マーティン・パーは、英国の海辺、家庭、買い物、観光、食べ物を、飽和したカラーと近距離のフラッシュで撮影した写真家である。白黒の社会的ドキュメンタリーを背景にしながら、悲劇や告発に寄せすぎず、消費社会の中で人々がどのような身振り、物、色、余暇の形式をまとっているかを、写真集と展示の連続したイメージで見せた。英国ドキュメンタリー、ニューカラー、フォトブック文化が交わる地点で、日常の凡庸さを社会の自己像として扱った。
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マーティン・パーは1952年、イングランド南東部サリー州のエプソムに生まれ、祖父ジョージ・パーにカメラ、現像、プリントを教わった経験から写真へ向かった*18。本人は後年、ロンドン近郊の郊外であるエプソムで育った自分にとって、祖父と過ごしたヨークシャーは別の共同体の感覚に触れる場所であり、祖父に借りたカメラで撮影し、フィルムを現像してプリントを作ったことが、十三、十四歳で写真家を志すきっかけになったと語っている*22。1970年から1973年までマンチェスター・ポリテクニックで写真を学び、同校で1972年にビル・ジェイが紹介したトニー・レイ=ジョーンズの仕事が、自国の日常を撮るうえで大きな刺激になった*22。レイ=ジョーンズは1960年代後半にイングランド各地を旅し、海辺、祭り、社交儀礼、風変わりな慣習を、消えつつある生活様式としてユーモアと哀愁を含めて撮影していたため、パーにとって「英国人を撮ること」は、政治的事件だけではなく、自国の余暇、身振り、習慣、地方の儀礼を写真の主題にする可能性として見えた*26。初期には北イングランドやアイルランドのコミュニティを白黒で撮影し、のちに本人の回想でも、『The Last Resort』で白黒からカラーへ移ったことが大きな転換点として語られている*22。この形式にたどり着くまでには、トニー・レイ=ジョーンズの英国観察、Creative Cameraを通じて見たロバート・フランク、リー・フリードランダー、ギャリー・ウィノグランドらのアメリカ写真、さらに1970年代後半以後、アメリカでカラー写真が真剣な写真表現として美術館で扱われ始めた状況が重なっていた*27。この移行は、英国の社会的ドキュメンタリーが長く共有してきた白黒写真の倫理や階級表象をただ否定するものではなく、余暇、食品、観光、記念撮影、買い物といった日常の断片を、1980年代以後の消費社会の表面として可視化するための方法だった。マグナム・フォトスの作家紹介は、パーの写真を「現実からフィクションを作り出す」ものとして整理し、100冊を超える自著と多数の編集書、展覧会、キュレーション、コレクション形成を通じて写真文化に関わった作家として位置づけている*3。2021年には写真への貢献によりCBEを受章した*4。2025年12月6日、ブリストルの自宅で死去した*2。
白黒の共同体から、色彩の消費社会へ
パーを写真史の中で考えるとき、重要なのは「カラー写真を使ったドキュメンタリー作家」という分類だけではない。パーがカラー、フラッシュ、近距離、反復的な写真集編集へ向かったのは、従来のドキュメンタリーを否定するためというより、その対象や語り口だけでは捉えにくい1980年代以後の社会へ向き合うためだった。彼が見ていた社会では、階級や欲望や国民性が、工場や貧困の現場だけでなく、余暇、買い物、食べ物、室内装飾、観光の身振りのような日常の表面にも現れていた。MoMAのカタログは、1970年代以後にカラー写真が若い写真家にとって現代生活をより正確に記述する手段になり、パーにとって色が写真の意味に不可欠だったと説明している*5。また同カタログは、服、買い物袋、新築住宅、家具、食べ物が白黒では得られない活力を帯びるため、英国の中流階級という主題はとくにカラーに適していたと述べている*5。Le Mondeは、パーが戦争や飢饉などの例外的な出来事ではなく、自身の階級である中間層と、その衣服、余暇、室内装飾、車、観光、食べ物、スーパーマーケットを主題にしたと整理している*16。つまり、パーの方法は、社会的苦境を尊厳ある像へ翻訳する従来の人道主義的ドキュメンタリーから、生活様式の表面に現れる階級、欲望、消費、グローバル化を読むための方法へ、ドキュメンタリー写真の対象と形式を広げるものだった。