東松照明Shomei Tomatsu

東松照明(Shomei Tomatsu)は、日本写真と社会ドキュメンタリーを考えるうえで欠かせない写真家です。このページでは、戦後日本、基地、長崎、プロヴォーク以前、代表作の『Chewing Gum and Chocolate』を手がかりに、写真史の流れの中での位置づけを、関連作家・運動・出典とあわせてたどります。

基本情報
日本
生没年 1930–2012

解説

東松照明は1930年に名古屋で生まれ、戦時中に軍需工場に動員された世代として、終戦と同時にアメリカ軍の占領を直接経験した。占領軍の兵士に対する個人的な親切と、その存在が日本社会に与える暴力性への反感が同時に存在する、「愛憎」の複雑な感情が、その後の生涯のテーマを形成した*1。東松にとって写真の使命は「戦後日本社会の内側からの記録」にあった。戦時中に刷り込まれた国家プロパガンダへの不信から、「世界で信じられるのは、自分の目で実際に見たものだけだ」という確信を持つに至り、外部のジャーナリストや占領軍が提示する「外側からのジャパン像」ではなく、占領・原爆・高度成長の渦中を生きた日本人としての内側の証言を積み重ねることを一貫して選んだ*1。「敗戦後、闇と光が明確に見えるようになり、価値観が180度転換した」というSFMOMAに収録された東松自身の言葉は、この世代的体験が写真行為の根拠になったことを示している*5。1959年に奈良原一高・細江英公らとともに写真家集団「VIVO」を設立し、「主観的ドキュメンタリー」——純粋な記録と表現主義的な印画技法・劇的な角度・象徴的な構成を融合させる手法——を確立した*2。VIVOがこの手法を必要としたのには明確な理由がある。東松自身は「写真の硬化症を避けるために、リポルタージュという悪霊を追い払うことが重要だった」と語っており、純粋な報道的記録が事象の表面をなぞるだけになり感情的・象徴的な次元を失うことへの危機感があった*3。占領・原爆・高度成長という戦後日本の現実は、中立的な記録では捉えられない複雑な感情——愛憎・驚異と恐怖・被害者性と共犯性——を内包しており、事実の描写と隠喩的な陳述の双方として機能する写真だけが内側からの証言となりえた。高コントラストの暗室処理と極端なトリミングは事象の「重力」を可視化し、斜め構図は不安定な社会状況の表象として機能した——主観は恣意ではなく、言語化できない現実に接近するための方法だったのである*2。1960年の「占領——チューインガムとチョコレート」シリーズは、日本各地の米軍基地周辺を撮影したもので、アメリカ兵と日本人女性の接触・均質的な日本社会への異人種の出現・抵抗文化の発生など、占領がもたらした「アメリカニゼーション」の諸相を記録した*3。1960年に長崎を初めて訪れ、1945年8月9日の原爆投下後も生き続けた被爆者(ヒバクシャ)を撮影し始めた。1961年にはその成果が土門拳のヒロシマ写真とともに『ヒロシマ・ナガサキ・ドキュメント1961』(ロシア語・英語のみで刊行)に収録された。1966年刊行の写真集『11時02分 NAGASAKI』では、原爆の熱線に溶けたビール瓶・止まった時計・破壊された浦上天主堂の断片など事物の記録と被爆者の肖像が組み合わされた*4。東松の最も有名な一枚とされる「溶けたビール瓶」は、核爆発が物質に刻んだ痕跡を通じて、戦後日本の暴力と変容を可視化した作品として評価されている。若い世代の森山大道中平卓馬ら「プロヴォーク」グループへの影響が指摘されており、サンフランシスコ近代美術館・シカゴ美術館などで大規模な個展が開催されている*5

東松照明 写真集

Shomei Tomatsu: Chewing Gum and Chocolate
戦後日本の傷跡と消費社会の視覚化。
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Shomei Tomatsu (Phaidon 55s)
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外部リンク

出典