佐藤時啓は、彫刻で扱われてきた場所、時間、身体、素材の問題を、長時間露光の写真へ移した作家。登山の記録、自作彫刻の撮影、ワイヤー状の彫刻と光跡の実験を経て、《光―呼吸》では、露光中に移動する身体がペンライトや鏡の光として画面を構成する。もの派以後の素材と空間、ランドアートにおける歩行と痕跡、フォトグラム的な光の接触を手がかりに、佐藤の写真を、光の効果に加えて、彫刻的な行為が写真の中で成立する方法として読み解く。
佐藤時啓は、彫刻が物体、台座、展示室から、場所、時間、身体の移動、素材の変化へ広がった時代の問題を、写真の露光へ引き受けた。シャッターが開いている時間の中で身体を動かし、ペンライトや鏡の光を画面に残すことで、彫刻が占めていた空間を、光、行為、移動、露光時間によって組み立て直した。《光―呼吸》の光跡は、作家の存在を示す記号に加えて、身体の移動、光の操作、カメラの露光が一つの画像を作る過程として現れる。佐藤の仕事は、彫刻を写真で記録する段階から、写真の中で彫刻的な行為を発生させる段階へ進んだところに重要性がある。
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佐藤時啓は山形県酒田市に生まれ、東京藝術大学で彫刻を学んだ。鶴岡アートフォーラムの資料は、佐藤が彫刻を学ぶ過程で、制作に伴う身体的な行為や時間の推移を作品へ表すことに関心を持ったと説明している*1。鳥原学の作家紹介は、佐藤が学生時代に登山へ没頭し、山行を記録するために写真を撮り始めたことを、写真との初期接点として整理している*2。佐藤が彫刻を学んだ1970年代後半から1980年代前半の日本美術では、1960年代末からのもの派、コンセプチュアル・アート、インスタレーションの経験を経て、作品を完成した量塊として見る視点に加え、素材、空間、人間の関係や、場所に一時的な状態を発生させる行為が重要な問題になっていた。国立国際美術館の「もの派—再考」展は、もの派を、従来の表現形式から離れ、素材と人間の緊張関係や、実在空間と虚構空間の差異を探る同時代の試みと結びつけて説明している*3。大学院修了後の佐藤は、鉄を使った立体作品に火、水、植物、土など時間とともに変化する要素を組み合わせ、動的なインスタレーションへ向かった*2。自作彫刻を記録するために8×10カメラを扱った経験は、ピントグラスに現れる像、光の定着、露光時間への関心を強める契機になった*2。Frist Art Museumは、ワイヤー状の彫刻のそばでペンライトの光跡を描いた実験を、光と空間を写真で結びつける発見として説明している*4。この流れから生まれた《光―呼吸》では、彫刻の素材が占めていた場所に、露光時間、移動する身体、反射する光、カメラの光学構造が置かれる。1990年代以降の佐藤は、国内外の展覧会とコレクションを通じて紹介され、東京都写真美術館は2014年に個展「佐藤時啓 光―呼吸 そこにいる、そこにいない」を開催した*5。同展は《光―呼吸》、ピンホールカメラ、カメラ・オブスクラ、移動式の撮影装置を含む約90点で構成され、初期から継続する方法論を追う展覧会として紹介された*5。2015年には東川賞国内作家賞の対象作家として記録され、同年の鶴岡アートフォーラムでは庄内地域で制作された新作約80点が展示された*6。
彫刻の問題を写真の露光へ移す
佐藤時啓の仕事を理解する入口は、光の美しさだけでなく、彫刻で扱われてきた量塊、場所、時間、身体の問題が写真の中で組み替えられる過程にある。彫刻における場所と時間の問題は、作品を形ある物体に加えて、置かれる場所、そこを歩く身体、移動の距離、滞在の時間、素材の変化、記録として残る写真や地図まで含めて考える視点を指す。佐藤は学生時代から鉄の立体作品や時間とともに変化する素材を扱い、制作に伴う身体的な行為や過程を作品に表すことに関心を持っていた*1。その関心は、自作彫刻を記録するための写真を経て、露光中の行為そのものを写真として成立させる方向へ進む。Frist Art Museumは、佐藤がワイヤー状の彫刻の横にペンライトで光の軌跡を描き、それをカメラで捉える実験を行ったことを紹介している*4。この実験では、彫刻の量塊、作家の身体、光の移動、カメラの露光時間が一つの画面へ集約される。佐藤の写真に残る光跡は、身体の運動が写真を作る構造へ入った結果として読まれる。