英国では、ビル・ブラント、ドン・マクリン、クリス・キリップらに連なる白黒の社会的ドキュメンタリーが、労働、貧困、共同体、産業衰退を重く、しばしば尊厳のある対象として写してきた。その系譜に対して、パーは被写体を悲劇化せず、同時に広告写真のように美化もしない。画面に入ってくるのは、紙皿、アイスクリーム、安価な服、日焼けした肌、観光地の記念写真、混雑したビーチ、過剰な色の商品であり、それらは人物の心理を説明するための小道具ではなく、社会が自分自身を見せてしまう表面として働く。MoMAが1991年に開催した「British Photography from the Thatcher Years」は、ジョン・デイヴィス、ポール・グレアム、クリス・キリップ、マーティン・パー、グレアム・スミスを取り上げ、サッチャー政権期の英国社会の変化と、政治的な標語や単純な解決策では捉えきれない写真表現のあり方を結びつけて示した*5。この流れの中でパーにとって決定的だったのは、カラーが単なる商業写真や家庭写真の色ではなく、同時代の生活を記述できる写真の言語として見え始めたことだった。パー自身も、英国ではカラー写真が長く商業的・家庭的なものと見なされ、真剣な写真として受け止められにくかったが、1970年代後半にアメリカでスティーヴン・ショア、ウィリアム・エグルストン、ジョエル・マイヤーウィッツらのカラー写真が美術館で展示されているのを見て、カラーへ移らなければならないと考えたと回想している*27。ただしパーは、その影響をアメリカのニューカラーの作風として反復したのではない。彼は、カラー写真が開いた日常への視線を、ニュー・ブライトンの海辺、安価な娯楽、食べ物、服、商品、混雑、プラスチックの明るさへ向けた。『The Last Resort』での飽和した色彩とオンボード・フラッシュは、経済や社会が衰退した海辺のリゾートで、それでも娯楽を見つける人々を写すための手段になった*7。その意味でパーのカラーは、美的な特徴にとどまらず、1980年代英国社会の生活様式を記述するための方法だった。同展のファクトシートは、政治的プログラムへの信頼が失われた状況の中で、各作家がより個別的な直観から英国社会を写したと説明し、パーについては「乾いたユーモア」によって英国の新興中流階級を扱う鮮やかなカラー写真として紹介している*6。この整理から見ても、パーの色彩は画面を派手にする装飾ではなく、白黒では見落とされやすい商品、服、家具、食べ物、余暇の細部を社会の主題として立ち上げる選択だった*5。パー本人の発言から見ると、彼は消費社会を外から糾弾するためにカラーを選んだのではなく、現実の細部を自分の距離と関心によって組み替える方法として写真を扱っていた。2025年のインタビューでは、自分の写真を「現実からフィクションを作る」ものと説明し、すべては真実だが、それは自分の関係性から生まれる個人的な真実だと語っている*17。また、白黒写真そのものを否定したわけではなく、2019年のインタビューでは、白黒は物事を分析し単純化する傾向があり、カラーはより陽気にも見えると述べ、色が持つ見え方の違いを方法として選んでいた*19。写真で世界を救うという人道主義的な写真観からの距離は、パー自身の発言にも表れている。Observerの回想で、パーは写真が世界を変えるという考えに同意せず、自分はカメラで観察し提示するだけであり、政治性は背景に残るかもしれないが、仕事としては娯楽を作っていると述べている*25。パーが生活様式のグローバル化と進歩が地球を壊していることを示したいと述べた背景は、急に自然保護の主題へ向かったことではなく、産業経済がサービス社会へ変わり、余暇、買い物、観光、食が社会の中心に移っていく過程への長い関心にあった*16。同記事は、その欲求が、ミュージアムや写真集だけでなく、街頭ポスター、壁紙、シャワーカーテン、通販カタログ、ポストカード、ファストフード店のメニュー写真にまで及ぶ、写真への広い関心につながったと説明している*16。そのため、パーの諷刺は、消費社会を外側から裁く姿勢ではなく、消費社会の内部にいる人間が、自分自身の欲望や滑稽さを身振り、商品、余暇、色彩として表してしまう状態を見せる方向に向かっている*16。パーの画面では、安価な色、プラスチック、食べ物、日焼けした身体、観光地のポーズ、混雑したビーチのような表面が、人物の内面を説明するためではなく、生活様式、階級感覚、消費の欲望が外へ現れる場所として扱われる。この点でパーが1980年代以降のドキュメンタリー写真にもたらした変化は、劇的な事件や貧困の極端に集中していた社会記録を、カラーの魅惑、中流階級、余暇、消費物、写真集の反復へ広げたことにあった*5。
