リチャード・アヴェドンは、Harper's Bazaar、Vogue、The New Yorkerなどの誌面で、ファッション写真とポートレートを戦後アメリカの視覚文化へ押し広げた写真家。彼は服や人物を「内面の説明」としてではなく、動き、白背景、印刷面、巨大なプリントによって、撮影者、被写体、読者/鑑賞者が表面から意味を読み取る緊張の場として組み立てた。《In the American West》では、その方法を、アメリカ西部を風景や英雄譚ではなく、身体、職業名、衣服、視線から見直す肖像へ広げた。
リチャード・アヴェドンはニューヨークに生まれ、少年期から写真に触れ、第二次世界大戦中には米国商船隊で身分証明用の写真を撮影した。アヴェドン財団は、彼がその仕事を通じて大量の顔を撮影し、自分が写真家になりつつあることに気づいたという本人の回想を記録している*1。この経験だけで後年の肖像を説明することはできない。ただ、顔を反復して撮り、表情や姿勢のわずかな差を写真として扱う経験は、アヴェドンの仕事の初期にすでにあった。退役後、アヴェドンはニュースクールのデザイン・ラボラトリーでアレクセイ・ブロドヴィッチに学び、Harper's Bazaarの主要な写真家へ進んだ*1。彼の出発点は、純粋なスタジオ写真ではなく、ページ、編集、タイポグラフィ、モデルの動き、読者の視線が組み合わさる雑誌の現場にあった。ICPも、アヴェドンがJunior Bazaar、Harper's Bazaar、Vogue、The New Yorkerで活動し、美術館でも高い評価を受けた写真家だったことを整理している*2。つまりアヴェドンの経歴は、商業写真から美術写真へ「転向」した話としてではなく、商業誌面のなかで作られたイメージが、美術館、写真集、展覧会へ移動していく過程として捉えられる。実際、SFMOMAの回顧展は、初期のストリート写真、1950年代のパリ・ファッション、セレブリティの肖像を同じキャリアの中で扱い、フォトジャーナリズム、ファッション写真、美術写真の境界を横断した仕事として説明している*3。
アヴェドンがファッション写真に入り込んだ背景には、服を扱う家庭環境、雑誌編集の現場、戦後の消費文化が重なっていた。MFA Bostonの「Avedon Fashion 1944–2000」は、彼が婦人服店を営む父のもとで育ち、少年期からファッション写真に惹かれていたこと、退役後にブロドヴィッチの授業を受け、21歳でHarper's BazaarのJunior Bazaarに加わったことを記している*4。アヴェドンにとって服は、絵画的な形だけでなく、店頭で選ばれ、雑誌で欲望され、都市の生活像と結びついて見られるものだった。1940年代後半から50年代にかけてのファッション誌も、単なる商品カタログではなかった。戦後の倹約の空気が残る一方で、ディオールの「ニュールック」に象徴される華やかさが現れ、雑誌は服を通じて、新しい女性像、都会的な身振り、移動や遊びへの憧れを読者に提示していた*4。だから彼がこの分野で扱ったのは「服そのもの」だけではなく、服を着た人がどんな場所に立ち、どんな気分で動き、どんな生活を演じているように見えるかだった。ファッション写真は、アヴェドンにとって、商品、身体、演技、誌面、時代の欲望が一枚の写真に集まる仕事場だった。
アヴェドンの写真は、「一枚の名作」としてだけではなく、雑誌の見開き、表紙、特集、広告、写真集、展覧会の壁面という複数の場所で機能していた。アヴェドン財団の雑誌アーカイブは、彼の写真がHarper's Bazaar、Life、Vogue、Rolling Stone、The New Yorker、Egoïsteなどに掲載され続けたことを示し、1992年にはThe New Yorker初のスタッフ写真家になったと説明している*5。雑誌のなかで写真は、文章を飾る図版でも、服を説明する商品写真でもない。読者がページをめくる速度のなかで、人物、服、時代の空気、社会的な役割を一瞬で結び直す装置になる。アヴェドンのポートレートが強度を持つのは、人物の内面をそのまま取り出したからではない。むしろ、ポーズ、髪型、服、アクセサリー、光、余白、印刷面が、人物らしさを作る手がかりとして画面に残されるからである。アヴェドン自身も「写真は表面の下へ行かない」と語り、表面に手がかりが満ちているという考えを示している*6。この場合の表面は、浅い外見という意味ではなく、写真が実際に扱える顔、服、姿勢、余白、印刷面、掲載媒体のすべてを含む場所である。アヴェドンの肖像は「本当の人格を暴く」写真ではなく、表面の配置だけで読者や鑑賞者に人物を判断させ、その判断の危うさまで見せる形式だった。
