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PHOTOGRAPHERS/MASAHISA FUKASE ·日本写真 ·UPDATED 2026.07
MF
§ 273 — Photographer Index — 日本写真

深瀬昌久

Masahisa Fukase 1934-2012
Country日本 Period1950–1960s Channel写真集という方法 · JAPAN
Abstract

深瀬昌久は、妻・洋子を毎朝窓から撮り、故郷の写真館で家族を演出し、鴉や猫へ自分を重ね、晩年には手足、顔、指紋まで画面とプリントに残した写真家。写真館と広告で身につけた演出、1970年代の私写真、雑誌からオリジナル・プリントへ向かう媒体の変化を背景に、親密な他者を撮る喜びと負担、失われた関係を反復する衝動、悪ふざけや身体接触を含む作品がなぜ必要だったのかを、〈洋子〉〈家族〉『鴉』〈サスケ〉〈私景〉〈ブクブク〉からたどる。

この写真家が変えたこと

深瀬は、〈洋子〉と〈家族〉の反復撮影、『鴉』の写真集編集、〈私景〉のセルフポートレートと指紋入りプリントを通じ、私生活を写す写真に、撮影者が相手へ与える指示、像を選び公表する立場、撮影中の身体まで記録した。洋子へ毎朝応答を求める規則、家族を並べる演出、鴉を追う執着、猫に合わせて伏せる身体、紙へ押した指紋には、写真家自身の欲望と行為が残っている。1970年代に私写真が生活を一人称で語る方法として広がるなか、深瀬は親密な相手との共同制作と、その内部に残る非対称性を同じ作品に示した。裸や褌、猫の大写し、舌を触れ合わせる自写像には、関係を深刻な告白へ閉じない遊戯性もある。私写真を、生活の記録から、撮影者と被写体が写真によって結びつき、疲弊し、離れ、なお像として残る過程を問う形式へ広げた。

Keywords 鴉 / Ravens 洋子 家族 私写真 写真雑誌 オリジナル・プリント 反復と演出
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

写真館と広告写真——演出と反復はどこから来たか

深瀬は北海道・美深の写真館に生まれ、幼い頃から暗室作業を手伝い、家業の三代目になることを前提に写真を学んだ。大学卒業後は東京に残り、第一宣伝社、日本デザインセンターなどで広告写真に携わった。本人は後年、写真以外の表現をしたことはなく、家が写真館だったからだと語っている*2。写真館では人物を写場へ配置し、家族を一枚の秩序へ整える。広告制作では印刷後の効果を見越して、物、色、身体を組み合わせる。アマンダ・マドックスが紹介する飯沢耕太郎の見解では、深瀬の画面は多様な要素の組み合わせと相互作用を基礎にし、その背景には商業写真で培った構成力があった*2。後年の固定構図、モデルへの指示、コラージュ、強い色彩、反復撮影には、家業と商業写真で身につけた演出の技術が残っている。

《Kill the Pig》——私生活と屠場の死を同じ展示に置く

1961年の個展《Kill the Pig》は、深瀬が活動初期から、社会的な現場と自分の生活を一つの展示に組み込んでいたことを示す。芝浦屠場の写真に、当時のパートナーの妊娠した身体と、二人の間に死産した子どもの写真を組み合わせた。Foamは、生と死、愛情と悲嘆、遊戯性と陰惨さが早い時期から共存した仕事として紹介している*3。《Kill the Pig》という挑発的な題名と異質な画像の衝突には、喪失を私的な悲劇として整える態度から距離を取り、見る者を不穏さと悪ふざけが混じる場へ巻き込む性格がある。妻、家族、父、猫、自分の身体を撮る後年の仕事にも、関係の親密さと、その関係が壊れたり失われたりした後に残る像を同時に扱う姿勢が続いた。

1976年「写真売ります」展——写真家は雑誌から自立できるか

深瀬が活動を始めた1960年代、日本写真の主要な発表媒体は『カメラ毎日』『アサヒカメラ』などの写真雑誌だった。写真家の仕事は編集者が選び、印刷工程を経て大量に流通し、プリントは誌面を作る途中の素材として扱われることが多かった。1974年に深瀬は東松照明細江英公森山大道荒木経惟らとWORKSHOP写真学校へ参加し、1976年の「写真売ります」展では、写真家自身がプリントの制作、展示、価格を決められるかが争点になった。WORKSHOP側は雑誌編集部と商業写真への依存を減らし、発表の場所と収入を写真家自身が作ることを目指した。一方、中平卓馬らは、複製技術である写真へ「原作」の価値を与え、絵画のように額装して売る態度を批判した*4。この論争は、写真家の手仕事をどこまで作品の根拠にできるのかという問いを深瀬へ与え、〈鴉〉のプリントや晩年の着彩、指紋、縫い目へつながる制度的な背景になった。

