シャロン・ロックハートは、少女バスケットボール部、山間の子ども、造船所の労働者、振付家ノア・エシュコルの遺産を、固定カメラの長回しと大判写真で扱ってきた。数年単位で現地に滞在し、撮影前の対話や共同作業を作品の条件へ組み込む。写真と映画の差を、被写体と共有した時間の構造から問い直した。
短期取材のドキュメンタリーは共同体を数場面の代表像へ圧縮し、構造映画の長回しは社会関係より形式が前面に出る場合があった。ロックハートは数か月から数年の滞在と参加者による再演を固定画面へ組み込み、作家が決めた枠と、その中で被写体が過ごす時間を同時に見せた。写真で身体の配置を比較し、映画で動作の持続を経験させ、誰が誰を見るのかに加えて、撮影者、参加者、鑑賞者が時間をどう分け合うかをドキュメンタリーの問題にした。
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目次 · Table of Contents
1990年代の写真と映画――観察する側の権力が問われた時代
短期取材のドキュメンタリーは、限られた出会いから共同体全体を説明し、民族誌は外部者の分類を客観的な知識として流通させてきた。1990年代には、誰が他者を代表し、その像をどの制度が受け取るのかが強く問われた。MCA Chicagoの2001年展は、映画と写真の双方を用いて日常行為を厳密な構図へ変える作家としてロックハートを紹介している。*2同時代の構造映画は固定カメラと長回しによって撮影装置を前面に出したが、社会関係より形式の純度が中心になる場合もあった。ロックハートは長期滞在、参加者による再演、固定画面を一つの工程へ組み込み、外部者の観察と形式主義の双方が残した課題に応答した。ArtCenterの卒業生資料は、1993年のMFA取得後、写真と映画を横断する制作を継続した経歴を記している。*16MoMAは《Goshogaoka》を、時間、運動、儀礼、偶然を通じてドキュメンタリーとパフォーマンスの境界を検討する作品と説明する。*4
静止画と映画を選ぶ理由――同じ場を異なる時間で経験させる
一枚の写真は身体の配置、視線、服装を比較できる一方、動作が続く時間を静止させる。映画は持続を記録できるが、編集によって出来事を一つの筋書きへまとめやすい。ロックハートは同じ共同体から写真と映画を並行制作し、二つの媒体の限界を互いに補わせた。写真では個人、二人組、集団の配置を読み、映画では反復、休止、集中の揺れを同じ時間の中で経験する。Harvard Art Museumsは、映画と写真がアルバム、肖像、地域研究の形式を横断して展開される点を強調した。*3被写体を一枚の代表像や一本の物語へ圧縮せず、同じ場所を異なる時間尺度から見るために、二つの媒体が必要だった。
《Goshogaoka》――部活動の規律をカメラ用の振付へ変える
1997年の《Goshogaoka》は、茨城県の中学校女子バスケットボール部と数か月を過ごした後、日常の練習をもとに六つの約10分のテイクへ構成した作品である。*4カメラはコートの低い位置に固定され、試合やコーチの指示を画面から外し、掛け声と身体の律動をそれぞれ異なる研究として見せる。*12選手たちは普段の練習を演じ直すため、部活動の既存規律と、作家がカメラ用に構成した振付が同じ動作に重なる。The Broadの写真群では、選手が個人、二人組、集団として正面性の高い画面へ現れ、チームという制度と一人ひとりの身体が同時に見える。*6
固定カメラと長回し――作家の制御と被写体の逸脱を同時に見せる
手持ち撮影と細かな編集は、撮影者が視線を動かし、重要な瞬間を連続して選び取る。ロックハートは最初に画角を決め、その枠を長時間保つ。固定後も作家の権力は残り、作家が先に選んだ構図が長く持続して見える。その中で、参加者の集中の揺れ、退屈、呼吸、周囲の音が少しずつ現れる。Harvard Art Museumsは、映画と写真が並行して展開されることで、肖像と地域研究の方法が比較される点を指摘した。*3長回しは遅さを美的効果にしつつ、鑑賞者が作家の枠と被写体の時間の両方に注意を払い続ける条件となる。
《Pine Flat》――子どもの時間を説明せずに持続させる
《Pine Flat》はシエラネバダ山麓の小さな町で四年近くをかけて制作され、十二の固定ショットからなる映画と十九点の肖像写真で構成された。*8Hammer Museumは、納屋に設けたスタジオで子どもたちと関係を築きながら撮影したことを紹介している。*1映画では子どもが一人または少人数で風景の中に留まり、大人が想定する成長物語や社会問題の説明が差し挟まれない。長さそのものが、子どもを未完成な大人として扱わず、その時点の知覚と行為に時間を与える方法になる。
《Lunch Break》――十一分の休憩を八十三分へ伸ばす
《Lunch Break》の制作では、メイン州バス鉄工所に一年間通い、労働者の日常と休憩時間を観察した。*5造船所の通路を進む約十一分の撮影を約八十三分へ引き伸ばし、声、機械音、足音を再構成した映像は、生産から切り離された短い休憩を巨大な時間へ変える。SFMOMAはこの作品を、アメリカ工業労働者階級の衰退という経済状況と、通常は見過ごされる休憩中の活動を結ぶものとして論じた。*5公式プロジェクト資料は、映像だけでなく個人商店、弁当箱、ロッカー、休憩所の写真と出版物を同じ調査から制作したことを示す。*11長回しが工場を巨大な時間構造へ変える一方、静止画は、休憩を支える物と小規模な商いを具体的な社会史として記録する。
