ウジェーヌ・アジェ(Eugène Atget)は、ドキュメンタリーと都市記録を考えるうえで欠かせない写真家です。このページでは、ドキュメンタリーと都市記録を手がかりに、写真史の流れの中での位置づけを、関連作家・運動・出典とあわせてたどります。
アジェがカメラを手にしたのは1897年頃、40歳のときだった。俳優と画家への夢を断ち、「芸術家のためのドキュメント」(Documents pour artistes)と名刺に刷り、画家や工芸職人にパリの参照写真を売ることを生業にした。機材は時代遅れの大判木製蛇腹カメラ(18×24cm)とガラス乾板。プリントは1888年頃から第一次世界大戦まで、当時すでに廃れていたアルブミン印画法を使い続け、拡大機を一度も使わない接触プリントで仕上げた。金トーニング処理を施すため画面は純粋な黒白ではなく、深いセピア〜紫褐色の色調を帯びる。早朝のパリ——オスマンによる都市改造で失われつつある路地・中庭・店頭・廃娼館・行商人——を長時間露光で静止させた約10,000枚は、いずれも装飾を排した直接記録だった。アジェ自身は自分の仕事を「芸術写真」と位置づけなかった。1926年にマン・レイが数点を超現実主義誌『ラ・レヴォリュシオン・シュルレアリスト』に掲載しようとしたとき、アジェは「名前を出さないでくれ、これは単なるドキュメントだ」と答えたと伝えられる*1。しかしシュルレアリストたちはアジェの写真が持つ不在感・反射・人気のない街路に強く引かれた。哲学者ヴァルター・ベンヤミンは1931年の論考「写真の小さな歴史」で、アジェが写真から「アウラ」を解放したと論じ、その作品がシュルレアリスムに先んじて現実の疎外性を可視化したと評した*2。アジェの遺産を確立したのはアメリカ人写真家ベレニス・アボットだった。マン・レイのアシスタント時代にアジェと出会ったアボットは、1927年の死後、ディーラーのジュリアン・レヴィーの協力を得て遺したアーカイブをまとめて購入しニューヨークに持ち帰った。1930年代から展覧会と出版を通じてアボットはアジェを「近代ドキュメンタリー写真の先駆者」として提示した*3。1968年にMoMAがこのアーカイブを購入すると、写真部門責任者ジョン・シャーコウスキーは12年以上かけてアジェ自身の分類体系を再構築し、マリア・モーリス・ハンバーグとともに大規模な研究と展覧会シリーズを実現させた。シャーコウスキーの論旨は、アジェが「資料」という出発点にもかかわらず、光の階調・物体の質感・時間の断片性という写真固有の特性を通じて独自の視覚言語を獲得したというものである*4。「記録」と「表現」の境界が崩れる地点に、アジェは意図せず立っていた。