ファッション写真におけるアヴェドンの更新は、服を静かに見せることよりも、服が人の動き、都市、演技、欲望と結びつく瞬間を作った点にある。財団の記録によれば、Harper's Bazaarで当初スタジオ使用を許されなかったアヴェドンは、街路、ナイトクラブ、サーカス、海辺などでモデルと服を撮影した*1。この制約は、服を閉じた商品としてだけではなく、身体と場所のなかで起こる出来事として見せる方向を強めた。MFA Bostonは、アヴェドンの初期ファッション写真が、戦後アメリカの女性に高級服を売るための媒体にとどまらず、笑う、跳ぶ、踊る、ローラースケートをする女性像を通して、動的な生活感そのものを見せたと説明している*4。同展の資料では、アヴェドン自身も1965年に、戦後が終わり、ディオールがスカート丈を下げ、突然すべてが楽しくなった時代に、自分の「自由な」スナップ的写真が当時の主流と対照的だったと回想している*4。つまり彼のファッション写真は、服を説明するために身体を置いたのではなく、身体の振る舞いによって服がどんな時代感覚をまとって見えるかを作った。V&Aは、アヴェドンの1957年の《Carmen (Homage to Munkácsi), coat by Cardin, Place Francois-Premier, Paris》を、スタジオ外でのファッション撮影を切り開いたマルティン・ムンカーチへの参照として紹介し、この映画的な視覚をブロドヴィッチが推進したと整理している*7。東京都写真美術館の収蔵品《Renee The New Look of Dior Place de la Concorde, Paris》は、1947年の初期パリ・ファッション・ポートフォリオに属する作品として記録されており、戦後パリの都市空間とディオールの服がひとつのイメージに組み込まれている*8。また、SFMOMAの回顧展ページは《Dovima with Elephants, Evening Dress by Dior, Cirque d'Hiver, Paris, 1955》を図版として掲載している*3。この作品で服は、単に「着られている」のではなく、サーカスの象、白いドレス、モデルの腕、画面の緊張関係のなかで、非日常的な演技として立ち上がる。ここでのファッションは、生活から離れた夢でも、服飾情報の整理でもない。戦後の消費文化、都市の視覚、女性の身体、雑誌が作る欲望の舞台が、一枚の写真のなかに凝縮されたものになる。
同時代のペンと並べると、アヴェドンの特質はさらに明確になる。Art Institute of ChicagoのPenn Archivesは、1960年代のファッション写真が優雅さから自発性へ移るなかで、アヴェドンが都市の日常を感じさせる動的なポーズを担い、ペンはディテール、形、構成への沈潜を続けたと整理している*9。Metropolitan Museum of Artも、ペンのスタジオ写真を、構図、ニュアンス、細部への緻密な注意によって成立する削ぎ落とされた美学として説明している*10。さらにPenn Archivesの肖像解説では、ペンの「コーナー・ポートレート」が被写体の動きを制限し、物語的な読みを閉じ、ジェスチャーと表情の微細な探索へ向かったことが示される*11。これに対してアヴェドンは、初期ファッションでは身体を都市やサーカスへ放ち、後の白背景では人物を固定しながらも、撮影の場で生じる反応、疲労、抵抗、演技を前面に出した。二人はどちらも雑誌写真を、美術館の展示やコレクションでも検討される形式へ運んだが、ペンが服や顔を構成と印画の密度へ沈めたのに対し、アヴェドンは身体の反応、対面の圧力、誌面や壁面での即時性へ向かった。
アヴェドンの成熟したポートレートで繰り返される白背景は、しばしば「人物だけを見せる」装置として語られる。しかし、それを中立な背景や真実の保証として扱うと、彼の方法を単純化してしまう。白い背景は、風景、室内、職場、階級を説明する小道具を取り払い、被写体の身体、衣服、皮膚、視線、疲労、緊張、あるいは撮られていることへの抵抗を画面の前面へ押し出す。その結果、鑑賞者は「この人は誰か」と読むことを求められるが、同時に、その読みがどれほど表面に依存しているかも突きつけられる。Amon Carter Museumは《In the American West》について、被写体が継ぎ目のない白背景の前に置かれ、場所への参照を取り除かれたと説明している*12。SFMOMAのプレス資料も、このシリーズの人物が影や場所への参照のない白い背景の前に置かれ、西部に結びつけられがちな「荒々しい壮大さ」のステレオタイプではなく、普通の人間の脆さを示したと述べている*13。つまり白背景は、人物を透明にするのではなく、背景を消したことで残るものを過剰に見せる。そこに残るのは、人格の奥底そのものではなく、顔、身体、服、職業名、撮影時の状況、そして見る側の解釈がぶつかる面である。
