ヨッヘン・レンペルトは、生物学の知識を基礎に、鳥、昆虫、植物、波、雲、動物園、自然史博物館を35mmの白黒写真やフォトグラムで観察してきた。プリントを額装せず壁へ直接配置し、種の分類、形の類似、偶然の遭遇を一時的な組として見せる。自然写真を希少種の記録や決定的瞬間から離し、見る行為と展示の編集へ結びつけた作家である。
自然史や科学教育で用いられる写真は、しばしば同定に必要な形を明瞭にし、個体を種の代表像として示す。生物学を学んだレンペルトが写真を選んだのは、形を記録するだけでなく、生物の光、動き、接触が感光材料へ直接痕跡を残し、人間の眼だけでは捉えにくい時間を像にできるからだった。都市の鳥、剥製、動物柄、蛍の光、葉と人の皮膚を撮り、分類が切り離してきた知覚、生態、環境、写真材料の関係を同じ展示で検討した。35mmカメラ、粒子の残る手焼き、フォトグラム、無額装の紙は、対象を理想的な標本像へ固定せず、誰の眼に、どの距離と時間で、どの像として現れたかを残すために必要だった。レンペルトは自然写真を、珍しい生物の提示から、生物と感光材料がともに像を作る過程、見る行為、種間関係を検討する場へ開いた。
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目次 · Table of Contents
なぜ写真か―生物の光と動きを感光材料へ参加させる
レンペルトはハンブルク大学で生物学を学び、トンボを専門に研究した。科学教育を通じて、レンペルトは種名の知識とともに、動物の動き、形態の微差、季節、環境を長く観察し、類似の中から意味のある差を見つける手続きを身につけた。Centre Pompidouの展覧会は、カール・ブロスフェルトら新即物主義の植物写真とレンペルトを接続しながら、標準化された接写とは異なる方法を示した*2。1990年代に写真へ軸足を移した後も、都市、公園、動物園、自然史博物館を歩き、野生、生体展示、剥製、人工物を同じ撮影アーカイブへ集めた。Brian Sholisが述べるように、科学的背景は写真を客観的図版へする規則より、日常の光景から生態的な問題を発見する方法として働く*16。
写真を選ぶ必然性は、観察した生物を後から描写することより、生物の現象と感光材料が同じ時間に接触した痕跡を作れる点にある。C/O Berlinが紹介する作品では、ホタル自身の発光がフィルムを露光し、小さなカエルが感光紙の上を跳んで足跡を残す*7。このとき動物は撮影対象であると同時に、露光を生じさせる働き手でもある。写真は、人間が選んだ典型的な姿を保存する一方向の記録から、生物の光、移動、接触と、フィルムや印画紙の感度が共同で像を作る過程へ変わる。Contemporary Art Galleryが、動植物の主題と現像・プリントの物質性を一体で扱うと説明するのはこのためである*9。白黒の粒子と小さなネガは、種を色彩豊かな図鑑像へ近づけるより、形、動き、周囲の空間、感光材料の痕跡を同じ面で読むための選択だった。
Schmelzdahin―フィルムの分解から静止写真へ
1979年から1989年にかけて、レンペルトはヨッヘン・ミュラー、ユルゲン・レブレと実験映画グループSchmelzdahinを組み、拾得フィルムや現像済みフィルムを熱、化学反応、菌類などへさらし、像の物理的な崩壊を制作に用いた。Centre Pompidou所蔵の《Stadt in Flammen》(1984)は、焼けたフィルム、劣化、質感を含む16mm作品として記録されている*6。本人が直接の因果として説明しているわけではないが、この経験と、後の写真で感光、粒子、紙、現像を重視する態度との連続性は見える。映像の連続を解体した後、彼は一枚の写真を固定した結論として扱わず、複数のプリントを空間で連結し直す方法へ進んだ。MACSの企画も、映画、写真、生物学、自然科学、美学の接続を彼の実践の中心に置いている*12。 Schmelzdahinのフィルムは、熱、菌、化学反応によって自ら変化する物質として扱われた。後の作品で蛍の発光がフィルムへ直接作用し、カエルが印画紙の上を横切る制作も、写真材料を受動的な記録面として扱わず、生物の運動や光を感光過程へ参加させる態度との連続として読むことができる*7。
35mmカメラと普通の距離
