ダイアン・アーバスDiane Arbus

ダイアン・アーバスは、戦後アメリカの人物写真を、社会の説明ではなく「見る側と見られる側の関係」を露出させる場へ押し広げた写真家。正面性の強い肖像、雑誌仕事、New Documents、死後の写真集と展示を通じて、普通/異質、親密さ/暴力性、記録/演技の境界を問い続けた。街路、室内、見世物小屋、家族写真の形式に現れる身振りをとらえ、写真が人物を写すだけでなく、鑑賞者の視線そのものを試す媒体であることを示した。

基本情報
生没年 1923–1971

解説

経歴

ダイアン・アーバスはニューヨークに生まれ、夫アラン・アーバスとの商業写真の仕事を経て、自身の関心を中心にした人物写真へ移っていった。ICPは、彼女がアランとのファッション撮影でスタイリストとして働きながら写真への関心を深め、1955年から1957年にかけてリゼット・モデルに学び、自分自身のプロジェクトへ向かうよう促されたと整理している*1。Fraenkel Galleryは、アーバスがベレニス・アボット、アレクセイ・ブロドヴィッチ、リゼット・モデルに学び、1960年代初頭から雑誌上で作品を発表し、1963年と1966年にグッゲンハイム・フェローシップを受けたことを記している*2。この転換の背景には、単にファッション写真への反発だけでなく、モデルの授業で重視された「決まった規則や型を当てはめず、自分が強く惹かれる主題を探す」という考え方があった。National Gallery of Canadaは、モデルが学生に独自のスタイルを育てるよう促し、情熱を持てる題材を探すことを教えたと整理し、その教えを受けたアーバスの写真には、人格の演技と、そこからこぼれる自己の現れへの関心が反映されていると説明している*16。アーバスが見世物小屋、異性装の人物、ヌーディストキャンプ、子どもや家族に向かったのも、珍しい対象を集めるためだけではなかった。Metropolitan Museum of Artは、アーバスが「自分が撮らなければ誰も見ないものがある」と考えていたことを紹介し、彼女の初期作品を、世界の隠れた秘密へ向かう視線として位置づけている*22。この関心は、社会の外側にいる人を見世物として集める趣味というより、普通の生活が隠している恐れ、役割、身体の差異、自己演出が、ある人物の姿の中で避けようなく現れる瞬間へ向かうものだった。

この方法は、戦後写真の大きな語りが変わっていく流れの中で理解できる。1955年のMoMA「The Family of Man」は、世界中の写真を集め、戦後の国際的連帯と人間経験の普遍性を語る大規模なフォトエッセイとして構成された*28。そこでは、写真は国籍や階層の違いを越えて、人間に共通する誕生、愛、労働、死といった経験を結びつける媒体として働いていた。ところが1950年代末から60年代にかけて、都市生活やメディア環境が変化する中で、写真が「社会全体」や「人間一般」を一つの物語として代表することは難しくなっていく。Metropolitan Museum of Artは、この時期のアメリカ写真について、1950年代末から60年代初頭にかけてドキュメンタリーの伝統が再び作り替えられ、1940年代から50年代初頭に現れた主観的な流れが、ウィノグランド、アーバス、フリードランダーらの世界の見方を通す"万華鏡"になったと整理している*29。ここで「個人的」と呼ばれているのは、社会から目をそらして作家の内側だけを写す態度ではない。社会を一枚のわかりやすい物語としてまとめにくくなった時代に、写真家がどの街角に立ち、誰の表情に引き寄せられ、どの瞬間を残すかという選択そのものが、社会の見え方を形づくるようになったということである。MoMAは「New Documents」について、アーバス、リー・フリードランダー、ギャリー・ウィノグランドが、1930〜40年代の説得的・改革的な先行世代とは異なり、ドキュメンタリー写真の技術と美学をより個人的な目的へ向け直し、その目的は生活を改革することではなく、生活を知ることだったと説明している*4。モデルの授業での「規則や型を当てはめない」という教えは、この時代の変化を教育の場で具体化するものでもあった。上手な構図や既成の主題を身につけるのではなく、写真家が自分だけ強く反応してしまう対象を探し、その反応を批評の場で鍛えることが、社会を単純に代弁しないドキュメンタリーの方法として受け止められていたのである*16

