。須田は運動への共感を否定し、雑誌連載、写真集、展覧会ごとに写真の選択と順序を変えたため、一つの標語に収まりにくかった。
須田とプロヴォークを直接の影響関係で結ぶより、1968年以後に写真の記録性が問い直された同じ時代への別々の応答として比較するほうが正確である。プロヴォークは荒れた像によって、写真が現実を透明に伝えるという期待を攻撃した。須田は対象を精密に写しながら、出来事の因果、人物の目的、前後の時間を画面へ入れなかった。コンポラ写真とは日常的な題材を共有するが、平板な観察より、正方形の中で人物と物が衝突する瞬間を選んだ。像を壊す、日常を低い温度で観察する、細部を明瞭にしながら説明を欠かせる――1970年代日本写真には、同じ危機へ向けた複数の形式が並行して存在した。須田の位置は、その第三の方法にある。
須田の海外紹介は、2020年代に初めて始まったわけではない。SFMOMAの展覧会史研究によれば、須田は1979年にニューヨークのICPで開かれた「Japan: A Self-Portrait」に参加し、東松照明、森山大道、深瀬昌久、石内都らとともに紹介された*17。一方、アントワープのFOMUは2021年の「My Japan」を、日本国外で初めて須田の約60年の仕事を通観する回顧展と位置づけた*19。早い時期の群展参加と、作家全体を示す回顧展までの長い間隔は、個々の作品が海外へ渡っても、雑誌連載、写真集、カラー作品を含む仕事の全体像が共有されるまでには時間を要したことを示している。
2020年の写真集『78』は、遺族が保管していた約500点のプリントから、1971年から1983年までの未発表作78点を選んだ死後最初の刊行物である。British Journal of Photographyはこの刊行を紹介する際、須田が森山大道や中平卓馬などプロヴォーク期の作家に比べ、西欧で受けた注目が少なかったと記している*20。後年の写真集と回顧展は、須田をプロヴォークの周辺作家として補うより、精密な正方形、東京の下町、地方の祭礼、カラーの都市風景までを持つ別の系譜として示した。