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PHOTOGRAPHERS/SHOJI UEDA · 日本写真
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§ 080 — Photographer Index — 日本写真

植田正治

Shoji Ueda 1930s / 1930年代
Country日本 Period1930–1940s Channel写真史の論点 · 日本写真
Abstract

植田正治は、鳥取砂丘、家族、山陰の日常を、人物の配置と大きな余白によって静かな舞台へ変えた写真家。新興写真やシュルレアリスムの構成感覚を生活圏へ移し、「植田調」と呼ばれる演出写真から〈童暦〉、〈小さい伝記〉、カラー、ファッションまで、身近な現実を自らの感覚で組み直す方法を展開した。

この写真家が変えたこと

植田正治は、写真家が現実に働きかけている事実を隠さず、家族、子ども、砂丘を配置によって一つの画面へ組み立てた。東京都写真美術館の解説によれば、植田はカメラを向けた時点で撮る側が現実を変えていると考えていた*5。彼にとって演出は、撮る側と被写体の関係を写真に残し、身近な生活から自分の見方を形にする方法だった。写真館の仕事を続けながら「アマチュア写真家」と名乗り、注文や報道の目的から距離を取れる制作の自由を重視したと考えられている*6。新興写真やシュルレアリスムから得た構成感覚を山陰の日常へ移し、日常の記録、近代的な造形、個人的な遊びを同じ画面に結びつけたことで、身近な現実を写真家の感覚で組み直すことを、日本写真の一つの表現方法として定着させた

Keywords植田調演出写真鳥取砂丘新興写真アマチュア写真
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 04 背景と時代

植田正治は1913年3月27日、鳥取県境港に生まれた。1931年に米子写友会へ入り、1932年に上京してオリエンタル写真学校で学んだ後、同年に帰郷して営業写真館を開いた*1。写真雑誌の月例懸賞へ応募しながら新興写真の方法を吸収し、1933年の日本海倶楽部、1937年の中国写真家集団の結成にも参加した*1。スミソニアン国立アジア美術館は、塩谷定好、ジャック=アンリ・ラルティーグ、マン・レイ、アンドレ・ケルテスからの影響と、地域への愛着、リアリズム、近代的な構成が結びついた点を植田の特徴として挙げている*2

戦時中に制作を中断した植田は、1946年に作品制作を再開し、翌年には銀龍社へ参加した*1。1949年、『カメラ』誌上で鳥取砂丘の競作と、境港近くの砂浜で家族を撮影した《パパとママとコドモたち》などを発表し、砂丘や砂浜を天然のスタジオとして用いる群像写真の方法を確立した*1。1954年には二科賞を受賞し、1960年にはエドワード・スタイケンが企画したMoMAの展覧会で作品が紹介された*2。MoMA所蔵の《雪の面》は、1954年に制作されたゼラチン・シルバー・プリントである*8

1971年に最初の写真集『童暦』を刊行し、1974年から1985年には『カメラ毎日』で〈小さい伝記〉を連載した*1。1975年から1994年まで九州産業大学で教え、1978年と1987年にアルル国際写真フェスティバル、1982年にフォトキナへ参加した*1。1983年にメンズ・ビギの広告として砂丘でファッション写真を撮影し、その後〈砂丘モード〉を展開した*1。1995年には植田正治写真美術館が開館し、1996年にフランス芸術文化勲章を受章した*1。植田は2000年7月4日に死去した*1

§ 02 / 04 表現の核心

新興写真を山陰の生活へ移す

植田が写真を始めた1930年前後、日本では新即物主義やシュルレアリスムの影響を受けた新興写真が広がっていた。東京都写真美術館は、新興写真を、カメラやレンズの機械的特性を生かして写真固有の表現を探った動向として説明し、写真雑誌と各地のアマチュア写真家がその展開を支えたと位置づけている*3。植田も月例懸賞や地域の写真団体を発表の場とし、俯瞰、切断、人物配置、抽象的な構成を山陰の風景と生活へ持ち込んだ。1937年の《コンポジション》は、砂丘の群像写真に先立って、形と配置を重視する実験が行われていたことを示している*4。マン・レイやアンドレ・ケルテスらから受けた刺激は、都市や海外の前衛を再現するためではなく、家族、子ども、海岸、雪といった身近な対象を新しい画面へ組み替えるために用いられた。

撮る側の存在を画面に残す

植田の演出写真では、人物がカメラを正面から見つめ、指示された位置に立ち、互いの間に大きな余白が置かれる。東京都写真美術館の解説によれば、植田は、カメラを向けられた人物が視線を外すほうが不自然だと考え、写真家がその場に立った時点で現実はすでに変化していると捉えていた*5。この考え方では、演出は現実を覆う装飾ではない。写真家の選択と被写体との関係を画面に引き受け、現実をどのように見たかを明確にする方法となる。植田が「砂丘は巨大なホリゾントだ」と語ったように、砂丘は空、地平線、人物の間隔を自由に構成できる天然のスタジオだった*9。娘のカコは自宅に家族写真がなく「みんな作品」だったと振り返り、学芸員の金子隆一は、植田が生活のすべてを写真の中へ組み込んだと説明している*6。身近な人々は生活の記録であると同時に、写真家の視覚を担う人物として画面に現れた。