§ 02 / 04 表現の核心

「撮るは盗る」——客観性を疑い、撮影者の介入を隠さない

深瀬が写真家の痕跡を繰り返し残した背景には、写真を客観的な記録とみなせないという認識があった。1970年代初頭、中平卓馬らは、写真が現実を中立に記録できるという前提を批判した*4。深瀬自身も1969年、対象を写せば捉えられるとは考えず、ファインダーをのぞく行為を身体の一部にし、自分の存在を含めて対象と関わりたいと述べている*12。後年には「すべてうつされた物事は自分自身の反映」と書き、撮影にはスリに似た後ろめたさと快感があるとして「撮るは盗る」と表現した*2。撮影距離、モデルへの指示、暗室作業、画面へ入る手足や指紋は、写真家がどこから見て、相手へ何を求め、どの像を自分の作品として提示したのかを明らかにする。瀬戸正人は、深瀬がリー・フリードランダーの写真について、淡い空を横切る細い電線が途切れずに写っている点を熱心に語っていたと回想している*9。この証言は、深瀬が画面へ偶然入り込む要素を排除せず、構成の一部として見る関心を持っていたことを示している。

〈洋子〉——カメラが夫婦関係へ入り込む

〈洋子〉では、カメラが夫婦関係の日課と役割を変えた。1973年の《無題(窓から)》では、毎朝九時頃、四階の窓に立つ深瀬と路上の洋子が望遠レンズを介して同じ行為を繰り返した。深瀬は一年間、写真の出来にかかわらず洋子を撮り続けると決めていた*2。洋子は跳躍、振り返り、傘や鞄を使った身振りで応答し、写真の成立に能動的に参加した。撮影時刻や位置、継続期間は深瀬が決め、洋子は毎朝その規則を演技によって変化させた。東京都写真美術館は、やがて二人に「写真を撮るために一緒にいるようなパラドックス」が生じたと説明している*1。洋子も、自分を写した写真に現れていたのは深瀬自身だったと記した。1999年刊行の展覧会図録『The Model Wife』には、配偶者を撮り続けた写真家として、リー・フリードランダーと深瀬がともに収録されている*8。フリードランダーが妻や家族の姿を生活の時間の中で蓄積したのに対し、深瀬は窓と路上の位置、毎朝の時刻、洋子に求めた身振りを制作の規則にした。〈洋子〉は、親密さが共同制作を生むことと、撮影の条件を決める側と応答する側のあいだに偏りが残ることを同時に記録した。

〈家族〉と〈父の記憶〉——写真館で家族の冗談と終わりを記録する

〈家族〉と〈父の記憶〉は、深瀬が継がなかった家業と、家族が老い、欠けていく時間を同じ写場で扱った仕事である。1971年から約二十年、深瀬は美深の写真館へ親族を集め、大型カメラと正面構図を反復しながら、服装、配置、参加者を変えた。本人はこの仕事を、深瀬写真館三代目になり損ねた自分による「パロディー」と説明している*2。裸体の洋子、外部から雇ったモデル、褌姿の父と深瀬には、家族写真の格式を崩す冗談と猥雑さがある。撮影が続くにつれ、結婚、出生、老い、父の死、写真館の閉鎖が、同じ構図の差異として現れ、亡くなった人物は遺影として画面へ戻った。Apertureのトモ・コスガは、〈家族〉を記念日の家族肖像、〈父の記憶〉を父の生から死、火葬までを追う記録として並べている*13。父・助造は親であると同時に、写真館を営んだ職業上の先行者だった。父の身体が弱り、写真館も終わっていく過程を撮ることで、深瀬は家族を演出する者、家族に属する息子、家業を継がなかった者という複数の立場を同じシリーズへ置いた。バービカンは、半裸の女性が画面の端に外部者として配置される構成から、家族内の序列と男性優位を読み取っている*14。固定された写場は、家族の冗談と不在、撮影者の立場の変化を同じ基準で記録するために必要だった。