ここで重要なのは、彼女がファッション写真から単に「芸術写真」へ移ったのではなく、雑誌という依頼、街での出会い、被写体との会話、美術館での展示、写真集での編集が重なり合う場所で、人物写真のあり方を組み替えていった点である。『Magazine Work』の紹介文は、雑誌がアーバスに生活の手段だけでなく、仕事を見せる場、人々や出来事へ近づく機会、写真家として自分を考える機会を与えたと説明している*3。1972年のMoMA回顧展ウォールラベルでジョン・シャーカフスキーは、アーバスは理論家ではなく写真を作る作家であり、彼女が写真の偶然性と精密な意図の両方を理解していたと述べている*17。そのためアーバスの経歴は、商業写真を捨てて純粋な個人表現へ進んだ物語としてではなく、雑誌文化、都市生活、個人的な関心、美術館制度が交差する戦後ニューヨークの中で読まれる必要がある。

表現解説

正面から見ることの形式

アーバスの写真を特徴づけるのは、被写体を遠くから分類する視線ではなく、カメラの前に立つ人物と見る者をほとんど同じ高さに置く正面性である。ICPは、彼女がフラッシュを用い、被写体の顔に対してカメラを直接向け、被写体がカメラを見返すため、その写真がしばしば対峙的に見えると説明している*1。この正面性は、人物を「社会の状態を説明する証拠」として扱ってきた改革的ドキュメンタリーの見方から、人物が撮られる場面そのものへ視点を移す。1930〜40年代の社会派ドキュメンタリーでは、貧困、労働、住宅、都市の荒廃などを伝えるために人物が写され、表情や身体はしばしば社会問題を読ませる手がかりとして働いた。MoMAは「New Documents」について、そうした改革的なドキュメンタリーが持っていた社会的目的から、より個人的な目的へ写真の技術と美学を向け直した展覧会として説明している*4。アーバスの場合、その「個人的な目的」は、被写体を社会の外側にいる珍しい人として発見することではなく、カメラを向けられた人物が、こちらを見返しながら自分をどう保つかを画面に残すことだった。まっすぐ見返す目、固まった笑い、誇らしげな衣装、居間の中での立ち位置、身体を隠す手つきや逆に見せようとする姿勢までが、社会的な説明に回収される前の、撮影の場で起きている反応として現れる。

National Galleries of Scotlandは《Puerto Rican woman with a beauty mark, N.Y.C. 1965》を、MoMAの1967年「New Documents」展に含まれた、アーバスの対峙的なポートレートの典型例としている*6。同じく《Child with a toy hand grenade in Central Park, N.Y.C., 1962》では、子どもは単なる無邪気さの象徴としてではなく、遊び、苛立ち、ポーズ、暴力の気配が重なった存在として写される。National Galleries of Scotlandは、この作品について、コンタクトシートにはより普通に笑う少年の写真もあるが、アーバスが選んだのは不自然な姿勢と表情を示す一枚だったと説明している*7。この選択は、写真が現実をそのまま運んでくるのではなく、どの瞬間を選び、どの距離で提示するかによって、人物の意味を変えてしまう媒体であることを見せている。スクエア・フォーマットも、この正面性を強める重要な形式だった。SFMOMAは、アーバスが1962年に採用したスクエア・フォーマットが、のちに彼女の写真とすぐ結びつけられ、広く模倣される外観になったと説明している*18。メトロポリタン美術館も、《Child with a toy hand grenade》を、35mmカメラから2¼インチ判のローライフレックスへ移ったことを示す作品として位置づけ、この形式が以後の仕事の特徴であり続けたと説明している*22。横長や縦長の画面が周囲の状況を説明しやすいのに対し、正方形の画面では人物が中央に留まり、余白や背景へ逃げにくい。アーバスのスクエア・フォーマットは、被写体を記録の一部として流すのではなく、見る者の前に止め、目線や身振りの小さな違和感を長く見させるための構造になった。アーバスの正面性は、被写体を安定した「人物像」にまとめる形式ではなく、見ることそのものの不安定さを露出させる形式だった。

