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PHOTOGRAPHERS/TOYOKO TOKIWA ·社会的ドキュメンタリー ·UPDATED 2026.06
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§ — — Photographer Index — 社会的ドキュメンタリー

常盤とよ子

Toyoko Tokiwa 1928–2019
Country日本 Movement社会的ドキュメンタリー Period1950 — 1960s Channel働く女性
Abstract

常盤とよ子は、占領後の横浜で、赤線、診療所、女子プロレス、ヌード撮影会、更生施設など「働く女性」の生活を撮った写真家である。『危險な毒花』では、女性が写真家として働くことへの問いと、赤線の女性を遠くから見る視線が会話と反復訪問によって変化する過程を、写真と一人称の文章で伝えた。

この写真家が変えたこと

常盤が広げたのは、女性の仕事を撮ることと、女性が写真家として働くことを同じ実践のなかで結びつける位置だった。『危險な毒花』は「男でなく女であることが、写真を撮るうえで不利になるのだろうか」という問いから始まり、写真家という職業が性別によって条件づけられる現実を出発点にしている。常盤は、赤線の女性を風俗的な好奇心や道徳的な類型へ閉じ込めず、働き、疲れ、休み、病み、制度のなかで生きる生活者として伝えようとした。個展、女性誌、写真集、女流写真家協会、テレビを横断した活動によって、女性が撮る側と著者の側に立ち、女性の生活を社会的な主題として届ける経路を広げた。

Keywords 社会的ドキュメンタリー 働く女性 『危險な毒花』 占領後の横浜 写真集 撮影倫理
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目次 · Table of Contents
§ 01 / 03 背景と時代

常盤とよ子は1928年に横浜で生まれ、1945年5月の横浜大空襲で被災し、父をこのときの火傷によって失った。1950年に東京家政学院を卒業した後、横浜の通信社でアナウンサーとして働き、後に夫となる奥村泰宏との出会いを直接の契機として写真に関心を深めた*1。横浜アマチュア写真連盟や白百合カメラクラブで撮影を学ぶ一方、土門拳が推進したリアリズム写真運動から、同時代の社会とそこに生きる人へカメラを向ける実践的な方向を受け取った*4。敗戦後の横浜は都心部の接収と多数の米兵の駐留によって基地の街となり、真金町、伊勢佐木町周辺では占領、貧困、歓楽街、性産業が日常の動線のなかで重なっていた*2。常盤は1953年頃からこの地域へ通い、街路の人々を撮る仕事から、赤線地帯で暮らす女性の生活へ関心を深めた*3。1956年の初個展「働く女性」では、デパート店員、看護師、ヌードモデル、女子プロレスラー、赤線地帯の女性など14の職業を扱い、同年には赤線地帯の写真が『カメラ』7月号へ掲載され、週刊誌にも取り上げられた*1

§ 02 / 03 表現の核心

「働く女性」を横断する

「働く女性」は、女性の労働を一つの職種や階級へ集約せず、接客、医療、スポーツ、モデル、性産業という異なる現場を同じ連作のなかへ置いた。AWAREの作家研究は、1956年の個展に「ショップガール」「ファッションモデル」「看護師」「赤線地帯の女」「女子プロレスラー」「ヌードモデル」「ダンサー」など14の職業が並んだことを記している*3。東京都写真美術館所蔵の《女子プロレス》は1955年の作品で、鍛えられた身体を競技の技術、興行の見世物、職業上の負荷が重なる場として示している*6。常盤の連作では、女性の身体は鑑賞される対象だけに限定されず、賃金を得る手段、専門性を発揮する場所、制度や観客の期待を引き受ける労働の条件として扱われた。労働を特定の産業や場所へ限定せず、接客、医療、スポーツ、モデル、性産業にまたがる女性の身体と生活として捉えた点に、「働く女性」という主題の広さがある。

撮られる女性から、撮る女性へ

戦後のヌード撮影会では、主に男性の撮影者が女性モデルを取り囲む構図が広く共有されていた。写真史研究者のケリー・ミドリ・マコーミックは、常盤が裸体のモデルだけでなく、その周囲で撮影する男性たちへカメラを向けた点に注目し、女性はレンズの前、男性はレンズの後ろにいるものだという写真文化の前提へ常盤の写真が応答したと論じている*5。同研究は、ヌード撮影会、女性写真家をめぐる雑誌報道、戦後リアリズムを同時に検討し、現実を直接写すとされた写真文化そのものが、誰を撮影者として認め、誰を被写体として配置したのかを問い直している。Apertureの研究記事によれば、戦後の女性による写真労働は結婚までの一時的な仕事として報じられることが多く、常盤のように写真を職業として継続する女性は例外的な存在として扱われた*18。常盤自身も職業を持つ女性の一人としてカメラの後ろに立ったため、「働く女性」という主題には、被写体の労働と写真家の労働が重なっている。