『The Last Resort』の近距離フラッシュ
その方法が最初に強い反応を生んだのが、1983年から1985年にかけてニュー・ブライトンで撮影され、1986年に写真集として刊行された『The Last Resort』である。マグナムの作品解説は、このシリーズを、経済的に衰退した海辺のリゾートで人々がなお楽しみを見つける姿を、飽和したカラーとオンボード・フラッシュで写した作品として説明している*7。パー本人は、1980年代のニュー・ブライトンがサッチャリズムの時代にあり、リドが閉鎖され、地域の経済的な苦境が背景にあったと述べている*7。しかし、この作品が論争を生んだ理由の一つは、衰退する労働者階級を哀れみの対象として単純化しなかった点にある。画面の中では、ゴミ、食べ物、派手な衣服、乳母車、混雑、日光浴、子ども、親密さ、疲労が同時に存在し、そこにある楽しさと荒廃を切り分けることができない。従来の人道主義的な写真が、被写体の苦境を共有可能な尊厳へと翻訳しようとしたのに対し、パーは被写体が消費社会の中で身につけている色、味、仕草、レジャーの形式をそのまま前面化した。そのため、発表当時の反応は分裂した。『The Last Resort』はリヴァプールでは比較的肯定的に受け止められた一方、ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーで展示された際には、労働者階級を冷たく見下している、あるいは残酷で覗き見的だという批判を受けた*8。ただし、マグナムの解説に残るパー自身の言葉では、彼の関心は「階級」そのものよりも、泣く子どもや悪天候のように誰もが処理しなければならない日常の事実に向けられていた*7。パーがここで作った写真は、貧困を隠していないが、貧困だけに回収される写真でもない。この作品は、英国のシーサイド文化という文脈でも読まれている。Silvia Piredduの論文は、『The Last Resort』の海辺を自然の風景ではなく、コンクリート、駐車場、錆びた構造物、食べ残し、プラスチック容器のような物が集まる人工的な環境として読み、そこではノスタルジーではなく現実が前面に出ていると分析している*28。同論文は、英国の海辺が中流階級と労働者階級にとって、食べること、休むこと、社交することを別の形で行う場所として成立してきたと述べており、パーの写真は海辺を単なる背景ではなく、英国の余暇と階級が表面化する場として扱っている*28。むしろ、英国の階級、余暇、家族、食べ物、観光、公共空間が、色彩と近距離のフラッシュによって一つの過密な画面に押し込められ、ドキュメンタリー写真が「社会をどう見るべきか」ではなく「社会はすでにどう見えてしまっているか」を問うものへ変わる重要な契機の一つになった。
記録、展示、写真集のあいだ
1990年代以降のパーは、英国の階級表象だけでなく、観光と消費のグローバルな反復へ視野を広げた。『Small World』に代表される観光写真では、ピサの斜塔の前で同じポーズを取る観光客、世界各地の名所を「行った証拠」として撮る行為、絵葉書的な期待と現地の現実のズレが反復される*9。マーティン・パー財団の『Small World』解説も、このシリーズを、観光客が「本物の文化」を探す行為そのものが観光地の変質に関わるという、グローバル観光への辛辣な諷刺として説明している*10。ここでパーの写真は、観光客を単に笑うのではなく、写真を撮ること、場所へ行くこと、同じイメージを所有することが、現代の儀礼になっていく過程を可視化する。