「普通」と「異質」の境界が揺れる場所

アーバスはしばしば「周縁」の人物を撮った写真家として説明されるが、そこで本当に変わったのは、撮られる対象の範囲だけではない。彼女は、ドキュメンタリー写真が社会的な類型や出来事を説明するために人物を使うのではなく、人物の姿を通して、普通に見える生活の中に潜む演技、緊張、孤立、親密さを見せる方向へ動かした。彼女の画面では、社会的に異質とされてきた人々だけが奇妙なのではなく、家族写真、子どもの記念写真、室内の集合写真、休日のポートレートといった普通の形式そのものが、少しずつ不安定になる。Zander Galerieは、アーバスが周縁の人々だけでなく「普通」とされる人々も撮り、その写真が仮面のひび割れを見せると説明している*19。《A Jewish giant at home with his parents in the Bronx, N.Y., 1970》について、Princeton University Art Museumは、エディ・カーメルを写したこの写真が、共感的な肖像として称賛される一方で、のぞき見的な搾取として批判されてもきたアーバス作品の論点を示すと説明している*8。The Jewish Museumは、カーメルがタイムズスクエアのHubert's Dime Museum and Flea Circusで「世界一背の高い男」として知られ、1970年に両親と暮らすブロンクスの家で撮影されたことを記録している*9。つまりこの写真は、見世物小屋の人物を家庭の中へ移すだけでなく、家庭という親密な空間の中にも、身体、親子関係、見られることの重さが入り込むことを示している。《A family one evening in a nudist camp, Pa., 1965》でも、裸であること自体より、家族が当然のようにそこに並ぶ構図、室内の家具や灯り、鑑賞者の視線が一つの画面で衝突する*10。《Identical twins, Roselle, N.J., 1966》は、同じ服装と正面性によって「同一性」を強調しながら、表情や身体のわずかな違いを逆に目立たせる*11。アーバスの人物写真は、特定の人々を「異常」として提示するよりも、普通に見えるものと異質に見えるものの境界が、写真の前でどれほど簡単に入れ替わるかを示した。

ザンダーとの距離、類型から出会いへ

アーバスの表現の核心は、アウグスト・ザンダーのような肖像の系譜と比較すると、よりはっきりする。MoMAの1972年ウォールラベルは、アーバスが自分の仕事を養った先行者として、ザンダー、ブラッサイ、ウィージー、ビル・ブラントらを重視していたと記している*17。ザンダーの名前は、アーバスをそのまま後継者として位置づけるためではなく、肖像が社会をどう読むかという問いの違いを見せるために重要である。Fraenkel Galleryは、ザンダー、リゼット・モデル、アーバスを並べた展覧会で、アーバスがザンダーから大きな影響を受け、モデルに学んだことを確認しつつ、彼女が「普通の人々」の中にも、社会的に逸脱と見なされる人々の中にも、生活様式や人格の落ち着かない奇妙さを見いだしたと説明している*23。ザンダーの肖像が、職業、階層、服装、姿勢を通じて社会の構造を読み取るための整理された図鑑に近いとすれば、アーバスの肖像では、分類名よりも、撮られる人がその場で取る態度が前に出る。Fraenkel Galleryは、アーバスの肖像について、被写体と写真家が互いに真実と受け入れをどこまで賭けるかを測るものでもあると説明している*23。ここで起きているのは、写真家が一方的に人物を暴く場面ではない。被写体はカメラを見返し、笑う、こわばる、衣装や部屋を自分の一部として差し出す、あるいは正面に立ちながら表情だけを閉じる。写真家もまた、その反応を待ち、選び、どの一枚を残すかによって、被写体の自己提示と防御を一つの画面に固定する。たとえば、同じ服を着た双子は「同一性」の標本のように立つが、口元、目の力、肩の角度の差によって、同じであること自体が不安定に見えてくる。エディ・カーメルは「巨人」として分類されうる人物でありながら、両親の居間に立つことで、見世物、家族、身体、親密さのどれにも完全には収まらない存在になる。アーバスが変えたのは、肖像を社会の標本として集める方法ではなく、撮られる人がカメラの前で自分を見せる力と、見られることから身を守る力を同時に写した点だった。