写真史における光の痕跡
写真史には、対象をカメラで写す方法と並んで、光と物体の接触を感光面に残す方法がある。ラースロー・モホイ=ナジのフォトグラムについて、Moholy-Nagy Foundationは、露光中に写真紙の上に置かれた物体が残す幽霊のような痕跡と説明している*7。マン・レイのレイヨグラフも、物体を感光紙の上や近くに置き、光を当てて現像することで、認識できる対象を不思議な構成へ変える技法としてThe Metに紹介されている*8。この系譜では、写真は遠くから見た世界の再現に加え、光、物体、感光面の接触によって成立する。佐藤の《光―呼吸》は、フォトグラム的な接触の考えを、暗室の紙面から風景や建築空間へ拡張した仕事として読める。感光紙の上に物を置く代わりに、作家が空間内を移動し、ペンライトや鏡の反射光をフィルムへ残す。光跡は、身体の像から離れ、身体が光を操作し、露光時間の中で画面を発生させた結果として現れる。
もの派、ランドアート、拡張された彫刻
1960年代以降の彫刻では、作品を台座上の物体として完結させる考え方に加えて、場所、時間、移動、行為を作品の構成要素として扱う動きが強まった。この文脈での場所は、背景や展示室にとどまらず、作品が置かれる地形、歩く経路、移動の距離、鑑賞者や作家の身体が通過する空間まで含む。時間は、制作にかかった時間、歩行や滞在の時間、素材が変化する時間、写真や地図として後から読まれる時間を含む。リチャード・ロングは1960年代後半から歩くことを作品化し、Lisson Galleryは、風景の中を移動する単純な創造行為によって、場所、時間、距離を扱う彫刻の可能性を広げた作家として紹介している*9。National Galleries of Scotlandは《A Line Made by Walking》について、ロングが草地を往復して一定の角度から見える踏み跡を作り、その線が短い旅の記録であり、行為に使われたエネルギーの表現でもあると説明している*10。リチャード・ロングとの比較によって、彫刻が物体、台座、展示室から、歩行、距離、地形、記録へ広がった流れが見えてくる。佐藤は、もの派以後に強まった素材と空間の関係、ランドアート以後の歩行と痕跡、拡張された彫刻における場所と時間の問題を抱えたまま、写真の露光へ向かった。リチャード・ロングの歩行が風景に線を刻む行為なら、佐藤の歩行は写真の露光面に光の線を刻む行為として読める。ロングの痕跡は風景の中に一時的に生じ、写真やテキストによって作品として共有される。佐藤の痕跡は、自然や都市に物理的な傷を残すよりも、シャッターが開いている時間の中で光として発生し、写真の中に定着する。歩行や身振りは、写真の外で説明される出来事にとどまらず、画像を作る内部の要素になる。
身体の押し跡と、記録されるパフォーマンス
身体の痕跡は、戦後美術やパフォーマンスの中でも重要な問題として扱われてきた。イヴ・クラインの《Anthropometry》では、青い絵具をまとった女性モデルが「生きた筆」として紙へ身体の押し跡を残し、その制作は観客の前で行われるパフォーマンスとして組み立てられた*11。ブルース・ナウマンの《Walking in an Exaggerated Manner Around the Perimeter of a Square》では、スタジオの床に貼られた正方形の周囲を歩く身体が、固定カメラによって記録される*12。MoMAはこの作品について、ナウマンが日常的な活動や自分自身を作品へ取り込み、芸術を製品から活動へ広げた時期の仕事として説明している*12。佐藤の位置は、このパフォーマンス記録の文脈と重なりつつ、カメラの役割が変わる点にある。ナウマンの映像では身体の行為がカメラに記録される。佐藤の写真では、身体の行為が露光の内部で画面を生成する。光跡は行為の記録であり、同時にその行為によって作られた写真の構成要素になる。
