ヴィクトリア朝イギリスで、肖像写真を単なる外見の記録から、感情、信仰、文学的想像力を帯びた像へ押し広げた写真家。ソフトフォーカス、近接、大判ネガ、湿板写真の揺らぎを用い、家族、使用人、文学者、科学者を、聖母、預言者、詩の登場人物のように撮影した。技術的な鮮明さをめぐる当時の規範に対し、写真が内面や演出を扱えることを早い時期に示した。
キャメロンは1815年、カルカッタの大きな貴族的家庭に生まれ、1840年代後半にイギリスへ移った*20。イギリスでは姉サラ・プリンセップのLittle Holland Houseサロンなどに出入りし、ディケンズ、テニスン、ダーウィン、ジョージ・フレデリック・ワッツらと交わったことが、National Gallery of Canadaによって確認されている*20。写真を始める前の彼女は、文学、美術、宗教、科学が重なり合う社交圏の中におり、Metも、カメラを贈られた頃のキャメロンを、深い宗教心を持ち、読書に親しみ、ヴィクトリア朝英国の主要な知性たちの友人だった人物として説明している*19。1842年にはジョン・ハーシェルから写真を紹介され、この初期の接触は、科学者との交友の中で写真を受け取る前提になった*20。1848年に夫チャールズ・ヘイ・キャメロンと子どもたちとともにイギリスへ移り、ワイト島フレッシュウォーターでは詩人アルフレッド・テニスンと近くに住み、ジョージ・フレデリック・ワッツ、ロバート・ブラウニング、チャールズ・ダーウィンら、ヴィクトリア朝の文学、科学、美術の人物を撮影できる環境にいた*5。1863年に娘夫妻からカメラを贈られる以前にも、彼女はアルバム制作や写真プリントの実験を行っており、カメラの受領は突然の趣味というより、既にあった像への関心が制作へ移る契機だった*2。V&Aが掲げる「目の前に現れるすべての美を留めたい」という彼女の言葉も、写真を外観の保存だけでなく、美や精神的な強度を扱う形式として受け取っていたことを示している*1。撮影開始からまもなく、石炭小屋を暗室に、鶏小屋をガラス張りのスタジオに転用し、家の内部と庭を制作の場へ変えた*2。1865年にはロンドンのコルナギ画廊で展示と販売を始め、同年サウス・ケンジントン博物館、現在のV&Aでも作品が展示され、1868年には同館内の部屋を肖像スタジオとして使ったことが記録されている*1。1875年にセイロン、現在のスリランカへ移った後も制作は続いたが、残された作品数は少なく、1879年に同地で没した*6。
キャメロンが用いた湿板コロジオン法は、ガラス板に感光性薬品を塗り、乾かないうちに撮影、現像、洗浄、ニス引きまで行う、身体的にも化学的にも負荷の大きい手法だった*2。この工程では、板の汚れ、薬品のむら、ほこり、ひび、指紋、塗布の流れが像に入り込みやすく、当時の標準から見れば失敗とされやすい要素が多かった*2。しかしキャメロンの写真では、それらの痕跡がすべて排除されるのではなく、光のにじみ、輪郭の揺らぎ、暗部から浮かぶ顔の密度と結びつき、被写体を正確に記録するよりも、見る者の前に「現れる」ような肖像を作っている。V&Aは、彼女がそれらの欠陥を意図的に全面的に歓迎したかどうかは断定していないが、割れたネガからプリントしたり、ネガを削って修正したり、複数のネガを使ったりした事実から、少なくとも一定の可視的な不完全さを許容していたことは確認できるとしている*2。この点でキャメロンのソフトフォーカスは、単にぼかした効果ではなく、湿板写真の物質的な不安定さを、顔、光、感情の強度へ組み替える方法だった。