展示・出版

New Documentsから写真集としてのアーバスへ

1967年のMoMA「New Documents」展は、アーバスを写真史の中で語るうえで避けられない節点である。この展覧会は、アーバス、リー・フリードランダーギャリー・ウィノグランドという、当時はまだ若く十分には知られていなかった三人を取り上げ、近代写真に長く影響を与えた展示としてMoMA自身が位置づけている*4。ジョン・シャーカフスキーは、彼らが1930〜40年代の改革的なドキュメンタリーとは異なる目的へドキュメンタリー写真の技術と美学を向けたと説明したが、ここで重要なのは、社会問題を告発するかどうかよりも、写真家自身が現実とどのように出会うかが作品の中心へ移ったことである。その中でアーバスの写真は、貧困や労働の状況を説明するために人物を撮るのではなく、人物がカメラを意識したときに生じる表情、沈黙、作り笑い、こわばり、誇示を、ドキュメンタリー写真の主題にした。つまり彼女の写真は、社会の外側にある事実を伝えるだけでなく、被写体と写真家と鑑賞者のあいだで、何が見えることになり、何が見えないまま残るのかを問う形式になった。

アーバスの場合、その移動は街頭の偶然だけでなく、撮影前後の接触、雑誌での発表、美術館での展示、写真集での再編集を通じて進んだ。1971年に取り組まれていた《A box of ten photographs》は、死後の評価にとって特に大きな意味を持つ。Smithsonian American Art Museumによれば、アーバスは50部を予定したポートフォリオのうち、生前に知られる8セットのプリントを完成させ、そのうち4セットを販売した。購入者にはリチャード・アヴェドン、ジャスパー・ジョーンズ、Harper's BazaarのアートディレクターだったBea Feitlerが含まれていた*13。《A box of ten photographs》が重要なのは、アーバスの代表作を十点に絞ったからだけではない。アーバスの写真は、1960年代の雑誌仕事や美術館展示を通じてすでに流通の場を広げていたが、この箱では、写真が一枚ずつ消費される図版ではなく、選ばれ、順序づけられ、署名され、キャプションとともに箱へ収められ、取り出して見られる作品として組み立てられた。Smithsonianのウォールテキストは、ケースをマーヴィン・イズラエルが設計し、写真の選択をアーバスが行い、プリントと手書きヴェラムを含む要素が、鑑賞者と写真との親密な出会いを作るために構想されたと説明している*21

ただし、写真を美術館、ギャラリー、限定プリント、ポートフォリオの中で扱う形式は、アーバスがゼロから作ったものではない。アルフレッド・スティーグリッツは1905年に「291」を開き、ファインアートとしての写真を展示・推進したとMetropolitan Museum of Artは説明している*30。1930年代のGroup f/64も、エドワード・ウェストンアンセル・アダムスらを含む写真家たちが、ピクトリアリズムに対して、カメラの明晰な描写力、接触焼き、シャープなプリントを重視する方向を示した運動だった*31。ICPは、マイナー・ホワイトがアダムス、ドロシア・ラング、ニューホール夫妻、バーバラ・モーガンらとともに1952年にApertureを創刊したことを記録している*32。Aperture自身も、同誌が1952年に「言葉と写真によって表現される創造的思考」を進めるために設立されたと説明している*33。つまり《A box of ten photographs》の新しさは、写真を美術作品として扱う形式そのものを初めて作った点にあるのではなく、その形式へ入った写真の内容にあった。アーバスが箱に収めたのは、自然や物の秩序を明晰に組み立てるモダニズム写真でも、社会改革の根拠として働くドキュメンタリーでもなく、見ること、見られること、身体、演技、親密さ、不安が一つの画面でぶつかる人物写真だった。そのような写真が、限定部数のプリント、箱、署名、キャプション、価格、所有者を持つ形式に置かれたことで、アーバスの肖像は、雑誌の強いイメージであるだけでなく、美術館や批評誌、コレクターが扱いうる作品単位として受け取られるようになった。