《光―呼吸》で身体が画面をつくる
《光―呼吸》では、夜間の風景や室内空間を長時間露光し、そのあいだに佐藤自身がペンライトを持って歩く、あるいは鏡で太陽光を反射させる。東京都写真美術館は、このシリーズについて、風景の中を作家自身が鏡を持って歩き回り、反射する光と移動の軌跡をフィルムに定着させるものだと説明している*5。Harvard Business Schoolの収蔵解説も、夜には懐中電灯で描き、昼には鏡で光を反射させる方法を確認し、光の点が作家の存在の痕跡である一方、作家自身は不可視のまま残ると述べている*13。この場面で重要になるのは、作家の身体の可視性より、作家の移動が露光中の画像生成を担う点である。一般的な写真では、撮影者の身体は構図を決め、シャッターを押し、カメラの外側から写真を成立させる。佐藤はシャッターを開いたあとに風景や建築空間へ入り、光を操作しながら画面の奥行きや距離を刻む。光の点や線は、自己表現の署名として閉じず、身体、場所、カメラ、露光時間が一時的に結ばれた結果として現れる。彫刻が物理的な素材を空間へ置く行為として成立してきたことを踏まえると、佐藤は光を発する身体の移動を露光時間の中へ置き、その一時的な構造を写真として定着させた。
露光中に何が画面を作るのか
佐藤の方法は、長時間露光という点でミヒャエル・ヴェーゼリー(Michael Wesely)の都市建設写真や、上映時間を一枚に集約する杉本博司の《Theaters》と比較できる。MoMAはヴェーゼリーについて、時に3年にも及ぶ露光によって都市の建設や解体を捉え、建物が幽霊のように現れる写真を制作したと説明している*14。杉本博司は《Theaters》で、映画一本分の上映時間を一枚の写真に露光し、スクリーンを白く輝く面として定着させたと自身の公式サイトで述べている*15。ヴェーゼリーでは、都市や建築が変化する長い時間が写真に圧縮される。杉本では、映画の上映時間がスクリーン上の白い光へ集約される。佐藤では、露光時間の中へ撮影者自身の身体が入り、光を動かす行為が画面の構造を作る。三者の差異は、露光時間の長さだけでなく、露光中に何が画像生成へ参加しているかに表れる。QAGOMAの《Breath-graph no. 21》解説は、佐藤の動きそのものがカメラに写らず、光の筆致だけがフィルターを通過することで、人間が空間を一時的に占めることへの考察になっていると説明している*16。
線、運動、反復の参照線
QAGOMAの《Breath-graph no. 21》解説は、佐藤の光跡を、静止画の中で運動を扱う美術史の問題へ接続している。同解説は、同じ建物で撮影されたとみられる《Breath-graph no. 22》を、イタリア未来派やマルセル・デュシャンの《階段を降りる裸体 No.2》と同じく、静止した画面の中で動きと時間を扱う試みとして整理している*17。また同解説は、李禹煥の《From Line》にも触れ、長く下ろされる筆致の連なりが時間と存在を刻む点を、佐藤の光跡と比較している*17。この参照によって、佐藤の光跡を、線、運動、反復、時間の問題として読む道筋ができる。佐藤の光跡は絵筆の線に近い見え方を持ちながら、ペンライトや鏡が発した光をフィルムに受け止めた写真上の出来事として成立する。線は描かれた形であり、同時に露光時間の中を身体が通過した痕跡である。
都市空間とカメラの拡張
佐藤の作品に現れる都市や建築は、身体の行為が光跡として生じる場として現れる。POETIC SCAPEの《Photo-Respiration: City Scape》展は、佐藤の主題を光、時間、空間、身体とし、都市の建築空間を長時間露光の中で光の痕跡が生まれる場として紹介している*18。QAGOMAの解説は、1980年代後半から1990年代の《Breath-graph》作品に、当時の日本の建設ブームを反映する産業的、企業的な室内空間が現れていると指摘している*19。画面に写る巨大なホール、階段、通路、建築の構造の中で、小さな光の点は身体の移動、呼吸、滞在の感覚を強調する。