『鴉』——姿を写さずに一人称を組み立てる

〈鴉〉は、作者の顔や生活上の事件を直接示さず、反復するモチーフ、暗室の階調、写真の順序によって一人称を組み立てたシリーズである。1976年、洋子との創作関係が終わった時期に深瀬は北海道へ向かい、故郷へ向かう風景の一部として鴉を撮り始めた。山岸章二の助言を受けた最初の展覧会後、鳥そのものを意識して撮影し、北海道、金沢、東京へシリーズを続けた*1。深瀬は当時、世界を停止したいという願いと、写真を撮る行為を「生きていることへの復讐劇」と結びつけて書き、後年には、撮影が進むにつれて鴉への関心が薄れ、自分自身が鴉になったと振り返った*7。フィリップ・シャリエは、〈鴉〉を自己表現、語り、メタファーが重なる仕事として論じている*6。同時期の私写真が妻、家庭、日付、生活上の出来事を直接並べる方法を発展させる中で、深瀬は鳥影、雪、移動、ぶれ、黒白の階調へ一人称を担わせた。鴉は、追い続ける行為と編集の中で、帰郷、離別、孤立の時間を結ぶ役割を得た。作者の顔を写さずに自伝的な写真を成立させた点に、〈鴉〉の形式的な必然性と写真史上の位置がある。

〈サスケ〉——猫の動きに撮影者の身体を記録する

〈サスケ〉で深瀬が「自写像」と呼んだのは、猫の姿そのものと、猫を追う撮影中の自分の身体である。深瀬は猫の眼の高さまで腹這いになり、走る、跳ぶ、眠る、口を開く動きへ身体を合わせた。一年余り猫眼の高さで撮り続けた結果、自分も猫になったと書き、サスケとモモエの姿を通した「自写像」と表現している*2。低い視点、近すぎる距離、動きに追随するフレーミングには、カメラの背後で伏せ、追い、待つ身体が残る。同時に、猫の大きく開いた口や不意の動作には、深瀬の意図へ回収されない可笑しさがある。最初のサスケは飼い始めて間もなく失踪し、深瀬は近所へ約百枚の迷い猫の貼り紙を出した。その後、よく似た別の猫を引き取り、「サスケ二世」と名づけて撮影を続けた*15。猫の動きへ身体を合わせる行為と、失われた存在との関係を別の猫と次の写真へつなぐ行為が、「自写像」という言葉に重なっている。

〈私景〉と〈ブクブク〉——カメラを身体の一部として使う

1989年以後の〈私景〉で、深瀬は風景の前へ自分の手、足、顔を入れ始めた。本人は、写された物事はすべて自分自身の反映だから〈私景〉と名づけたと説明し、セルフタイマーでカメラを遠くへ置く撮影では得られない、手で触れられる位置から身体を見ることに関心があると語っている*2。〈ブクブク〉では水中カメラを顔へ近づけ、一カ月以上、日付入りのセルフポートレートをほぼ毎日撮った。水面、泡、歪んだ顔、カメラが同じ近距離に写り、レンズ、水、呼吸、手の位置が顔の見え方を毎回変える*2。フリードランダーの『Self Portrait』が影や反射として撮影者を街の構図へ含めたのに対し、深瀬はカメラを手の届く距離へ置き、顔、皮膚、手、呼吸そのものを観察した*10。直接的な影響関係は確認できないが、この比較から、深瀬の自写像が内面の象徴に加え、カメラを操作する肉体を確かめる実践だったことが見える。

〈ベロベロ〉——見る者と見られる者が同じ接触を引き受ける

1990年から1992年の〈ベロベロ〉で、深瀬は新宿の酒場などで会った友人や見知らぬ人々と舌を触れ合わせ、その状態を腕を伸ばして撮影した。相手には性別や年齢の異なる人々が含まれ、笑う者、目を閉じる者、身を任せる者の反応も同じ画面に残る*16。深瀬は石内都との対談で、見る感覚と見られる感覚を、接触する二本の舌の両端になぞらえた。カメラを持つ深瀬も相手と同じ接触へ入り、自分の顔と舌を画面にさらす。猥雑で可笑しい行為は、撮影者と被写体を隔てる距離を一時的に崩し、見る者自身が見られる対象になる状況を作った。〈洋子〉で窓と路上に分かれていた二人の位置は、ここでは一つの接触点へ圧縮される。写真を撮る行為を深刻な自己検証だけにせず、他者との遊び、羞恥、身体的な危うさを含む出来事へ変えたシリーズである。