そのうえで、このポートフォリオを同時代の美術の動きの中に置くと、現代美術との接点も見えやすくなる。1960年代末から70年代初頭のニューヨークでは、写真は報道や雑誌の補助的な図版に限られず、記録、情報、出版、言語、展示の仕組みと結びつく媒体として扱われ始めていた。MoMAでは1970年に「Information」が開かれ、言葉、記録、出版物、通信、行為を含む美術の動向が扱われていた*24。同じ年の「Photography into Sculpture」では、写真イメージが平面の記録にとどまらず、物体や展示空間へ展開される作品として示された*25。さらにMetropolitan Museum of Artは、エド・ルシェの写真本、ダグラス・ヒューブラーの写真とテキスト、マーサ・ロスラーによる雑誌写真の転用などを挙げ、1960年代後半のコンセプチュアル・アートにおいて、写真が記録、出版、言語、流通の問題と結びついていたことを整理している*26。同時期のポップ・アートも、テレビ、広告、印刷物、セレブリティなど大衆文化のイメージを美術の主題へ引き込んでいた*35。とくにアンディ・ウォーホルの《Screen Tests》では、Factoryを訪れた有名・無名の人物が固定カメラの前に座り、正面から撮られることで、外見、スタイル、人格、ムードそのものが作品になるとMoMAは説明している*36。アーバスとウォーホルは形式も目的も異なるが、人物がカメラの前でどのように自分を保ち、ポーズを取り、見られる存在になるかを作品の問題にした点で、同じ時代の美術と接点を持っていた。ただし、《A box of ten photographs》をコンセプチュアル・アートそのものとして扱う必要はない。むしろ重要なのは、アーバスの肖像写真が、雑誌のページ、美術館の壁、限定ポートフォリオ、批評誌、国際展という複数の回路を通りながら、写真を「何が写っているか」だけでなく、「どのように選ばれ、所有され、読まれ、批評されるのか」という問題へ移した点にある。

アーバス自身もこの箱を「銅版画やリトグラフのエディション」に近いものとして考えており、限定された部数、販売、番号、箱から取り出して読む行為は、写真を複製可能な報道・雑誌イメージから、同時代美術の市場と展示制度の中で扱える作品へ移す条件になった*21。そのためArtforumへの掲載は、単なる紹介記事ではない。Smithsonian American Art Museumは、1971年5月にアーバスがArtforumに取り上げられた最初の写真家となり、同誌の表紙にも作品が使われたこと、さらに写真に懐疑的だった編集長Philip Leiderが、このポートフォリオを見て写真の芸術としての地位を否定できなくなったと認めたことを記録している*13。1972年のヴェネツィア・ビエンナーレでも、この移行はより公的な形を取った。Smithsonianは、アーバスが写真家として初めてヴェネツィア・ビエンナーレに含まれたこと、当時の同展が現代作家の主要な国際的発表の場だったことを説明している*13。つまりこのポートフォリオは、アーバスの死後評価を支えた代表作の集合であると同時に、写真が雑誌的な流通から、美術館、批評誌、市場、国際展の中で議論される作品形式へ移っていく過程を、具体的に示すものだった。さらに1972年、MoMAの死後回顧展と同時期にApertureから刊行された『Diane Arbus: An Aperture Monograph』は、80点の写真で構成され、Marvin IsraelとDoon Arbusによって編集・デザインされた*12。この写真集は、個々の代表作を集めただけでなく、アーバスの写真を一つの強い視覚経験として読ませる枠組みを与え、彼女の国際的評価の基礎になった。