2025年の「光―呼吸 City Scape」紹介文では、佐藤が建築物の中に「エアポケット」のように見える空間があると語り、その空間で身体の動きを通じて光の造形を生み出す方法が、彫刻を学んだ彼ならではのアプローチとして説明されている*20。東京都写真美術館は、佐藤がピンホールカメラやカメラ・オブスクラ、建築物や車を改造したカメラ装置を用い、時間の経過や移動によって変化する風景をパフォーマンスやインスタレーションとして発表してきたと説明している*5。佐藤は、暗い箱、穴、レンズ、反射、投影、露光時間という写真の基本条件へ繰り返し戻りながら、一枚の画像を、見ることの仕組みを経験させる空間的な出来事へ拡張している。
《Breath-graph no. 21》――露光中の身振り
《Breath-graph no. 21》は、佐藤の初期方法を理解するうえで重要な作品である。QAGOMAの作品解説は、この作品を1988年制作、1991年プリントのゼラチン・シルバー・プリントとして記録し、243.3×298cmという大きなサイズも示している*16。この作品で佐藤は、暗いフィルターをかけたカメラを3時間開いたままにし、ペンライトで垂直の身振りを空間に描いた*16。身体の動きは画面に定着せず、光だけが建築空間の中に浮かび上がる。大きな画面サイズは、光の点や線を小さな効果として眺める経験から、身体が空間を測った痕跡として体験する経験へ鑑賞を移す。QAGOMAの作家解説では、佐藤が日常的な都市空間や旅先の風景の中にある微細な関係に応答し、そこで立ち、呼吸していた時間を作品として定着させようとしていたことが紹介されている*19。
《Photo-Respiration》――光を背後から受ける写真
《Photo-Respiration》は、佐藤時啓の代表的なシリーズとして、複数の美術館やコレクションで確認できる。Harvard Business School Schwartz Art Collectionの《#63, Photo-respiration》は、1990年の作品として記録され、白黒透明フィルムをライトパネル上に置く形式で展示される*13。この提示形式では、写真の表面を見る経験に加え、光を背後から受けて画像が立ち上がる経験が生まれる。Art Platform Japanに掲載される《Photo-Respiration Nikko #3》は、2001年制作のゼラチン・シルバー・プリントとして宇都宮美術館に所蔵されている*21。同じ《Photo-Respiration》でも、都市、自然、建築、地域によって光の現れ方は変化する。光の点は、場所の説明を補う装飾に収まらず、撮影者の身体がその場所の距離、奥行き、空気、時間へ働きかけた結果として画面に現れる。
《CC #35》――カメラ・オブスクラ以後
佐藤の仕事は、光跡の写真から、カメラという装置そのものを扱う方向へ広がっていく。Tokyo Museum Collectionに掲載される《CC #35》は、1992年制作の銀色素漂白方式プリントとして東京都写真美術館に収蔵されている*22。同ページの解説は、佐藤が《光―呼吸》のほか、ピンホールカメラによる《Gleaning Lights》、カメラ・オブスクラを用いた《Wandering Camera》へ展開したことを記している*22。この展開で写真は、レンズを通して外界を写す道具から、カメラの仕組み、光の投影、観客の身体的な経験を含むものへ広がる。2014年の東京都写真美術館展では、建築物や車をカメラ装置に改造する仕事も紹介され、写真表現がプリント、パフォーマンス、インスタレーションを横断するものとして扱われた*5。こうした展開からは、佐藤が一つの技法を反復する作家像を超え、写真が成立する条件そのものを作品ごとに組み替えてきたことが読み取れる。
写真を出来事として成立させる