観光研究の文脈では、Theopisti Stylianou-LambertとElena Stylianouが『Small World』のパーを「traveller-critic」「professional post-tourist」と位置づけ、観光客の中に混じって撮影することで、文化やレジャーを商品として求めるグローバル観光の行動を諷刺的に見せていると論じている*30。同研究は、『Small World』を観光客を外側から嘲笑する写真ではなく、パー自身も移動し、観光産業の内部で撮影する作家として、観光する身体とカメラの反復を記録した仕事として位置づけている*30。さらに『Common Sense』では、食べ物、商品、身体の一部、安価な消費物が極端な近接と強い色で切り出され、世界の消費文化が、地域差を持ちながらも似た手触りの表面へ変換されていく*11。このシリーズが1999年に多数の会場で同時展示されたことは、写真を一点の代表作として見るよりも、写真集、展示、連続するイメージの束として経験させるパーの方法を示している*1。パーの仕事がドキュメンタリー写真とアートのあいだに置かれるのは、対象と提示方法が分かれるからである。撮影の出発点は実在の場所と人間の行動にあり、海辺、家庭、観光地、買い物の場で、誰が何を食べ、どんな服を着て、どんな記念写真を撮り、どんな商品に囲まれているかを観察する。その意味では現実を記録する写真である一方、作品化の段階では、色の強さ、フラッシュの距離、似た身振りの反復、写真集の配列、複数会場での同時展示によって、個々の出来事を社会の型として読ませる。この操作によって、撮影された事実はそのままの証拠としてではなく、見る順番と量によって意味を生む連続体として提示される。公式PDFに収録されたトーマス・ヴェスキの解説は、パーが同じ写真を美術写真、展覧会、アートブック、広告、ジャーナリズムの文脈で発表し、写真の種類の伝統的な分離を越えたと説明している*18。マクマレン美術館も、パーをウォーカー・エヴァンズ、ビル・ブラント、ロバート・フランク、リゼット・モデルらのドキュメンタリーの系譜に置きつつ、商業写真、報道写真、美術のモデルを横断し、親しみと異物感が重なる視覚的・概念的語彙を作った作家として説明している*23。パーはまた、作家であると同時に収集家、編集者、キュレーターでもあり、ジェリー・バジャーとの『The Photobook: A History』は、写真史を単独の名作プリントではなく、本という流通形式から考える動きの一部になった*12。Los Angeles Review of Booksは、パーとバジャーの仕事を、何が芸術かを判定するよりも、何が注目に値するのかを再評価する試みとして紹介し、『The Photobook: A History』が写真集への関心の高まりに寄与したと述べている*32。Collector Dailyも、パーとバジャーが自分たちの本を写真の「非公式な修正史」と見なし、写真集を美術館のプリントと並んで扱う流れを広げたと説明している*33。Art Fundは、彼のフォトブック・コレクションが、キッチュや国民性や文化的クリシェへの関心と結びつき、写真を印刷物と収集の文化から捉える視点を作っていたと説明している*20。この点でパーの重要性は、何を撮ったかだけでなく、写真がどこで、どの順番で、どの媒体を通じて読まれるかを強く意識したことにもある。彼の写真は壁面のプリントとしても機能するが、写真集の中では、反復される構図、似た色、似た身振り、似た消費物が積み重なり、世界の均質化と差異の両方を見せる。つまりパーは、ドキュメンタリー写真を「決定的な一枚」から「社会的な癖を集めた連続体」へとずらし、フォトブック文化の中で写真の読み方そのものを広げた作家でもあった。
日常の大部分を写すコンセプチュアル・ドキュメンタリー