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

反復撮影——関係の変化を時間として残す

深瀬の主要シリーズには、一定の条件を自分へ課し、同じ対象へ戻る方法が共通している。洋子を毎朝撮る、家族を美深の写場へ並べ直す、鴉を追って北海道へ戻る、猫の眼の高さで一年撮る、浴槽で日付入りの自写像を続ける。マドックスは、深瀬の日常生活にルーティンへの強い志向があり、それが写真制作では反復される儀式になったと論じている*2。条件を固定すると、身振り、人数、年齢、反応、表情の差異が蓄積し、同時に撮り続ける深瀬の執着や疲労も現れる。反復は、一枚では捉えにくい関係の変化を時間として残すための方法だった。

写真集『鴉』——反復する鳥影が一人称を作る

〈鴉〉は1976年から1982年まで『カメラ毎日』へ断続的に発表され、展覧会を重ねた後、1986年に写真集『鴉』へまとめられた。撮影時期も場所も異なる写真は、編集によって一つの読書時間へ組み直された。フィリップ・シャリエは、〈鴉〉を自己表現、語り、メタファーが重なる作品として検討し、離婚後の悲劇の象徴に集約する解釈を問い直している*6。鴉は、単独の鳥、群れ、ぶれた影、遠景として現れ、旅先、天候、撮影距離の異なる写真をつなぐ。明確な時系列や詳しい告白文を置かず、鳥影の反復とページ順序が帰郷、離別、孤立を一人称の時間へ編み直す。編集者の大田通貴は、造本でスティーヴン・ショアの『Uncommon Places』初版とフリードランダーの私家版を参考にしたと証言している*11。フリードランダーが『Self Portrait』を自主制作し、固定されたページ順序を作品群へ持続する形を与えた方法も参照され、雑誌連載から独立した写真集としてのまとまりが作られた*10

オリジナル・プリント——複製可能な写真へ作者の手を残す

深瀬は〈鴉〉を自らプリントし、初期のニコンサロンでは24×30センチ、1979年のICP「Japan: A Self-Portrait」では大型のプリントを出品した。晩年には二メートル近い〈鴉〉や〈父の記憶〉を試み、ポラロイド作品では写真を切り、縫い、画鋲を刺してから再撮影した。本人は、独創性、個性、自分らしさ、手作りの感触を求めたため、不得手でも自分でプリントする必要があったと説明している*4。紙の大きさ、黒白の階調、縫い目、穴は、撮影時のネガだけでは決まらない最終形を写真家自身が引き受けた証拠になる。1976年の論争で問われた作者性を、深瀬はプリントの表面と展示空間で具体的に試した。

〈Hibi〉と〈私景 ’92〉——都市とプリントの表面へ手を加える

〈Hibi〉は、摩耗した道路標示、消えかけた矢印、アスファルトの亀裂を撮り、そのモノクローム・プリントへ鮮やかなインクを重ねたシリーズである。MACKは、無数の都市生活者によって削られた路面へ深瀬の着彩が加わり、各プリントに作者の身体的な痕跡が残ると説明している*17。路面に蓄積した匿名の通行と、撮影後に加えた深瀬の手の動きが、一枚の紙で重なる。最後の個展〈私景 ’92〉では、小型写真へ絵具を塗り、赤い指紋を押し、壁面へ無数に留め、一部を床へ置いた。ヴォワイヨは、深瀬が1970年代に推進した展示とオリジナル・プリントの仕組みを、最終期に自ら批判的に扱ったと論じている*4。指紋は作者の署名になり、乱雑な着彩や床へ散った写真は、美術作品を整然と保存し売買する形式を不安定にする。深瀬は作者の手を強く示しながら、その手が作品の権威を保証するという考えも同時に揺さぶった。

§ 04 / 04 批評と写真史上の位置

深瀬昌久と私写真——「私」は被写体か、撮影者の立場か

深瀬は現在、1970年代の私写真を代表する写真家として紹介されることが多い。私写真という呼称は私小説との関連から、作者の生活や経験を一人称的に扱う写真へ用いられ、荒木経惟の『センチメンタルな旅』を通じて広く知られるようになった*4。マドックスは、深瀬自身が自作を私写真と呼んだ記録はないと注意を促している*2。荒木が日付、妻、旅、家庭生活を作者名のもとへ直接集めたのに対し、深瀬は鴉、猫、家族写真の型、暗室、写真集、プリントの表面を通して一人称を組み立てた。ヴォワイヨは、深瀬にとっての「私」には、被写体としての私生活に加え、作品を作り、署名し、売る写真家=作者の立場も含まれていたと論じている*4。深瀬の私写真は、生活の告白と、撮影や編集を行う作者の行為を同じ形式に置いた点に特徴がある。