佐藤時啓の制作は、技法の新奇性よりも、写真を出来事として成立させる点に特徴がある。デジカメ Watchの展覧会レポートは、佐藤がもともと彫刻家であり、「生命」をテーマにしていたこと、そして光と時間の関係を通して長時間露光の方法へ至ったことを紹介している*23。画面には、風景、建築、海、街、桜、工場、祭りの投影が現れる。佐藤の写真では、写っているものの名称と同じ重さで、撮影中に何が起こったのか、誰がそこに入り、どのような時間がそこを通過したのかという問いが立ち上がる。光跡は、写真の外で起きた出来事の証拠に加え、その出来事が写真の中で形を得たものとして働く。佐藤は、写真を静止した結果として扱う習慣を保ちながら、露光中に進行する行為を画面の成立条件へ組み込んだ。
美術館、地域制作、展示空間
佐藤の活動は、美術館の個展やコレクションに加え、地域での滞在制作やワークショップにも広がっている。鶴岡アートフォーラムの2015年展では、2012年以降に庄内地域で撮影された海岸風景、市街風景、桜、パノラマ写真、ピンホール写真などを中心に、新作約80点が展示された*1。同資料は、佐藤の写真が風景を二次元に切り取ることに加え、その土地や場所の性格や空気を表現し、作家自身の存在と体感を含むものだと説明している*1。八戸市美術館の「Hachinohe Magic Lantern」では、地域の祭り、工場、海、岩場に過去のイメージを投影し、撮影された場所と投影された記憶を重ねる方法が紹介された*24。この展開では、光跡による身体の行為が、土地の記憶、地域の風景、消えた出来事を現在の場所へ一時的に呼び戻す方法へ広がっている。
海外展における空間、時間、記憶
佐藤時啓の受容は、日本国内の写真展や美術館コレクションに加え、1990年代以降の海外展にも広がっている。東京都写真美術館は、1990年の第5回釜山青年ビエンナーレ、1993年の第1回アジア・パシフィック・トリエンナーレ、1997年の第6回ハバナ・ビエンナーレなどを、佐藤の海外での発表歴として記録している*5。原美術館の「Photography and Beyond in Japan: Space, Time and Memory」は、写真を芸術表現の媒体として用いる日本の現代作家を空間、時間、記憶という概念から紹介し、佐藤、杉本博司、柴田敏雄、荒木経惟、森村泰昌らを含む展覧会として北米各地へ巡回した*25。この文脈で佐藤の仕事は、写真の一瞬性を広げた作例として、さらに写真が身体、場所、記憶をどのように媒介するかを考える作品として受け止められてきた。佐藤の位置づけは、フォトグラム的な光の接触、パフォーマンスにおける身体の行為、もの派やランドアート以後の彫刻における場所と時間の問題を、長時間露光の写真の中で結びつけた点にある。写真は彫刻を記録する媒体として出発し、やがて彫刻的な行為が起こる場所へ変わる。そこに、佐藤の仕事を日本の現代写真と現代美術の交差点から読む理由がある。
- 杉本博司 — 上映時間を一枚に集約する《Theaters》との比較から、佐藤の露光中の身体的行為が際立つ。
- ミヒャエル・ヴェーゼリー — 長期露光によって都市の建設と解体を記録する作家。佐藤との比較では、露光中に画像を作る主体が、都市の変化なのか、身体の行為なのかという違いが見える。
- 畠山直哉 — 都市、土地、風景を考える同時代日本写真の文脈で接続できる作家。佐藤は場所に入り込む身体と光を軸に置く。
- リチャード・ロング — 歩行、場所、距離、時間を彫刻へ広げた作家。佐藤との比較では、風景に残る踏み跡と、写真の露光面に残る光跡の違いが論点になる。
- ブルース・ナウマン — スタジオ内の身体行為を映像化した作家。佐藤との比較では、カメラが行為を記録する役割から、露光の内部で行為を画面化する役割へ移る点が見える。
- もの派 — 素材、空間、人間の関係を作品の中心に置いた動き。佐藤の仕事は、物体の量塊から、場所に一時的な状態を発生させる行為へ彫刻が広がった後の問題と接続できる。
- ランドアート — 歩行、地形、距離、痕跡、記録を作品に含めた動き。佐藤は自然や都市に物理的な痕跡を残すよりも、露光中の光として痕跡を写真の中に定着させる。
- 長時間露光 — 瞬間から時間の持続と身体の行為へ視点を移す方法。
- カメラ・オブスクラ — 風景を投影し、見る仕組みそのものを作品化する装置。
- 光―呼吸 — 光、時間、空間、身体を結びつける佐藤時啓の中心的シリーズ。