パーが戦争や災害ではなく、観光、食べ物、駐車スペース、室内、買い物のような反復する日常へ向かった背景には、ドキュメンタリー写真の主題が例外的な出来事に偏りがちだという意識があった。Le Mondeによれば、彼は戦争、飢饉、ホームレス、工場閉鎖、ドラッグのような出来事を扱う報道写真家と自分を区別し、そうした例外的な出来事を「5%」としたうえで、残りの「95%」にあたる普通の生活を理解したいと語っていた*16。この文脈で、パーは自身の中間的な方法を「コンセプチュアル・ドキュメンタリー」と呼び、対象を調べ、同じ種類のものを繰り返し撮り、シリーズとして組み上げる実践だと説明している*16。ただし、この言葉の要点は、撮影前の手続きそのものではなく、例外的な事件や一枚の決定的瞬間では見えにくい普通の日常を、反復と編集によって初めて読める対象にすることにある。パーは、多くのドキュメンタリー写真家が被写体の前にカメラを置き、すでに撮られたようなイメージを繰り返していると批判し、「すべては撮られてきた以上、重要なのはアイデア」だと述べていた*16。世界中で似た形をもつ駐車スペースを撮るプロジェクトについて、彼はばかげたイメージの集合でありながら、人々が居場所を探し、世界の中でアイデンティティを失っている状態を示すものだと説明していた*16。つまりパーにとってコンセプチュアルであることは、現実から離れることではなく、ありふれた対象を選び、何度も似た形式で見せることで、社会の癖、欲望、均質化を読者の側に発見させる方法だった。MEPでの回顧展評は、初期のパーの仕事が人間主義的なドキュメンタリーとコンセプチュアルな実践のあいだを動いていたと指摘し、《Love Cubes》(1972)や《Home Sweet Home》(1974)をその初期例として挙げている*21。ここでいうコンセプチュアルな実践は、街頭の偶然だけに頼らず、ゲームや室内、装飾、日用品を使って、生活の形式そのものを観察可能な場として作ることを含んでいた。Le Mondeは、マンチェスター・ポリテクニックの卒業制作であった《Home Sweet Home》を、十代の寝室をピンクの壁紙、偽の暖炉、造花、安価な香水まで含めて再構成したインスタレーションとして説明している*16。この初期作品は、パーが人物や街頭風景だけでなく、趣味、装飾、安価なイメージ、生活空間の作られ方を、後の写真作品につながる主題として見ていたことを示している。この室内と趣味への関心は、1992年の『Signs of the Times: A Portrait of the Nation's Tastes』で、より明確な社会的主題になった。Karine Chambefort-Kayの研究は、この本がパーの消費実践への関心と、彼の特徴となる新しい社会的ドキュメンタリーの根をたどるものだとし、サッチャー時代末期の住宅装飾ブームを、個人主義、物質主義、上昇志向へ向かう英国社会の変化として分析している*29。同研究は、写真と住人の言葉の組み合わせが、商品フェティシズム、小さな差異への執着、物を通じた自己同一化を見せると述べており、パーの消費社会への関心が海辺や観光だけでなく、家庭の内部にも向かっていたことを支えている*29。Schürmannの研究は、コンセプチュアル・ドキュメンタリー写真集を、一枚の決定的な写真ではなく、編集、配列、列挙によって視覚的な議論を作る本として論じている*24。同研究によれば、リスト化された写真は、個々の対象を元の文脈からいったん切り離して単純化しながら、本の中で隣り合う別の写真と結びつくことで、新しい意味構造の中で複雑になる*24。この視点から見ると、『Small World』の観光客や『Common Sense』の食べ物、商品、身体の断片は、一枚ずつの面白さだけでなく、ページをめくるたび似た行為や色が繰り返されるリストとして働く。その反復によって、パーの写真は、見る側に結論を押しつける告発ではなく、笑い、不快感、親しみを同時に起こしながら、自分もその消費文化の内側にいることを意識させる形式になっている*25。そこにある批評性は、説明的な文章ではなく、日常の表面を明るく、近く、数多く見せる写真の連続から生まれている。
