1840年代からアメリカ最高の肖像写真家として大統領を含む著名人を撮影したブレイディは、南北戦争において私財を投じて20人以上の写真家を組織し、米国史上最大規模の戦場写真プロジェクトを指揮した。1862年のアンティータム死者の写真展示は、アメリカ市民が戦場の死者の写真を初めて目にした歴史的出来事として記録されている。
ブレイディは、肖像写真家としての名声と私財を投じ、20人以上の写真家を携帯暗室馬車で各戦場に展開させて、個人の撮影から組織的な映像アーカイブの生産へと写真の作り方を移した。視力の衰えた彼自身は多くを撮らず、企画・資金・配給・クレジットを束ねる編集者=プロデューサーとして機能した点に、近代的な写真事業の原型がある。1862年のアンティータム死者の写真をニューヨークで展示し、市民が戦場の死を写真で目にする最初の機会を作ったことは、写真が戦争の現実を社会へ媒介する力を示した。一方で全作品をスタジオ名の下にまとめた手法は、ガードナーやオサリヴァンの著作者性を覆い隠したとして、のちに批判と反動を招いた。
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マシュー・ブレイディはニューヨーク州ウォーレン郡で約1822年に生まれた。若い頃から写真に取り組み、1844年頃にニューヨーク市ブロードウェイに最初のダゲレオタイプ・スタジオを開設した。ジョン・クィンシー・アダムズ・アンドリュー・ジャクソン・ジェームズ・ポーク・ミラード・フィルモアらの大統領を含む著名人の肖像で名声を築き、ニューヨーク・ワシントンD.C.の二大スタジオを経営して「アメリカ最高の肖像写真家」と呼ばれた*1。
1851年のロンドン万博ではダゲレオタイプ部門でメダルを受賞し、国際的な認知も得た。写真技術が湿板コロジオン法へ移行する1850年代にも地位を維持し、写真帖「著名なアメリカ人ギャラリー」シリーズで歴史的な肖像アーカイブを構築した*2。
1861年の南北戦争勃発にあたり「戦争は写真で記録されなければならない」という確信から、政府から正式なアクセスを確保した上で私財を投じて20人以上の写真家チームを組織し、携帯暗室馬車で各戦場に派遣した。ブレイディ自身は晩年に「ある精神が私の足に『行け』と言い、私は行った」と語っている*3。アレクサンダー・ガードナー、ティモシー・オサリヴァンら傘下の写真家が残した記録は1万枚以上に上る。
1862年10月にアンティータムの死傷者を撮影した写真がブレイディのニューヨーク・ギャラリーで展示された——アメリカ市民が戦場の死者の写真を目にした最初の機会であり、ニューヨーク・タイムズは「ブレイディ氏は戦争の恐ろしい現実を我々の目の前に持ち込んだ」と報じた*4。
戦後、政府はネガの買取を拒否し、ブレイディは南北戦争写真への投資で破産に追い込まれた。1875年に議会が2万5千ドルでネガを購入したが(自身が投じた費用の4分の1以下)、晩年は極貧のまま1896年に没した*5。
ブレイディの南北戦争プロジェクトの組織論的特質は、写真の制作と配給を工場制的に管理した点にある。携帯暗室馬車(「ホワット・イズ・イット?・ワゴン」と呼ばれた)を複数の戦場に同時展開し、写真家ごとに担当地域を割り当て、撮影した湿板ネガを定期的にワシントンD.C.のスタジオに送って管理した。この体制は、個人の写真家の実践から組織的な映像アーカイブの生産への移行を象徴している*6。
ブレイディ個人の視力は戦時中に著しく低下しており、戦場での実際の撮影の多くは他の写真家が担当していた。ブレイディの役割は、プロジェクト全体の企画・組織・資金調達・クレジット管理(スタジオ名の下に全作品をまとめること)にあった。この点でブレイディは、写真の制作者というよりも写真の編集者・プロデューサーとして機能していた*7。
ブレイディの遺産には二重性がある。一方では、南北戦争の視覚的記録という歴史的アーカイブの創出者として、また大統領肖像の体系的な収集者として評価される。他方では、傘下の写真家(特にガードナーとオサリヴァン)の労働と功績を自らのスタジオ名の下に隠蔽したという批判もある*8。
米国議会図書館は「ブレイディ・ハンディ写真コレクション」として約6000点のネガを収蔵しており、南北戦争関連の写真も含む「南北戦争写真コレクション」も大規模な形で公開されている*9。メトロポリタン美術館はブレイディの肖像写真を20点以上収蔵しており、19世紀アメリカの政治的・文化的人物のアーカイブとして位置づけている*10。
ブレイディの生涯は、写真が社会的・文化的インフラとしての地位を確立した時代の英雄的な成功と悲劇的な失敗の両方を体現している。南北戦争写真への投資による破産は、写真の社会的価値が経済的な評価と一致しなかった19世紀の逆説的な状況を象徴している*11。
- アレクサンダー・ガードナー ― ブレイディのワシントンD.C.スタジオの管理者だったが独立し、写真家個人のクレジット表示という対照的な方針を打ち出した。
- ティモシー・オサリヴァン ― ブレイディのスタジオで修業した後ガードナーに従い、南北戦争写真の実質的な撮影を担った。
- ロジャー・フェントン ― クリミア戦争(1855年)で知られる先駆的な戦場写真家で、ブレイディの南北戦争プロジェクトと比較される存在である。
- フェリーチェ・ベアト ― 同時代にアジアの戦場を記録した写真家で、組織的な戦争記録という実践上の共通点を持つ。
- ドキュメンタリー ― 1万枚以上の南北戦争写真ネガを組織的に生産した実践は、写真によるドキュメンタリーアーカイブの先行事例として位置づけられる。
- フォトジャーナリズム ― アンティータムの死傷者を公開展示し、戦場の現実を市民が目にする機会を作ったことは、写真報道の原点的事例として記録されている。