エドワード・スタイケン(Edward Steichen)は、ピクトリアリズムと写真分離派を考えるうえで欠かせない写真家です。このページでは、ピクトリアリズムと写真分離派を手がかりに、写真史の流れの中での位置づけを、関連作家・運動・出典とあわせてたどります。
スタイケンがピクトリアリズムに向かった出発点は、写真が絵画と同等の芸術的地位を得るためには「絵画のように見える」ことが最も有効な戦略だという判断だった。ルクセンブルク生まれでアメリカ育ちのスタイケンは幼少期から絵を描き、ジェームズ・ホイッスラーのトーナリズム——霧と光の微妙な階調が感情を喚起する絵画——を深く吸収していた*1。プラチナ・ゴム重クロム酸塩多層刷りで同一ネガから3種の色調を生み出した「フラットアイアン」(1904年)は、「印刷プロセスそのものを絵画制作の場」として使う方法論を体現しており、「写真が絵画に規模・色彩・個性・表現において拮抗できる」ことの実証だった*2。1907年には「薄暮の3枚のプラチナプリント」が1000ドルで売れ——当時の写真作品として異例の高値——、ピクトリアリズムが芸術市場に受け入れられた証となった*1。しかし第一次世界大戦が転換点となった。陸軍写真部門の指揮官として航空偵察写真を統括したスタイケンは、精密・直接・操作なしの記録こそが写真固有の能力であることを経験的に確信した*3。戦後スタイケンは「私は画家として高級な壁紙に金枠をつけていたに過ぎなかった——全部燃やした」と語り絵画を捨て、コンデ・ナスト社の「ヴォーグ」「ヴァニティ・フェア」の首席写真家として人工照明・高コントラスト・鮮鋭焦点のストレート写真に転換した*4。1947年にMoMAの写真部門ディレクターに就任し、1955年の「人間家族」展を企画した——68カ国503名・503点の写真で「人類の共通性」を訴えた展覧会は38カ国を巡回し900万人が鑑賞した。写真が美術館制度の中で大衆と共有される媒体として確立した出来事だった*5。