産業都市グラスゴーの旧市街、取り壊し直前の密集路地を市の委嘱で系統的に記録した写真家。改善政策の記録として依頼された写真が、都市貧困の証言として再評価される逆説的な位置にあり、ドキュメンタリー写真の前史として頻繁に参照される。
市の改善行政から依頼された取り壊し前記録という制度的な文脈のなかで、グラスゴー旧市街の密集路地を系統的なアーカイブとして組織した。感情的な告発とは一線を画する静謐で構造的な視線は、都市空間を改善の対象として把握しながら同時にその物質的な重みを保存するという二重性をもち、行政記録が都市貧困の証言へと読み替えられる逆説的な位置に置かれることになった。この仕事は、写真が制度と結びつきながらも記録自体が制度の意図を超えてゆく可能性を、ドキュメンタリー写真の前史として開いている。
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トーマス・アナンは1829年にスコットランドのクロマーティに生まれ、グラスゴーで写真家として活動を始めた。建築・人物・都市景観など多岐にわたる撮影を行うかたわら、グラスゴー大聖堂のステンドグラスの写真記録など、出版・複製に関わる仕事も手がけた。*1 1868年、グラスゴー改善トラストから旧市街の再開発にあたる地区の撮影を委嘱され、のちに《The Old Closes and Streets of Glasgow》として結実する一連の写真を制作した。*2 Gettyの展覧会記述はアナンを、「産業都市の社会的景観と建築環境を25年以上にわたって撮影した写真家」として位置づけており、彼の仕事が旧市街記録に限られないことを示している。*3 1887年にグラスゴーで没した。
旧市街記録の文脈
アナンの《Old Closes》を理解する上で不可欠なのは、依頼者が市の改善行政であり、写真が都市再開発のための行政資料として制作されたという点である。Glasgow Improvement Act(1866年)は、コレラや腸チフスが繰り返し流行した旧市街のクローズ(密集路地)を系統的に取り壊す計画を推進しており、アナンの写真はその取り壊し直前の記録として位置づけられる。*4 OAPENに収録された学術書《Thomas Annan of Glasgow: Pioneer of the Documentary Photograph》は、アナンを単なる地方写真師ではなく、都市環境の変化を長期的に記録した写真家として論じており、《Old Closes》を都市ドキュメンタリーの先駆として位置づけている。*5 National Library of Scotlandの展示は、アナンの写真と写真集の文化的位置を「スコットランドとフォトブック」という文脈で整理しており、出版メディアを通じた流通の重要性を示している。*6
「告発と保存」の二重性
アナンの写真の特質は、社会改革写真の感情的告発とは一線を画する、静謐で構造的な視線にある。RISD Museumが所蔵する《Close No. 37 High Street》の作品解説は、暗い路地の撮影に湿板技法が必要だったこと、そしてそれが取り壊し前の都市改善計画と結びついていたことを明示している。*7 アナンの写真には確かに都市貧困の物質的現実が映っているが、フレーミングの静けさと空間の密度の扱いは、単純なジャーナリズムやセンセーショナリズムとは異なる。*8 むしろ彼の写真は、都市を改善対象として把握しつつ、その空間の重みを視覚的に保存する二重の性格をもっている。National Galleries of Scotlandのアナン特集記事は、「グラスゴーにおいて継続的な意義をもつ最も著名な仕事として《Old Closes and Streets of Glasgow》」を位置づけており、この二重性が評価の核心にあることを示している。*9
建築・出版・都市記録の横断
アナンは「貧民街の写真家」だけでなく、建築・出版・版画的複製の問題とも強く結びつく。グラスゴー大聖堂のステンドグラス記録、都市景観、各種出版物に関わる資料は、彼を十九世紀の都市と建築を広く可視化する実務的かつ美学的な写真家として示している。*10 Glasgow Librariesのアーカイブ目録(Annan Collection Loose Prints)は、彼の遺した資料群が写真だけでなく、建築・版画・出版実践に関わる広範な資料を含むことを示している。*11 Journal of Urban Historyに掲載された「アナンのグラスゴーを歩く」は、彼の写真を都市史の視点から分析しており、街路名・建物・空間の変化の追跡という学術的な用途でも参照され続けていることを示す。*12 High Museum of Artが所蔵する《Close #29 Gallowgate》など、個別のクローズ写真は北米の主要美術館にも収蔵されており、国際的な写真史への定着を示している。*13
アナンの後年の評価は、《Old Closes and Streets of Glasgow》を都市改造・貧困・出版写真の初期ドキュメントとして読み直す方向に集中している。Gettyの展覧会「Thomas Annan: Photographer of Glasgow」は、この仕事を包括的に再評価する重要な機会となった。*14 Met、MoMA、LACMA、Rijksmuseumなどの所蔵レコードが示すように、このシリーズは写真集・版画的複製・美術館コレクションの文脈でも国際的に流通している。*15 Rijksmuseumが所蔵する《The Slums of Glasgow》は、このタイトルそのものが後世の再解釈を示しており、行政記録として依頼された写真が都市貧困の証言として受容されていることを示す。*16 Art Institute of Chicagoも《The Old Closes & Streets of Glasgow》を所蔵しており、北米での継続的な評価を示す。*17 Rijksmuseum Bulletinは《Old Closes》をめぐる論考を掲載しており、この写真集が美術史・写真史の双方で継続的に論じられていることを示す。*18 Getty Museum Store が展覧会に合わせて刊行した《Thomas Annan: Photographer of Glasgow》出版物は、学術的再評価の集約点として位置づけられる。*19 National Galleries of Scotlandの最新Biennial Reviewは、アナン作品の新規収蔵を記録しており、スコットランドにおけるコレクションの充実が続いていることを示す。*20 Saint Louis Art Museumが所蔵する《Close, No. 75 High Street (Glasgow)》は、個別の路地写真が各地の美術館に分散収蔵されている状況を示している。*21 写真史的には、アナンはアジェの前史としてだけでなく、ジェイコブ・リースやエドワード・マイブリッジとは異なる角度で、都市空間を写真のアーカイブへと変換した先駆として理解できる。*22
- ジェイコブ・リース ― 同時期にニューヨークのスラムを写真・文章・講演で可視化した実践者であり、アナンとは異なる文脈で都市貧困の記録が社会的証言へと転用される過程を共有する。
- エドワード・マイブリッジ ― 同じ時代に活動しながら、都市の社会的空間ではなく運動や自然の記録へと向かった、異なる角度から都市と写真の関係を照射する対照例。
- 社会ドキュメンタリー ― アナンの《Old Closes》は、行政記録として依頼された写真が社会的証言として再解釈されるドキュメンタリーの逆説的な先行形態として位置づけられる。
- ドキュメンタリー ― 都市空間を系統的にアーカイブ化する方法は、後世のドキュメンタリー写真の参照点として機能し続けている。
都市貧困の記録がそのまま社会の証言へ変わる原点。