ヴェネツィア生まれでイギリスに帰化したベアトは、クリミア・インド・中国・日本と英仏軍の展開する場所を追い続けた写真家だった。1863年から横浜に拠点を置き、手彩色の写真帖によって日本の風景・人物・風俗を外国人旅行者向けに販売した。帝国主義の視線と被写体の商品化という問題は、今日も批判的に検討され続けている。
ベアトは、英仏の軍隊が展開するクリミア・インド・中国・日本を移動しながら、戦場の「事後の現場」と東洋の風景・人物を同じ商業的視線で写した写真家である。横浜に拠点を置いて手彩色の写真帖を外国人旅行者向けに売り出し、湿板技術と日本人画工による彩色を結びつけた様式は、明治初期の横浜写真の定型となった。一方で、骸骨を配置した戦場写真や、土産物として「東洋の異質性」を演出する人物写真は、記録と商品化、そして帝国主義のまなざしのあいだの緊張を体現しており、今日の植民地写真研究で批判的に読み直され続けている。
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フェリーチェ・ベアトは1832年頃にヴェネツィアに生まれ、後にイギリスに帰化した。1855年のクリミア戦争でジェームズ・ロバートソンとともに従軍写真を撮影したことが記録上の最初の活動である。以後、英仏軍が展開する戦場と占領地に継続的に同行した*1。
1857〜58年のインド大反乱(セポイの乱)後のラクナウでは、英軍がセカンダーラバーグを奪取した戦闘の「事後の現場」を撮影した。数ヶ月後の再訪撮影とされており、散乱した骸骨が画面に大きく配置されている——遺体配置の演出が指摘されることもある*2。1860年の第二次アヘン戦争では英仏連合軍に従い北京・天津・大沽砲台などを撮影した。
その際に知り合った英国人挿絵記者チャールズ・ウィルグマンとともに1863年に横浜へ移り、「ベアト&ウィルグマン」スタジオを開設した。1877年頃まで横浜を拠点として活動し、日本の風景・人物・風俗を写した写真帖を外国人旅行者向けに販売した*3。横浜を離れた後はビルマ(現ミャンマー、1885年)・スーダン(1885〜86年)・朝鮮(1904年頃)にも移動した記録があり、晩年は不明確な部分が多い。1909年頃に没したと推定されている*4。
ベアトの日本写真は大きく二つのカテゴリーに分類される——日本の風景・建築(富士山・寺社・宿場町など)と、芸者・侍・職人・農民など様々な「日本的な人物」のスタジオ・ポートレートである。いずれも外国人旅行者・外交官・商人が土産物として購入する写真帖向けに制作されており、「西洋人が東洋の何を求めているか」を正確に把握した商業的判断に基づいていた*5。
ベアトは横浜で写真の手彩色技法を普及させた。彩色を担当したのは多くの場合日本人の画工であり、西洋の写真技術と日本の絵画的伝統が融合した独特の制作様式が生まれた。この手彩色写真帖の様式は明治期の横浜写真の定型となり、日本国内でも複数の写真家がこの方式を採用した*6。
インドやアジアでの「事後の現場」撮影における演出の問題——骸骨の配置、遺体の移動——は、ドキュメンタリー写真の倫理をめぐる議論において今日も参照される。ベアトの写真は、戦争の惨禍を記録するという意図と、外国人読者向けに「東洋の異質性」を演出するという商業的要請の間の緊張を体現している*7。
ベアトの仕事は長らく写真史において周辺的な位置に置かれてきたが、20世紀後半以降の帝国主義批評・植民地写真研究・アジア写真史研究の発展とともに再評価が進んでいる。MIT「文化を可視化する」プロジェクトはベアトの日本写真を「帝国の視線」という理論的枠組みで詳細に分析しており、その商業的・政治的文脈の解読が進んでいる*8。
メトロポリタン美術館・ゲッティ美術館・横浜開港資料館はベアトの作品を収蔵している。日本の写真史研究においては、ベアトが横浜に持ち込んだ湿板コロジオン技術と手彩色写真帖の様式が、明治初期の日本写真の発展に与えた影響が継続的に研究されている*9。
幕末から明治初期の日本を記録した視覚資料として、ベアトの写真帖は歴史的・民族誌的な資料価値を持つ。しかし同時に、その視線が帝国主義的権力関係の中に置かれていることを批判的に検討することが、今日の写真史研究においては不可欠とされている*10。
- ロジャー・フェントン ― クリミア戦争(1855年)の撮影でベアトと時期的に重なる先駆的な戦場写真家で、英国軍の展開を追う従軍写真の先例を作った。
- アレクサンダー・ガードナー ― 南北戦争でのアメリカ側の戦場写真家で、「ゲティスバーグの狙撃兵」の演出問題はベアトのラクナウ写真と同様の倫理的問いを共有する。
- マシュー・ブレイディ ― 組織的な戦場記録という実践上の共通点を持ち、同時代の戦争写真の対照的な文脈として参照される。
- ドキュメンタリー ― クリミア・インド・中国・日本と英仏軍の展開に随伴して記録したベアトの仕事は、19世紀ドキュメンタリー写真の初期の広域的な事例として位置づけられる。
帝国・アジア表象・幕末日本をつなぐ初期報道写真の要。