1865年夏にキャメロンは15×12インチのガラスネガを使う大型カメラを導入し、従来の精密な肖像よりも、近接し、やや不鮮明で、感情的に強い肖像へ向かった*2。彼女はこの大きな肖像群について、サウス・ケンジントン博物館長ヘンリー・コールに、見る者を驚かせ喜ばせたいという趣旨の手紙を書いており、像の大きさと近接は、肖像を小さな身分証明ではなく、絵画に近い対面の経験へ近づけるものだった*2。たとえば《Sir John Herschel》では、学者を本や机や権威の記号で説明するのではなく、髪を乱し、黒い布と暗部の中から顔だけを浮かび上がらせ、旧約聖書の預言者のような存在として撮影している*7。《The Mountain Nymph Sweet Liberty》では、モデルの視線と顔が画面を満たし、ジョン・ハーシェルがその写真に「紙から頭を突き出して空中へ出てくる」ような存在感を認めたことが記録されている*8。キャメロンが目指した肖像は、人物の社会的地位を説明する像ではなく、顔の近さ、焦点の甘さ、暗い背景、光の偏りによって、外面と内面の境界を薄くする像だった。
キャメロンの被写体は、ダーウィン、ハーシェル、テニスン、カーライルのような著名人だけではなかった。彼女の制作では、家族、友人、使用人、近隣の人々が、肖像、聖母子像、文学的・歴史的・寓意的な場面のモデルとして繰り返し登場する*1。V&Aの解説によれば、彼女は自分の主題を「肖像」「聖母子群」「絵画的効果のための空想的主題」に分け、寓意的・物語的な作品では絵画や彫刻を参照し、ラファエロやミケランジェロの作品を写真で解釈した例もあった*2。こうした主題選択には、ヴィクトリア朝後半の美術文化が重なっている。V&Aは、1860〜1900年の英国の唯美主義を、産業時代の醜さと物質主義から離れ、美そのものへ向かった運動として説明している*23。Metのラファエル前派解説を見ると、彼らは中世・初期ルネサンス美術や宗教的・道徳的主題、詩や中世伝説を通じて、変化に揺れる近代社会に向けて、強い感情と視覚的な壮麗さの世界を組み立てていた*24。キャメロンが宗教、文学、神話、ルネサンス絵画へ向かったことは、写真を古い絵画に似せるためだけではなく、機械的な記録として見られやすかった新しい媒体に、ヴィクトリア朝の美、信仰、物語、手仕事の感覚を持ち込む試みでもあった。写真を始める以前から彼女が文学者、美術家、科学者の社交圏にいたことを踏まえると、その発想は、写真界の理論から先に生まれたというより、彼女の生活圏にあった文学、美術、宗教の感覚がカメラに入り込んだものだった*19。Morgan Libraryも、キャメロンがルネサンス絵画への没入から演出されたタブローを制作し、その形式が後の写真家によって繰り返し再発見されてきたと説明している*15。メイドのメアリー・ヒリアーは聖母像として頻繁に登場し、子ども、姪、友人たちも、現実の人物であると同時に、聖人、ミューズ、シェイクスピアやテニスンの登場人物として配置された*5。《Sadness》では、女優エレン・テリーの若い顔が感情の寓意として扱われ、個人肖像と演劇的役割が重なっている*17。この方法によって、キャメロンの家庭空間は、家族や使用人を撮る場所でありながら、写真が宗教画、文学、神話の記憶を引き受けられるかを試す小さな舞台にもなった。
テニスンとの関係は、キャメロンの演出写真を考えるうえで特に重要である。1874年、テニスンはアーサー王伝説を再構成した『国王牧歌』新版の写真挿絵をキャメロンに依頼し、キャメロンは家族や友人に衣装を着せ、少数の採用図版のために約245回の露光を行った*9。《The Passing of King Arthur》を含むこの連作では、アーサー王伝説の人物は、遠い物語の登場人物としてではなく、レンズの前に立つ身近な身体、衣装、身振り、暗い背景によって構成された*9。Metの解説によれば、キャメロンは写真が縮小され木版に置き換えられることに不満を抱き、最終的に原寸大の写真プリントを含む豪華版を自らのリスクで刊行した*9。ここでは、詩の世界を写真で説明するというより、写真そのものを詩の一部として残そうとする意識が強く表れている。神話的な場面の中に、家族や使用人の身体、湿板の光学的痕跡、手作業の不安定さが同時に残ることが、キャメロンの文学的作品の特徴になっている。