アヴェドンの形式がファッション、セレブリティ、政治家、家族、労働者へ移動できたのは、人物を背景や物語で説明するよりも、カメラ前に立たされた身体の反応を中心に組み立てていたからである。場所を減らし、光をそろえ、正面性を強めると、顔、服、姿勢、手、皮膚、緊張が強く残る。Harper's BazaarやVogueでは、それはモデルが演じる自由さ、若さ、洗練として現れ、Rolling Stoneの《The Family》では政治権力を担う人々の顔の一覧として現れ、《In the American West》では職業名と撮影地を添えられた労働者や漂泊者の身体として現れた。Fondation Henri Cartier-Bressonは、アヴェドンが人物を理想化することはまれで、顔を風景のように明晰に提示したと説明している*14。Friezeも、アヴェドンの写真で重要なのは被写体だけの演技ではなく、写真家自身の演技も含んだ「パフォーマンス」であり、両者の人格的な関与に依存していると論じている*15。つまり白背景は、どのジャンルにも同じ印象をかぶせる背景ではない。人物がどんな役割を背負ってカメラの前に立ち、写真家がどの反応を選び、鑑賞者がその表面から何を読み取ってしまうのかを、ジャンルごとに露出させる形式だった。
アウグスト・ザンダーとの違いを入れると、この点はさらに見えやすい。ザンダーの《People of the Twentieth Century》は、ドイツ社会を農民、職人、商人、芸術家などの社会的タイプと職業に分類し、個々の肖像を大きな社会的アーカイブへ組み込む計画だった*16。この計画では、農民、職人、女性、階級と職業、芸術家、都市、そして高齢者や障害者、死者を含む「最後の人々」までが分類され、肖像は個人像であると同時に、社会秩序を読むための単位として配置された*16。アヴェドンにも分類や連作の感覚はあるが、ザンダーのように社会を秩序立てて記録する方向へは収まらない。Walther Collectionは、アヴェドンの《The Family》をザンダー的な構造を響かせる連作としながら、共同体のアイデンティティの中で政治権力がどのように示され、操作されるかを浮かび上がらせるものとして位置づけている*17。つまりアヴェドンの肖像は、社会的タイプを分類するより、カメラの前でその人が負わされる役割、写真家が選ぶ距離、見る側が下す判断を、画面の緊張として残す。
《In the American West》は、アヴェドンの白背景の方法が、ファッションやセレブリティの領域を離れて、アメリカ西部の神話とぶつかった仕事である。Amon Carter Museumによれば、このプロジェクトは1979年に同館館長ミッチェル・A・ワイルダーがアヴェドンへ委嘱したもので、アヴェドンは1979年から1984年にかけて17州189の町を移動し、752回の撮影で17,000枚のフィルムを露光した*12。同館のコレクションページには《A. L. Bean, cotton farmer, Sweetwater, Texas, 3/10/79》や《Alton Terry, oil field worker, Frenstat, Texas, 9/28/80》が掲載され、いずれもAmon Carter Museumの委嘱プロジェクトとして1985年に展示されたことが記録されている*18。このシリーズに登場する人物は、西部劇的な英雄でも、風景に溶け込む労働者でもない。綿農家、油田労働者、漂泊者、学生、主婦、軍人などが、白い布の前でほぼ等しい条件に置かれ、職業名や土地名とともに示される。風景を消すことで、西部の広さや自然の崇高さは画面から退き、身体についた汚れ、服のしわ、皮膚の質感、まっすぐな視線が、画面の中心に来る。Fondation Henri Cartier-Bressonは、2025年の展覧会で同シリーズを「アメリカ西部の伝統的な描写や神話化」と対照的な肖像として紹介し、オリジナル出版物に含まれた103点全体をヨーロッパで初めて展示すると説明している*14。このシリーズでアヴェドンが変えたのは、西部を別の美しい物語に置き換えることではなかった。荒野、カウボーイ、開拓者精神のような風景的な記号を外し、西部に生きる人を、服の汚れ、日焼けした皮膚、緊張した姿勢、職業名、撮影地、日付の組み合わせとして見せたのである。Amon Carter Museumは、アヴェドンがふだん撮っていた有名人、モデル、政治家ではなく、困難を抱える日常の人々を被写体にし、継ぎ目のない白背景で場所への参照を取り除いたと説明している*12。その結果、見る者は「西部らしい景色」を眺めるのではなく、どの人物が西部の代表として選ばれ、どんな肩書きで示され、どれほど大きなプリントとして展示されるのかを見ることになる。風景から人物へ、物語から表面へ、英雄的なイメージから労働と身体の細部へ視線を移すこと。それが《In the American West》の形式的な転換だった。