海外展でどう読まれたか——家族の変化とプリントの形式

海外展での受容は、深瀬の作品へ異なる文脈を与えた。1974年のMoMA「New Japanese Photography」では、〈洋子〉が戦後日本の家族と日常の変化を扱う作品として紹介された。同展のプレスリリースは、伝統的な家族制度の崩壊や人間的環境の荒廃に直面した世代という山岸章二の説明を掲載し、深瀬を自分自身の生活を素材にした作家として位置づけている*5。1979年のICP「Japan: A Self-Portrait」では大型化した〈鴉〉が注目され、荒木経惟はその好評をプリントの大きさと結びつけ、東松照明とともに作品を「フォルマリズム」と評した*4。MoMAでは私生活と社会変化、ICPでは黒白の階調、サイズ、壁面での効果が前景化した。深瀬の初期の海外受容には、戦後日本の生活を扱う作家、自己表現を行う作家、プリントの形式を実験する作家という複数の読みが併存していた。

洋子の言葉が示す撮影の倫理

深瀬は、写真を撮る行為に後ろめたさと盗みに似た快感があると書き、晩年には、愛する人々を撮影へ巻き込み、自分を含め誰も幸せにできなかったと振り返った*2。洋子も、十年間、自分はレンズの中で見られ続け、写真に現れたのは深瀬自身だったと記している。二人の言葉は、〈洋子〉を愛情に満ちた共同制作としてだけ読むことも、一方的な支配としてだけ読むことも難しくする。跳躍や仮装、家族写真の裸体と褌、猫の口、〈ベロベロ〉の接触には、撮ることの喜び、悪ふざけ、羞恥がある。同じ撮影が疲弊や離別を生み、像だけが残ることもある。2018年のFoam回顧展は、『鴉』に集中していた海外での認知を、〈遊戯〉〈家族〉〈サスケ〉〈歩く眼〉〈私景〉〈ブクブク〉へ広げた*3。2023年の東京都写真美術館展も、1961年から1991年までの仕事を十三のテーマで構成した*1。これらの回顧展によって、深瀬の作品は、撮影者の介入、親密な関係の非対称性、プリントへ残る手仕事とともに、遊びと偶然が形式を動かす写真として見直されている。

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers
  • リー・フリードランダー ― 妻を長期に撮った仕事、影や反射を自写像にする方法、自主出版による写真集制作を通じて比較できる。深瀬がフリードランダーの画面を横切る電線について語った回想も残る。
  • 荒木経惟 ― 私生活と妻を写真集へ編んだ同時代の比較対象。荒木の日記的な出版と、深瀬の演出、同一化、プリント実験を比べることで、私写真の複数の方法が見える。
  • 森山大道 ― 写真雑誌とWORKSHOP写真学校を共有した写真家。路上の断片を複製媒体へ流す森山と、身近な被写体を反復しプリントへ集中した深瀬は、1970年代写真の異なる選択を示す。
  • 長島有里枝 ― 家族とセルフポートレートを、撮影者と被写体の権限、ジェンダー、言説の問題から再検討した。
  • 野村佐紀子 ― 親密な身体、暗部、写真集の配列を用いながら、被写体との時間を別の世代から構成した。
Movements / Contexts
  • 私写真 ― 自分や身近な人の生活を作品化する実践。深瀬の場合は、演出、反復、他者への同一化、プリントの物質性まで含めて考える必要がある。
  • プロヴォーク ― 深瀬の所属運動ではない。同時代の写真雑誌、粗い粒子、複製媒体、自己表現を比較するための文脈になる。
§ REF さらに読む
The Model Wife
Arthur Ollman 編 / Bulfinch Press / 1999年

妻を長期に撮影した九人の写真家を比較した展覧会図録。リー・フリードランダー/マリアと深瀬昌久/洋子を同じ枠組みで読み、親密さ、共同制作、許可、責任の違いを検討できる。

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深瀬昌久 1961–1991 レトロスペクティブ
東京都写真美術館 / 赤々舎 / 2023年

〈遊戯〉から〈ブクブク〉まで、主要シリーズと資料を通して制作の全体像を確認できる展覧会図録。

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Ravens
Masahisa Fukase / MACK / 2017年復刻版

1986年初版の構成を参照した復刻版。見開きと反復によって『鴉』の時間が組み立てられる過程を確認できる。

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私景
深瀬昌久 / 赤々舎 / 2023年

1989年以後の身体を写し込む写真と、1992年の着彩プリントをまとめ、晩年の方法を確認できる。

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§ SRC 出典