キャメロンの写真は、生前から評価と批判の両方を受けた。彼女はカメラを得て一年以内にロンドン写真協会の会員に選ばれたが、当時の写真雑誌は、写真の魅力を完全さ、細部、仕上げに見る立場から、あえてそれらを避けているように見える彼女の作品を批判した*5。つまり争点は、彼女が技術を知らなかったかどうかだけではなく、写真において焦点、細部、仕上げ、傷、演出のどれを価値とみなすのかという基準そのものにあった。この争点は、後のピクトリアリズムとの関係を考えるうえでも重要である。Art Institute of Chicagoは、ピクトリアリズムを写真の美学であると同時に、写真を他の美術と並ぶ個人的表現の媒体とみなす原理として説明している*21。Metも、同運動がソフトフォーカスのレンズ、質感のある印画紙、手で表面を変えられる技法によって、写真の表現力を強めようとしたと述べている*22。キャメロンの制作期はその運動が成立する前にあたる。それでも、焦点の甘さ、劇的な光、手作業の痕跡、宗教的・文学的な演出を通して、写真を外観の記録から感情や想像力の像へ移す態度は、後のピクトリアリズムが掲げることになる問題を、先に作品の上で扱っていた*2。後年、V&Aはキャメロンを19世紀の最も重要で革新的な写真家の一人と位置づけ、同館のコレクションには彼女の写真と手紙が大量に収蔵されている*1。RPSコレクションの移管後、V&Aのキャメロン作品は981点規模となり、一機関として最大のコレクションになったことも報告されている*4。Gettyのカタログ・レゾネは既知作品を総合的に整理し、制作年代、技法、アルバム、販売、展示、重要所蔵先までを研究できる基礎資料になっている*3。Baylorのデジタル・アーカイブは、Armstrong Browning Libraryにある10点のオリジナル写真を通じて、ブラウニング周辺に残った作品の所在を確認できる*10。同館の解説は、ロバート・ブラウニング宛ての肖像や、キャメロン自身が贈った署名入り写真を示し、彼女の写真が親密な贈与と文学的交友の中で流通したことを補強する*11。Bodleianのブログは、コリン・フォード関連資料が『Julia Margaret Cameron: The Complete Photographs』に関わる書類、書簡、写真を含むことを伝えている*12。同アーカイブの目録は、1974年以後の研究書簡だけでなく、スケッチブックや1895年のアルバムも含む資料群として整理している*13。近年も、ナショナル・ポートレート・ギャラリーはフランチェスカ・ウッドマンとの展覧会で、キャメロンの肖像を外見の記録を超え、想像力、象徴、変身、物語を呼び出す表現として提示している*14。Morgan Libraryの「Arresting Beauty」は、彼女の肖像と演出写真を、写真を感情と想像力の媒体へ変えた初期の重要な試みとして扱っている*15。Milwaukee Art Museumも同展で、近接、ソフトフォーカス、家族や友人、科学者、学者、芸術家、寓意・聖書・文学的場面を横断する制作を強調している*16。神話を写真で扱うという点では、キャメロンの作品は、後年の作家へそのまま流れ込む様式ではない。後年には、人物を外見の記録から象徴、変身、物語の像へ移す写真として、別の時代の作家とも並べて見直されている。ナショナル・ポートレート・ギャラリーはフランチェスカ・ウッドマンとの展覧会で、両者が外見の記録にとどまらない肖像を通じて、美、象徴、変身、物語を示唆したと説明している*14。アン・ブリグマンの《The Hamadryads》では、ソフトフォーカスと神話的主題を通じて、女性の身体を樹木や自然環境と重ねる表現が確認できる*18。キャメロンでは家族、使用人、友人が、聖母や詩の登場人物として画面に入り、写真が身近な人物を神話的な場面へ移す方法が前景化している*1。ブリグマンでは身体が自然の神話的存在へ近づくため、両者を結ぶのは同じ主題の継承ではなく、写真が人物を現実の身元から少し引き離す演出の働きである*18。彼女の写真では、正確な外観を示すはずの媒体に、内面、信仰、文学、身近な身体、制作時の痕跡が入り込み、19世紀の写真が何を写し、どこまで想像力を引き受けられるのかが、作品そのものの中で試されている。