レンペルトは主に35mmカメラと標準レンズを使う。Centre Pompidouは、50mmレンズが人間の通常の視野に近く、誇張されたマクロ表現を避ける選択だと説明している*2。希少動物を望遠で切り抜き、背景を消して英雄的な姿へ変えるより、鳥や昆虫が都市の構造、空、道路、人間の気配の中でどれほど小さく現れるかを残す。Cincinnati Art Museumは「Field Guide」を、自然科学の知識と日常的な遭遇を結ぶ展覧会として構成した*10。同館のプレス資料も、身近な自然の美しさと謎を、35mmで長く観察した仕事として紹介している*11。小さなネガの粒子は情報不足として除かれず、対象が一瞬だけ見えた距離と条件を伝える。The Bentwayが都市のコンクリート環境から自然の痕跡を見る仕事として紹介するように、レンペルトの「フィールド」には保護区と人間の都市の双方が含まれる*17。35mmカメラの携帯性によって、研究対象を撮影用に隔離せず、日常の移動の中で生物と遭遇できる。
アナログプリントの粒子とフォトグラム
手焼きの白黒プリントは、細部を透明に再現するだけでなく、粒子、柔らかな紙肌、濃淡の揺れを残す。Mudamは、強いコントラストと粒状感が写真へ素描に近い質を与え、光で描くという写真の語源を意識させると解説している*14。レンペルトはカメラ写真に加えて、鳥や物体を感光紙へ直接置いたフォトグラムも制作する。IMAのインタビューで本人は、白黒写真を抽象的な形と印画紙の表面の両方として考え、像が何を表すかと、光が紙に残した痕跡を分離しないと語っている*18。レンズを介した遠近法と、対象の影が紙へ触れる直接性が同じ展示に並び、自然を写す行為を、距離、露光、薬品、支持体による変換として示す。Huis Marseilleの展覧会は、カメラによる観察、フォトグラム、展示配置を一続きの実践として紹介した*8。
無額装の展示―科学図版と美術作品の間で比較条件を作る
レンペルトのプリントは、マットやガラスを使わず、テープやピンで壁へ直接留められることが多い。紙の端はわずかに波打ち、写真が保護された貴重品より、観察ノートや標本台帳に近い状態で現れる。Hamburger Kunsthalleは、特定の空間に応答して作品群を作り、動的な連想網を「開かれた視覚実験室」のように構成すると説明している*1。本人はIMAのインタビューで、無額装を作品関係を強めるための選択とし、会場で写真を選び直しながら構成すると語っている*18。ただし意味が毎回自由に変わるわけではない。写真の大きさ、余白、間隔、隣接するモチーフが、形態、生態、知覚のどの関係を検討するかを限定する。Camera Austriaが指摘するように、同じ写真がプリント、書籍の頁、異なる会場の構成へ移るたび、複製可能な像と物理的な紙の存在が衝突する*24。無額装の目的は、配置変更の自由そのものではない。科学図版の固定した説明と美術作品の唯一性の間で、形態、生態、知覚を比較する条件を会場ごとに設計するための形式である。
ベラドンナの実とリスの眼―形態比較を生態へつなぐ
レンペルトの比較は、鳥の群れと雲、皮膚と樹皮を似た形として並べるだけでは終わらない。Contemporary Art Galleryが取り上げた《Belladonna》では、黒いベラドンナの実とリスの黒い眼が対になり、果実が動物の視覚を引きつけ、摂食と種子散布へ結びつく関係が提示される*9。Brian Sholisも、この形式的類似が進化的な仮説へ進む点を作品の特徴としている*16。ただし二枚の写真が生物学的因果を「証明」するわけではない。リスがどの色と形をどう知覚するかを人間が完全に共有できない以上、並置は閉じた科学図解より、観察済みの形から別種の知覚を想像するための問いとして働く。別の作品では、剥製、動物柄の布、カエル形の石鹸皿のような人工物が生物写真へ加わり、人間が自然を模倣し、装飾し、保存してきた像も比較対象になる*23。レンペルトは種名を無効にするより、名前を知ること、形へ驚くこと、生態的作用を検討することの間を往復させている。
《Schwammtürme》―一つの種を長い時間で見る
《Schwammtürme》は1995年から2016年にわたり制作されたゼラチン・シルバー・プリントの連作である*5。題名はスポンジの塔を意味し、同じ対象を一度の典型的な写真へ代表させず、異なる場所、形、光の中で繰り返し見る。時間幅の長さは、科学図鑑の標準像と異なり、個体差や撮影条件を消さない。連作は同種の一致を確認する一方、それぞれの形が完全には重ならないことを示す。