『危險な毒花』――一人称と、生活者へ近づく時間

1957年に三笠書房から刊行された『危險な毒花』は、国立国会図書館の書誌で244頁、うち図版64頁と記録され、写真に長い一人称の文章と短いキャプションを組み合わせている*7。同書は「男でなく女であることが、写真を撮るうえで不利になるのだろうか」という問いから始まり、女性が写真家として働くことを被写体とは別の問題として切り離さずに扱った*8。初個展では、男性には入れない場所を女性だから撮影できたと評価されたが、常盤は、女性の仕事がその種の題材を選んだ場合にだけ認められるという含意を快く受け取らなかった*18。赤線地帯での撮影も、最初から親密だったわけではない。AWAREは、常盤が当初は物陰から女性たちを撮り、生活へ近づきたいと考えて声をかけるようになり、やがて部屋の中まで撮影した経緯を記している*3。横浜市民ギャラリーも、同じ地域へ幾度も通うなかで信頼関係を築いたと説明している*4。《お六さんの部屋》は1956年に室内で撮影された作品で、街路から生活空間へ移った撮影の段階を示す一例となる*10。文章は、現場へ入った経緯、女性たちとの会話、撮影者が抱いていた反発や判断の変化を、写真だけでは示せない時間として補った。MoMA Postが確認した同館所蔵本では、1957年10月20日の初版から11月10日の第11刷まで短期間に版を重ねており、写真専門誌や展覧会の観客に限られない読者へ届いたことがわかる*8。常盤が伝えようとしたのは、性産業を刺激的な風俗として見せることではなく、そこで働き、疲れ、休み、病み、客には見せない時間を持つ女性たちを、個別の生活を持つ人間として社会へ届けることだった。写真と一人称の文章を組み合わせたことで、『危險な毒花』は赤線の記録であると同時に、撮影者が自分の偏見を認め、被写体との関係によって見方を変えていく過程を読者へ示すフォトエッセイになった。

親密さと隠し撮り――接近に残る限界

常盤の接近は、すべての写真で同じ方法や同意に基づいていたわけではない。横浜美術館の《たそがれの遊郭》解説は、常盤が盆の行列に紛れて赤線の女性たちを隠し撮りしたことを記している*9。東京都写真美術館所蔵の《診療所にて》は1956年の作品で、MoMA Postは『危險な毒花』の記述をもとに、常盤が白衣の下へカメラを隠し、医師の助手を装って撮影した経緯を報告している*8。常盤は、男性客には見せない女性の生活と傷つきやすさを写し、売春制度の負の側面を外部へ知らせる意味をこの撮影に見いだしていた。一方、患者が撮影と出版をどこまで認識していたかは、確認できた資料からは確定できない。近年、常盤の接近は「共感的な視線」と評価されているが、同じ作品群には反復訪問から生まれた親密さと、撮影を知らせない方法が併存しており、両者を分けて読む必要がある*8

赤線廃止後の保護と再編成

売春防止法は1956年に制定され、売春を助長する行為の処罰と、保護更生の措置を制度の目的に含めた*13。常盤は赤線地帯の営業が終わる場面だけで撮影を閉じず、診療所や婦人保護事業へ対象を移した。横浜都市発展記念館紀要第16号には「写真家・常盤とよ子が写した戦後神奈川の婦人保護事業」が収録され、常盤の写真群が戦後の福祉制度を検討する歴史資料として整理されている*12。この展開によって「働く女性」は、性産業の現場だけでなく、検査、治療、保護、更生という制度のなかへ置かれた女性の生活までを含む主題になった。

横浜から沖縄へ――基地の街を越えて続く主題

常盤は1959年、米軍統治下の沖縄に長期滞在し、「沖縄の微苦笑」を発表した*1。横浜都市発展記念館の回顧展は、横浜の赤線、横須賀、沖縄、婦人保護事業を一つの活動史のなかに置いている*2。横浜から沖縄へ撮影地を広げたことで、常盤の主題は一つの歓楽街の風俗記録にとどまらず、基地の存在が女性の仕事と生活に入り込む複数の地域へ展開した。街路や施設の外観だけを記録するのではなく、そこで働き暮らす女性の時間を追った点で、「働く女性」という主題は都市を越えて持続した。