労働者を「働く身体」へ還元しない写真と新聞
映像とともに、個人商店のように運営される軽食販売、ロッカー、弁当箱、休憩所を撮った写真が展示された。*18労働者の尊厳を英雄的な作業姿勢で表す代わりに、仕事の合間に作られる小さな経済と関係を見る。作品に付随する新聞《The Lunch Break Times》は、労働史や休憩に関する文章を流通させ、現場の社会史を美術館内で読める資料にした。*18ここで写真、映画、印刷物は、同じ場所を異なる速度と読解方法で開く媒体として働く。
ノア・エシュコル――アーカイブを再演し、作者を単独化しない
イスラエルの振付家、運動記譜法研究者、織物作家ノア・エシュコルを扱うプロジェクトでは、遺された絨毯、記譜法、ダンサーの身体を写真と映画へ編成した。LACMAは、エシュコルの多面的な達成を扱うマルチメディアの考察として紹介した。*15Jewish Museumの展示は、エシュコル本人の作品、運動記譜、ロックハートによる映画と写真を並置した。*9資料展示に加えて、現存するダンサーの身体による再演を行い、過去の作者、協働者、現在の撮影者の権利関係を複層化した。Noa Eshkol Foundationは、運動記譜、ダンサー、壁掛け、ロックハートの写真と映像を同じ展示で構成したと記録する。*10この仕事では、存命のダンサーと作品を選び、身体で再演することが形式の前提になった。
形式主義と社会的実践を切り離さない
ロックハートの作品は、構図、正面性、長回しの厳格さから構造映画やコンセプチュアル写真へ接続される。MoMAはマイケル・スノウ、ジェームズ・ベニング、ジャン・ルーシュらの映画史を参照軸として挙げる。*4一方、Liverpool Biennialは、数年に及ぶ調査と共同体との協働が写真と映画へ結実する点を実践の中心に置く。*19写真史上の位置は、形式を他者への時間配分として設計した点にある。
共同制作の倫理――親密さを透明性と取り違えない
長期滞在の後にも、撮影者と被写体の権力差は残る。ロックハートは固定フレーム、演出、展示規模を自ら決める一方、作品ごとに参加者が関与する方法を変えてきた。The Broadは、デュアン・ハンソンの彫刻を設置する作業員を四方向から撮った作品について、人工性が隠れた真実の層を示すと解説する。*7《Goshogaoka》では部活動の動作を再演し、《Pine Flat》では子どもが出入りできる肖像スタジオを作り、《Lunch Break》では労働環境の調査から映像を構成した。《Rudzienko》は二年以上にわたり、社会療法施設の若い女性たちとのワークショップから会話と動作を組み立てた。*13Mike Kelley Foundationは、読書と発話を含む活動が参加者との協働から発展したと記録する。*17したがって「共同制作」の内容は作品ごとに異なり、誰が動作を決め、誰が発話し、誰が最終的な像を編集するかを個別に見る必要がある。
構造映画、コンセプチュアル写真、協働型ドキュメンタリーの交点
固定カメラと長回しは構造映画、正面性と反復はコンセプチュアル写真、長期滞在はドキュメンタリーと社会的実践の系譜に属する。ロックハートはこれらを一つのプロジェクト構造へ統合し、画像の内容だけでなく、撮影前に費やす時間と鑑賞者に要求する時間を表象の条件にした。Guggenheimをはじめとする美術館収蔵は、写真家と映画作家という区分を越えた受容を示す。*14この方法の批評性は、被写体が制作へ関与する範囲と、像が流通する場所を作品ごとに検討すると明確になる。
《Teatro Amazonas》と民族誌的視線――集団をひとつの文化像にしない
《Teatro Amazonas》では、ブラジル・マナウスの劇場に集まった観客を、舞台側から固定カメラで長時間撮影した。観客は何かを見る主体であると同時に、カメラから見られる集団になる。初期のアマゾン地域の仕事や日本、アメリカ、イスラエル、ポーランドでの制作は、異文化を移動する作家がどのように観察するかという民族誌的な問題を含む。MoMAはロックハートの参照軸にジャン・ルーシュやロバート・ガードナーを挙げながら、階級と人種が肖像、風景、静物の伝統を支えてきた問題へ向き合うと説明する。*4固定フレーム、参加者と作られた動作、長い滞在は、観察の条件を作品内へ残す。被写体を共同体の典型として読む速度を遅らせ、1990年代以降のドキュメンタリーに、観察の条件を作品の時間として示す一つの方法を加えた。写真と映画の往復は、その方法を静止した比較と持続する経験の双方から検証できるようにする。CalArtsの教員資料は、写真と映画を横断する実践が制作と教育の双方で継続していることを示す。*20
- シャンタル・アケルマン ― 日常行為、労働、持続時間を固定ショットで扱った映画史上の比較対象
- ジェームズ・ベニング ― 構造的な長回しと場所の観察をめぐり、ロックハート自身も対話を重ねた映画作家
- コンセプチュアルアート ― 撮影、調査、展示、出版を一つの構造へまとめる背景
- ドキュメンタリー ― 短時間の取材から長期共同制作へ向かう再検討