「アマチュア写真家」という自己規定

植田は営業写真館を営みながら、作品制作では自らを「アマチュア写真家」と呼んだ。東京都写真美術館は、この言葉がとりわけ1960年代末から1970年代初めに多く使われるようになり、商業、広告、報道の目的から離れて自由に撮る姿勢を示していた可能性を指摘している*6。ここでのアマチュアは技術の未熟さを意味せず、何を面白いと感じ、どのように画面を作るかを自分で決める立場を表していた。1950年代に土門拳の「絶対非演出の絶対スナップ」が影響力を持つと、植田は演出写真そのものを否定されたように感じたと後に語っている*10。その後の〈童暦〉では、山陰の季節、風土、子どもたちとの接触を長い時間の中で蓄積し、自身にとってのリアリズムを探った。植田の自由は一つの様式を守ることではなく、演出、スナップ、写真集、カラー、依頼仕事へ方法を変えながら、生活に根ざした自分の写真を更新し続けることにあった。

§ 03 / 04 代表作・方法・媒体

《パパとママとコドモたち》――砂丘を天然のスタジオへ

パパとママとコドモたち》(1949年)は、植田が家族と砂浜を用いて確立した演出写真の代表作である*7。人物は出来事の途中を写された存在ではなく、立つ位置、向き、間隔を与えられ、空と砂の広がりの中で形として働く。境港近くの弓ヶ浜と鳥取砂丘は、生活圏にある具体的な土地であると同時に、遠近感を弱め、人物を自由に配置できる撮影空間となった*9。家族写真、群像写真、モダニズム的な構成が一枚に重なることで、植田は日常を静かな舞台へ変えた。

〈童暦〉――雑誌から写真集へ

〈童暦〉は1959年から十年以上にわたって撮影・発表された作品をまとめ、1971年に中央公論社の「映像の現代」シリーズから刊行された植田最初の写真集である*10。砂丘の群像演出よりも、山陰の四季、子どもの遊び、祭礼、雪景色が連続する時間が前面に現れる。雑誌で断続的に発表された写真は、写真集のページによって季節と土地の記憶を持つ連作へ編み直された。植田正治写真美術館は、『童暦』の刊行がその後の再評価の契機になったと説明している*10

〈小さい伝記〉――6×6判と雑誌連載

小さい伝記〉は、1974年から1985年まで『カメラ毎日』に13回掲載された長期連載で、その大半がハッセルブラッドによる6×6判の正方形画面で撮影された*11。戦前のローライフレックス作品ではトリミングを行うことも多かったが、このシリーズでは撮影時の正方形を生かし、偶然出会った人々や日常の断片を簡潔に収めている。植田自身はこのシリーズを、カメラを介した「触れあいの記述」と説明した*11。雑誌連載は完成した代表作を一度だけ提示する場ではなく、その時々の出会いと写真家の変化を十二年間にわたって公開する制作の場になった。

〈白い風〉と〈砂丘モード〉――技法と媒体を更新する

白い風〉では、青年期の芸術写真で用いたベスト・ポケット・コダックの単玉レンズによる柔らかな描写をカラーフィルムへ移し、1981年の写真集としてまとめた*12。古い技法は淡い色彩と光を生み、山陰の風景を再構成する新しい実験となった。1983年からの〈砂丘モード〉では、砂丘をファッション写真の舞台として再び用い、依頼仕事の中に人物配置と距離感を展開した*13。植田は砂丘、正方形画面、写真雑誌、写真集、カラーフィルム、広告という異なる条件を往復し、同じ土地と身近な対象を、技術と媒体の変化に応じて作り直した。

§ 04 / 04 批評と写真史上の位置

リアリズムの時代に残した別の現実観

植田の演出写真は、1950年代にリアリズム写真が影響力を強めるなかで発表の中心から離れた。植田正治写真美術館は、植田が演出写真を否定されたように感じながらも、「写真におけるリアリズムとは何か」という問題に向き合い、造形的、主観的な実験を続けたと説明している*10。〈童暦〉以降の作品は、現実への関心と構成を対立させず、山陰の風土と人々を、撮影者との関係を含む現実として提示した。砂丘の演出、季節の連作、偶然の出会いは方法こそ異なるが、生活の中にある現実を自分の視覚へ組み替える点でつながっている。こうした画面構成は海外で「UEDA-CHO(植田調)」と呼ばれ、植田の仕事を識別する言葉として定着した*1

再評価と国内外への広がり

1960年のMoMAでの紹介に続き、植田は1978年と1987年のアルル国際写真フェスティバル、1982年のフォトキナなどで作品を発表した*1。1979年にはニューヨークの国際写真センターで開催された「Japan: A Self-Portrait」に参加し、1970年代のアメリカにおける日本写真紹介の一部を担った*14。1980年代半ば以降には国内で大規模な回顧展が相次ぎ、1995年には寄贈作品を収蔵する植田正治写真美術館が開館した*1。東京国立近代美術館は初期から晩年までの作品を所蔵し、作家ページで公開している*15。SFMOMAも植田の複数作品をコレクションに収めている*16。ゲッティ美術館にも植田の作家・所蔵記録があり、国内外の美術館で作品をたどることができる*17。これらの展覧会、写真集、所蔵、専門美術館の形成を通じて、植田の仕事は日本の演出写真と地方に根ざしたモダニズムを考える重要な参照点となっている。

§ REL 関連する写真家・運動
写真家
運動・論点
  • 新興写真 — カメラ固有の視覚と1930年代のモダニズム
  • 演出写真 — 人物配置と撮影者の介入
  • アマチュア写真 — 営業写真と作品制作を分ける自由
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写真集
砂丘―植田正治写真集

鳥取砂丘を天然のスタジオに変えた植田調の代表作を、砂と空の余白からたどる一冊。

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植田正治作品集

初期から晩年までの仕事を広く見渡し、演出写真、童暦、カラー作品をまとめて確認できる作品集。

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幻影的な光と構成に焦点を当て、植田の静かな詩情を別角度から読むための写真集。

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