§ 03 / 03 作品・媒体・受容

雑誌、展覧会、テレビ――女性写真家としての活動経路

常盤は写真雑誌の編集部員として出発したのではなく、通信社のアナウンサーを経て、写真クラブと雑誌投稿を足場に写真家としての活動を築いた。1956年の初個展「働く女性」と『カメラ』7月号への掲載は社会的な注目を集め、翌年には『危險な毒花』の刊行と今井寿恵との二人展が続いた*1。Apertureの研究記事は、「働く女性」が1957年6月号の『婦人公論』に掲載され、女性誌がこのシリーズを継続的に伝える主要な場になったと指摘している*18。写真専門誌だけでなく女性誌へ掲載されたことは、作品を写真界の内部にとどめず、働く女性自身を含む一般読者へ届ける経路になった。1958年には常盤、今井ら14人が女流写真家協会を結成し、第1回展を開催した*1。その後も横須賀や沖縄など米軍基地のある街を取材して雑誌や展覧会で発表し、1962年から1965年にはテレビ映画「働く女性たち」を制作した*1。常盤が女性写真家として自身を確立した過程は、一冊の写真集だけではなく、雑誌、個展、一般出版社、女性写真家の組織、映像を行き来する継続的な活動によって形づくられた。

「10人の眼」と、女性写真家の別の活動経路

1957年、常盤は福島辰夫が企画した第1回「10人の眼」展に参加し、東松照明川田喜久治細江英公らと同じ場に作品を発表した*14。同展は後のVIVOへつながる重要な契機になったが、常盤はVIVOの構成員にはならなかった。常盤が進んだのは、一般出版社からの写真集、女性誌への掲載、今井寿恵との二人展、女流写真家協会、横浜を基盤とする取材、テレビ映画を組み合わせる経路だった*1。この活動歴は、戦後写真が前衛的な写真家集団だけで形成されたのではなく、社会問題を扱う出版物、女性写真家の職業的ネットワーク、地域に根ざした記録によっても広げられたことを示している。

アーカイブと国際的再検討

2018年、常盤と奥村泰宏が残した紙焼き、ネガ、カメラなどが横浜都市発展記念館へ寄贈され、同館の展覧会では「働く女性」、赤線地帯、お六さん、沖縄、婦人保護事業が一つの活動史として再構成された*2。同館は現在、戦後横浜の写真159点を公式アーカイブで公開している*15。2024年にApertureが刊行した『I’m So Happy You Are Here』は、常盤を含む25作家のポートフォリオと、作家の文章、インタビュー、書誌を収録し、日本の女性写真家を世代横断的に検討する枠組みを提示した*16。2025年のFotomuseum Den Haag展でも常盤は、女性の経験と日本社会を写真がどのように表してきたかを再検討する国際的な調査の一部として展示された*17。この再検討によって、常盤の仕事は赤線地帯の証言写真だけでなく、女性の労働、女性写真家の職業形成、写真集と言葉、撮影距離の変化を結ぶ作品群として読み直されている。

§ REL 関連する写真家・運動
Photographers · 写真家
  • 土門拳 — リアリズム写真運動を通じて、同時代の社会へカメラを向ける出発点を考える。
  • 東松照明 — 「10人の眼」と、占領や基地の街を異なる方法で撮った同時代の写真家。
  • 石内都 — 横浜、横須賀、身体、記憶を通して、基地都市を異なる世代から捉える。
  • 潮田登久子 — 女性写真家の活動史、生活を写す方法、近年の国際的再検討という文脈で接続する。
Movements · 運動・表現
  • リアリズム写真 — 社会的現実へ向けた撮影姿勢と、撮影者の立場を作品に残す常盤の方法との差を読む。
  • 社会的ドキュメンタリー — 労働、医療、福祉、占領を、被写体との関係と撮影倫理を含めて記録する表現。
§ REF さらに読む
『危險な毒花』
常盤とよ子 · 三笠書房 · 1957
写真、長文、キャプションを通して、働く女性の生活と撮影者の認識の変化を構成した主要著作。
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『戦後50年横浜再現――二人で写した敗戦ストーリー』
奥村泰宏・常盤とよ子(岡井耀毅 編) · 平凡社 · 1996
常盤と奥村泰宏が戦中・戦後の横浜で撮った写真を、半世紀後の同地点の再撮影と並べ、占領下から復興までの都市の変化をたどった共著写真集。
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『I’m So Happy You Are Here: Japanese Women Photographers from the 1950s to Now』
Aperture · 2024
常盤を含む日本の女性写真家25人を、作品、文章、インタビュー、書誌から再検討する調査出版。
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§ SRC 出典