パーの評価の過程では、作品の評価が初期から安定していたわけではない点が重要である。1994年にマグナム・フォトスへ参加する際には、フィリップ・ジョーンズ・グリフィスが強く反対し、パーの写真は被写体への共感というマグナムの人道主義的な基盤を損なうものだと見なされた*13。アンリ・カルティエ=ブレッソンもパーのカラー写真と観光の主題に強い違和感を示したが、マグナムの展覧会テキストは、両者の差異を単なる対立ではなく、20世紀後半に写真が人道主義的報道から観光、広告、日常の演出へ広がっていく過程として捉えている*14。後年の評価では、その違和感は、パーの方法が従来の人道主義的ドキュメンタリーから大きく離れていたことを示すものとして読まれている*14。ヴァル・ウィリアムズは、パーが「変化が印をつける領域」に惹かれ、人々の趣味や選択に関心を持っていたと述べており、この見方はパーを単なる消費社会の風刺家ではなく、生活の変化を趣味や物の選択から追う写真家として位置づける*34。Le Mondeは、パーの写真が普通のものを写していたからこそ特異であり、ドキュメンタリーというジャンルを変えたと評している*16。その変化は、被写体への共感を前提にした白黒の人道主義的な社会記録から、カラー、笑い、違和感、中流階級、消費物、写真集の連続性によって日常を社会の言語として扱う方向への移動だった。Apertureのクリス・ブートは、パーが英国の自己像の見方と写真史の語られ方を変えたと述べているが、その意味は、英国を重い産業社会や共同体の記録としてだけでなく、海辺の余暇、街頭の儀礼、食べ物、キッチュな消費物、観光のポーズ、自己風刺を含む日常の集合として見せた点にある*15。同じ文章でブートは、2004年のアルルでパーが23の展覧会を構成し、ジョン・ハインドのバトリンズ写真、ヘンリク・ロスのウッチ・ゲットー写真、トニー・レイ=ジョーンズ、キース・アーナット、クリス・キリップの作品、写真エフェメラやサダム・フセイン腕時計のコレクションまで並べ、作家写真からヴァナキュラーなイメージまでを含む現代ドキュメンタリー写真の広がりを示したと記している*15。したがって「写真史の語られ方を変えた」とは、写真史を有名作家と単独の名作プリントだけで語るのではなく、写真集、匿名的な写真、収集物、展示の編集、地域の記録まで含めて、ドキュメンタリー写真をアートであり言語でもあるものとして見直した、という意味に近い*15。一方で、パーの写真が諷刺なのか、愛情なのか、冷酷な距離なのかという問題は解消されていない。Le Mondeの追悼記事は、パーの被写体が観光、ジャンクフード、スーパー、余暇など日常の大部分に広がり、彼が例外的な事件よりも普通の生活の側へ関心を向けていたことを紹介している*16。この整理に沿えば、パーの写真は劇的な事件を追う報道写真ではなく、ふだんは価値の低いものとして見過ごされる日常の形式を、社会の自己像として撮るドキュメンタリーだったと位置づけられる*16。2017年にブリストルの専用スペースで開かれたマーティン・パー財団は、英国とアイルランドの写真を収集、展示、支援する場として、パーの活動を作家個人の作品制作から写真文化全体の保存へ広げた*4。さらに後年の研究では、パーの仕事をポストコロニアルな視線と結びつける読みもある。Cammie Tipton-Aminiは《7 Colonial Still Lifes》を、スリランカに残る英国植民地主義の痕跡を、食べ物や小物のような一見平凡な静物から扱う作品として論じている*31。マーティン・パー財団の販売ページも、《7 Colonial Still Lifes》がコロンボ、キャンディ、ヌワラ・エリヤで撮影された七点のイメージから成る本であることを示しており、パーの「普通のもの」への関心が、英国国内の階級や観光を越えて、植民地の記憶が残る物の表面にも向かったことを確認できる*35。そのため現在のパーは、英国の階級と消費社会を撮った写真家であるだけでなく、カラー・ドキュメンタリー、観光批評、写真集編集、アーカイブ形成をつなぐ存在として読まれている。
- ロバート・フランク ― Creative Cameraを通じて触れたアメリカ写真の一人で、初期の方向づけに影響した。
- リー・フリードランダー ― 同じくパーが参照した、アメリカのスナップ/ストリート写真の作家。
- ゲイリー・ウィノグランド ― 自国の日常を撮るスナップの先例として参照した。
ニュー・ブライトンの海辺から、英国ドキュメンタリーをカラーとフラッシュで更新した代表作。
同シリーズを別版でたどるためのリンク。パーの転換点を手元で確認できる。
写真集史を作家自身のコレクションと視点からたどる、フォトブック理解の基本書。