《Symmetrie & Körperbau》―葉を比較する展示
《Symmetrie & Körperbau: About Leaves》(2019–22)は、葉の形、対称性、身体構造を検討する複数作品からなる。Centre Pompidouの所蔵記録は、個々の写真が分離可能なセットの一部であることを示している*4。植物学的な標本写真に見えるもの、影や欠損が強く現れるものが並び、葉を種の識別記号としてだけでなく、光を受ける薄い物体、左右対称が崩れる身体として見る。展覧会空間では、別の動物や人工物の写真と隣接することもあり、作品名が示す「身体構造」は植物の内部に閉じない。
《Glühwürmchen》―動きを一枚から複数枚へ
Mudam所蔵の《Glühwürmchen (Bewegung auf 35 mm film)》(2010)は、ホタルの移動を四枚の白黒写真で示す*14。光の点や軌跡は、昆虫の姿を解剖学的に説明しないが、生物の動きと感光材料の時間を直接結ぶ。四枚の間隔を追うと、連続写真の分析と、暗闇で光を探す身体的な経験が重なる。Bildmuseetの「Sudden Spring」は、こうした一時的な自然現象を、分類と偶然の出会いが交差する作品として紹介した*15。
科学的表象と、人間が作った自然像
レンペルトは「生物学者の正確さと詩的感受性を併せ持つ作家」と説明されることが多い。ただし作品が検討するのは、科学と詩という二つの性質の調和より、自然を知る制度がどのような像を必要とするかである。Camera Austriaは、科学的な表象体系と、都市、動物園、自然史博物館を歩く個人的な観察が、彼の写真で衝突すると論じている*23。IMAのインタビューでは、工業製品さえ生物学的な眼で見ることができ、自然物と人工物の分類を固定しないと本人が説明している*18。日本での回顧的紹介も、野生動物、都市の痕跡、標本、写真材料を横断する制作として評価した*19。ART iTの展覧会評が示すように、作品の静けさは、鑑賞者が何を生物と見なし、何を背景や人工物として無視したかを問い返す*20。種の知識は微細な違いを発見するために働き、粒子、トリミング、壁面の近接は、標本写真が削った環境や見る者の位置を戻す。
種の同定から、知覚と生態の検討へ
自然写真は長く、希少動物の接写、決定的な捕食、壮大な生息地を主要な価値としてきた。レンペルトは、ハエ、蛾、雑草、雨の波紋、都市の鳥、博物館標本を、35mmの小さなネガと手焼きプリントで扱う。対象を大きく明瞭に示す代わりに、周囲の空間、粒子、被写体までの距離を残すため、鑑賞者は種の同定だけでなく、その生物が人間の都市や展示制度の中でどう見えるかを考える。Rochechouartの美術館やCentre Pompidouによる収蔵は、この仕事が写真、科学、展示を横断する実践として制度的に位置づけられたことを示す*13。Amis du Centre Pompidouによる作品取得も、複数写真を分離可能な集合として扱う方法をコレクションへ組み込んだ*21。Rijksmuseumの写真集『Natural Sources』では、壁面とは別の頁の連続によって、長年のアーカイブが再編集されている*22。 Friezeの批評も、動植物の像を分類表へ閉じず、展示の隣接によって「見る様式」そのものを問い直す実践として位置づけている*3。レンペルトが明確にしたのは、自然史的な識別の像が、擬態、種間関係、動物の視覚、写真材料、人間の投影まで検討する像になりうることだった。問いは「これは何という種か」で終わらず、「誰が何を見るために、この姿が像になったのか」へ進む。
- カール・ブロスフェルト ― 植物を拡大し、形態比較のための写真へ変えた自然史的な先行者。
- ベルント、ヒラ・ベッヒャー ― 複数写真の比較によって類型と差異を読む方法を確立した。
- ヴォルフガング・ティルマンス ― 日常、身体、天体、抽象を大小の無額装プリントで関係づける同時代の比較対象。
- コンセプチュアルアート ― 本文で、科学的観察と詩的注意を交差させ、連作構造で知覚を探る実践として説明される。
- タイポロジー写真 ― 比較を用いつつ、固定類型を連想的な組み合わせへ開く。