荒木経惟(Nobuyoshi Araki)は、私写真と日本写真を考えるうえで欠かせない写真家です。このページでは、私写真、センチメンタルな旅、東京、代表作の『センチメンタルな旅』を手がかりに、写真史の流れの中での位置づけを、関連作家・運動・出典とあわせてたどります。
荒木経惟は電通の広告写真家として働く傍ら、同社の秘書として働いていた青木陽子(ヨーコ)と1971年7月7日に結婚した。その新婚旅行(柳川・九州)で撮影した写真を私家版写真集『センチメンタルな旅』(1971年)として自費出版したのが、彼の写真家としての出発点となった*1。この写真集はホテルの朝食・窓からの景色・ヨーコとの私的な場面を日常スナップの形式で収録したもので、「私的な最も内密な記憶の公開」という行為そのものをアート実践として提示した*2。荒木は自らの写真スタイルを「私写真」と名付けた。これは日本の「私小説」——一人称の語り手が自身の内面と親密な関係を赤裸々に描く文学形式——から着想した概念であり、「写真家の主観的な生の体験」を芸術の正当な主題として位置づけるものだった*3。当時の写真界は報道(客観・中立)と美術(形式・距離)に二分されており、個人的なスナップは芸術とみなされなかった。荒木がこの境界を問い続けた理由は、最も私的なものこそが最も普遍的であるという確信にあった——自分とヨーコの愛・性・死は誰もが経験する生の本質であり、その記録は個人日記である以前に人間の条件の証言だという認識である*3。「写真は呼吸と同じくらい自然なものだ。写真は生そのものだ」というアラキの言葉はこの確信を端的に示す*3。エロス・死・時間は彼の一貫した主題で、1993年の写真集『エロトス』はギリシア神話のエロス(愛・欲望)とタナトス(死)を題名に重ね、「生の喜びと死の予感が出会い混ざり合う」と述べている*3。当時のプロヴォーク運動(中平卓馬・森山大道ら)の反乱精神と共鳴しながらも、「私は正式に参加できなかったが、反乱の精神は共有した」と語っており、日本の前衛写真の文脈に位置しながら独自の軌道を歩んだ*3。虚実の境界——撮影された親密な場面が「真正の私的瞬間」なのか「演出された構築物」なのか——もアラキ作品が問い続けた核心だった。1992年には猥褻物陳列罪で写真集販売に関わったギャラリー従業員が摘発され、荒木自身も繰り返し検閲と衝突しながら法の輪郭を試し続けた*3。1990年のヨーコの卵巣癌による死は「冬の旅」という続篇を生み、愛・生・喪失という弧を写真集として完結させた*4。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1997年)をはじめ欧米の主要美術館で多数の個展が開催され、100冊超の写真集を刊行している*5。「私が写真を撮らなければ、私には何もない」という言葉が示すように、撮影は彼にとって生の記録であると同時に生の実践そのものだった*3。