アヴェドンの肖像では、人物が強く立ち上がる一方で、その見え方が撮影者の選択によって組み立てられていることも表に出る。誰が選ばれ、場所がどこまで消され、どの表情が採られ、どの大きさで印刷されるかによって、被写体はただ「写る」のではなく、特定の姿で差し出される。National Portrait Gallery Australiaは、《In the American West》でアヴェドンが「見たいもの」を探し、被写体の選択が完全に主観的だったという制作側の証言を紹介している*6。同記事は、プリンターのルディ・ホフマンが、アヴェドンから「もっと優しく」「もっと緊張して見えるように」といった、技術値ではなく感情状態に関わる指示を受けたことも記している*6。白背景は演出の痕跡を消す装置ではなく、被写体の姿が、撮影、選択、プリント、展示によって作られていることを見えやすくする装置でもあった。父ジェイコブ・イスラエル・アヴェドンを撮った連作は、その問題が最も私的な形で表れた仕事だった。アヴェドン財団の展覧会記録は、1974年のMoMAで、死にゆく父を写した8点による小規模だが徹底して個人的な展示が行われ、賞賛と批判の双方を呼んだと記している*19。The Image Centreも、アヴェドンが老いを一貫して、時に論争的に表してきた写真家であり、《In the American West》の市民的な被写体から芸術家、作家、政治家、パフォーマーまで、老いと死に向かう身体を半世紀にわたって撮影したと説明している*20。アヴェドンの肖像は、「冷酷」か「共感的」かの一語では片づかない。被写体が強く見えるほど、撮影者の指示、カメラの位置、プリントの大きさ、展示空間の制度、見る者の欲望も同時に強く見えてくる。人物の尊厳を示す場合にも、人物を証拠のように差し出す危うさを抱える。写真が誰かを可視化することと、誰かを見世物にしてしまうことは、彼の作品ではしばしば切り離せない。
アヴェドンの評価は、雑誌文化と美術館制度のあいだで形成された。Smithsonian Magazineは、20世紀半ばのアメリカではHarper's Bazaar、Life、Look、Saturday Evening Postなどの雑誌が世界を見る主要な媒体であり、アヴェドンの写真が読者をセレブリティ、モデル、政治家、活動家、作家、日常のアメリカ人と向き合わせたと説明している*21。この雑誌的な広がりは、ジェームズ・ボールドウィンとの書籍《Nothing Personal》にもつながった。同誌は、この本が1964年の公民権法成立後に刊行され、アメリカ文化の矛盾を扱い、アレン・ギンズバーグのヌードとアメリカ・ナチ党指導者ジョージ・リンカーン・ロックウェルの写真を向かい合わせるような強い並置を含んでいたと紹介している*21。このような編集は、アヴェドンの写真が単独の肖像としてだけでなく、ページ上の隣接、対比、順序によって社会的意味を作ったことを示している。したがって彼の写真史上の位置は、単に「有名人を撮った名ポートレート作家」では足りない。雑誌の見開きから美術館の巨大プリントへ、ファッションの動きから政治的肖像へ、商業広告から個人的な死の記録へと、写真が置かれる場を横断した点にある。
美術館での受容も早かった。アヴェドン財団の展覧会記録によれば、彼は1955年のMoMA「The Family of Man」に含まれ、1962年にはSmithsonian Institutionで初の回顧展を開き、1978年には存命の写真家として初めてメトロポリタン美術館で展覧会を行った*19。同記録は、1978年の展覧会がアヴェドンのファッション写真の回顧展であり、写真というメディアとファッション写真というジャンルの正当性に関わる出来事だったと説明している*19。その後もMoMAはアヴェドンを多数の展覧会とコレクションに位置づけ、National Portrait Gallery Australiaは2013年に同国初のアヴェドン展を、人物肖像の実践を中心に構成した*22。日本では東京都写真美術館の「ヴィジョンズ オブ アメリカ」に出品作家としてアヴェドンが含まれ、20世紀のアメリカ写真表現を考える文脈の中に置かれている*23。こうした受容を踏まえると、アヴェドンの独自性は、ファッションを美術へ格上げしたことだけではなく、写真が人間をどのように演じさせ、どのように露出させ、どのように見る側の判断を誘導するのかを、戦後の雑誌と美術館の両方で可視化したことにある。