批評と受容

共感、搾取、写真を見る倫理

アーバスの評価は、早い段階から称賛だけで固まったわけではない。ICPは、彼女の個人的な仕事が搾取的だと見なされることもあり、議論の対象になってきたと整理している*1。その議論が長く続くのは、アーバスの写真が、被写体に近づくことと、被写体を見せ物にしてしまう危うさを、簡単には切り離せないからである。《A Jewish giant at home with his parents in the Bronx, N.Y., 1970》について、Princeton University Art Museumは、この写真が共感的な肖像として称賛される一方で、のぞき見的な搾取として批判されてもきたアーバス作品の問題を示し、エディ・カーメルの親密な家庭生活を写しながら、同時に家族のあいだの距離を強調しうる作品だと説明している*8。The Jewish Museumのオンライン・コレクションも、この写真をアーバスの率直で客観的で、見る者を動揺させるような接近の典型とし、彼女の写真にはのぞき見的な側面がありながら、その脆さが写真家自身の不安や問いと重なることで、被写体への同一化も可能にしていると説明している*27。ここで重要なのは、アーバスを「被写体に寄り添った写真家」として安全にまとめることも、「搾取した写真家」として切り捨てることも、どちらも十分ではないという点である。彼女の写真は、共感と暴力性、親密さとのぞき見、記録と演技が同じ画面の中で同時に起きてしまうため、見る者に自分の視線の位置を意識させる。

その意味でアーバスの写真は、被写体の異様さを見せるだけでなく、カメラの視線が何をさらし、何を隠し、鑑賞者をどの位置に立たせるのかを問い直す。Metropolitan Museum of Artは、アーバスを含む写真家たちの作品に、見られたい欲望とカメラの容赦ない視線から逃れたい欲望が同時に働く、公開性と私性の緊張を見ている*34。Friezeは、アーバスの写真において「普通」と「異常」のどちらの人物にも弱さが現れ、見ることが無垢ではありえないことを示すと評している*20。だからアーバスの写真は、いま見ても落ち着かない。被写体が傷つけられているのか、こちらがそう見てしまっているのか、写真家が近づきすぎているのか、鑑賞者の側が安全な距離から見ているだけなのか、その判断が画面の中で揺れ続けるからである。Fraenkel GalleryとDavid Zwirner Booksによる『Diane Arbus: Documents』は、1967年から現在までの批評、記事、エッセイを集め、アーバスが「不吉」「ぞっとする」と形容される一方で、「啓示的」「誠実」「思いやりがある」とも語られてきた受容の幅を示している*15。この振幅こそが、アーバスの歴史的位置を支えている。彼女の写真は、人物写真を美しい肖像や社会的記録として安定させるのではなく、撮る人、撮られる人、見る人のあいだにある不均衡を、作品の中心に置いた。

2003年のSFMOMA展を基にした『Diane Arbus Revelations』は、代表作だけでなく未発表・比較的知られていなかった写真を含め、手紙やノート、年譜を通じて彼女の仕事の成立を再検討した*14。2016年のメトロポリタン美術館「Diane Arbus: In the Beginning」は、1956年から1962年までの初期7年間に焦点を当て、彼女が後に称賛され、批判され、模倣されることになる独自の方法を形成した時期として再提示した*5。この再検討によって、アーバスは完成した有名作だけで突然現れた写真家ではなく、35mmカメラによる街頭の観察、被写体との接触、スクエア・フォーマットへの移行、雑誌と美術館の間を行き来する発表の中で、自分の方法を徐々に固めた作家として見えてくる。その意味でアーバスは、戦後アメリカの人物写真を「誰を撮るか」という問題から、「写真の前で、誰が誰をどのように見ているのか」という問題へ押し広げた写真家として位置づけられる。彼女の重要性は、被写体の特異さではなく、写真を見る行為そのものが持つ欲望、不安、親密さ、暴力性を、人物写真の内部に残した点にある。

ダイアン・アーバス 写真集

Diane Arbus: An Aperture Monograph
周縁と親密さをめぐる戦後肖像の転換点。
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外部リンク

作品画像を各美術館・コレクションの公式ページで確認する。

出典